待つ足音

 デュオニュソス。

 パルテノンコーポレーションが開発した、念象力を増幅する小型機械。脳に微弱な、特定のパターン電気刺激を与えることで、それに必要なホルモン、脳内物質の分泌を促す。

 そして、そのというのが、しな子のものだったのだ。


 はじめ、特別被験体として試験的に運用されていた、しな子の知り人である土井紗和では、もともとの力が弱すぎた。

 ゆえに、、より強力な力を持つしな子を宿主とした。そして、しな子の力のパターンを、記憶したのである。

 それが、デュオニュソスの、ほんとうの存在理由。

 それを植え付けられた人間は、誰でも、しな子になれる。

 おかあさん。

 これが取り付けられた男がしな子に向かって皮肉っぽく言ったのは、あながち間違いではない。

 しな子のが、あちこちに。いや、世界中に。

 量産されたそれは、誰かの都合のために互いの身を焼き合い、そして無意味に命を炭にするのか。

「わたしは、兵器じゃない」

 とは、しな子は言わない。

 ただ、沈鬱な表情で自分を見つめる赤部に、

「なに?」

 と無表情に返しただけだ。

「いや、しな子。済まない」

 しな子が被験体にされたのは、赤部のせいである。少なくとも、赤部はそう思っている。そのことを言ったのだ。

「――言いっこなしよ」

 しな子は、興味無さげに、麻酔で眠る男と赤部から、眼と身体を背けた。

「また、パルテノン?」

「そうなのかもしれない」

 赤部とパルテノンとの繋がりは、完全に切れていた。裏の世界で生きるうち、少しずつ蝕まれていった赤部は、自らが最も大切にしなければならないはずのものをも巻き込んだのだ。それを、赤部は、深く後悔した。

 パルテノン側の協力者のような顔をしながら赤部やしな子を利用していた松本という男は、死んだ。しかし、それで全てが終わるとは思えなかったし、実際、そうだったのだ。

 しな子は、力を失ってもなお、まだ苛まれ続ける。自らを焼いた幼き日の炎に。

 しな子は、また戦わなければならない。自らが失ったはずの、力そのものと。

 しな子は、もう一度、麻酔で眠る男を見た。

 しな子が昨夜砕いた鼻は、治療されずそのまま残っている。

 たぶん、このあと、あれこれ調べられ、それが終わればされるのだろう。

 どちらにしろ、しな子は興味がないらしい。



 ところで、リトル・ウイングは、民間からの依頼も受ける。森諭もりさとし名義で赤部が借りているマンションの無人の部屋を所在地として登録しているNPO法人に依頼をしてくる時点で、からのものであることが分かる。そして、その内容とは、汚れた仕事ウエットワーク

 唯一の特務員は、しな子。

 代表の赤部が、それを補佐する。

 二人のスタンスは、変わらない。

 しな子は、を、嫌だと思ったことはない。

 好きとか嫌いとか、良いとか嫌とかいう次元の話ではないのだ。

 この現世で、しな子が生命活動を維持していくつもりならば、それを続けるしかないのだ。

 失ったもの。

 あるはずであったもの。

 奪われたもの。

 これから、得るもの。

 それは、戦い、打ち倒すことでのみ、越えられる。

 彼女の二本の足が、地上に着いていることの、唯一の証明になる。片鱗かけらでもいい。それを与えてくれるという存在は、しな子にとって、あるいは友人のような特別な、あるいは、そこにあって当たり前の、空気のような存在なのかもしれない。


 諜報部の分析官が、ブリーフィングを始める。これも、以前と同じ。ただ、人数が減った。人数が減ったぶん、しな子は一人一人の名前と顔を覚えることができた。この分析官は、確か吉田アヤだったかマヤだったか、という名であったはずだ。しな子より少し歳は上だが、女性らしい細やかな情報分析をする。

 薄暗くなった部屋の中、プロジェクターから放たれる光がスクリーンに写し出される。ときおり、彼女が動き、プロジェクターの前に立ち、何かを指し示したりする。その度、夏物の白いブラウスや、それに似た色の彼女の肌に、映像が重なる。それを、しな子は綺麗だと思いながら見ていた。

 依頼の主は、東南アジア、中国などと日本を繋ぎ、輸出品を互いに運ぶことを事業としている運輸企業。その積み荷には、表に出ぬ方がよい類いのものもある。それはよくあることだが、それについて深く詮索し過ぎたある従業員が今回の対象である。

 正直、しな子にとっては、ブリーフィングなど、どうでもいい。

 対象の顔と、それを殺せばよいのか、殺してはいけないのかがはっきりすれば、仕事は出来る。

 それより、吉田アヤ、いや、マヤかもしれぬが、彼女が女性であることをありありと示す、ブラウスが描く曲線を汚すようにプロジェクターの映像が写るのを見ている方がいい。


 この世には、見たくもないものが多すぎる。

 しな子がほんとうに見ていたいものは、とても少ない。

 それは、たとえば小さな花であったり、空をゆく雲であったり、孤独に浮かぶ月であったり、名前も知らぬ鳥であったりする。無機質なアスファルトやコンクリートでさえ、ひび割れがひとつあるのを見つけるだけで、それが愛しく思えたりもする。

 しかし、この世は、しな子がそれと戯れて生きてゆくことを許さぬ。


 だから、戦うのだ。


 相手を倒し、あるいは殺し、心が痛まぬわけではない。

 しかし、この世には、見たくもないものが多すぎるのだ。

 それを全て打ち倒すことなど、出来はしない。

「そんなこと、わかってるわ」

 しな子が、口を開いた。

「対象も、警戒していることでしょう。護衛のような者が付いている可能性があります。お気をつけて」

 と吉田が言ったことに、答えたのだ。

 吉田は薄く微笑んで頷き、パソコンに接続されたプロジェクターから光を奪った。その代わり、部屋の明かりが点いた。それで、ブリーフィングは終わりである。しな子は、さっさと席を立った。

「赤部さん。ちょっと――」

 吉田が赤部を呼び止めたので、しな子だけ先に部屋を出た。トワイライトタウンの地下三階の施設の廊下は、閑散としていて、無人のようだった。人は少しずつ戻ってはいるとは言っても、この広大な敷地を持て余している。音も、空気の流れも感じない。しな子の見ている世界そのもののようである。


「ちょっと、気になる点が」

 吉田は、分析官としての情報供与ではなく、自らの私見を赤部に述べた。

「護衛のような者が付いていることについての懸念を、述べました」

「ああ。気を付けるさ」

「誰が雇い、どこから付けられた護衛なのか、分からないのです」

「調べはしたんだろう?」

「ええ、勿論」

「マヤちゃんが調べても分からないとは、これは、ヤバそうだな」

 赤部は、自称フェミニストで通しているから、こういう物言いをよくする。

「この依頼、政府は?」

「知りません」

「知らせておけ、一応。現場で政府の手の者とぶつかることになれば、まずい」

「分かりました」

「じゃあ、行ってくる」

「お気をつけて」

 赤部は、ひらひらと手を振り、部屋を出ようとした。

「――赤部さん」

 マヤが呼び止めた。

「髭、伸びましたね」

 ずっと無精髭を生やしていた赤部だが、最近は、口の回りは剃り、顎だけを残し、伸ばしている。その顎髭を見て、マヤはくすくすと笑った。もしかしたら、赤部に好意があるのかもしれない。

「伸ばしてるんだ。そのうち、三つ編みが出来るかもな」

 赤部は冗談を言い残し、部屋を出た。

「仲が良いのね」

 気配は全く感じなかったが、しな子は部屋を出てすぐのところに、ずっと立っていた。

「しな子。いたのか」

 赤部は、どこにいても、誰とでも冗談を言い交わし、談笑できる。しかし、しな子は違う。赤部を、待っていたのだ。この殺風景で閉塞した広大さを持つ空間で。

 どういうわけか、赤部は、それをとても愛しいと感じた。いじらしい、と言う方が正しいかどうかは、分からない。

「ごめんな」

 それを、端的に示した。

 しな子は、んん、と喉だけでそれに答え、無機質な廊下に、彼女の生命の存在を残しつつ、赤部より先に歩きだした。


 とん、とん、たとん。

 とん、とん、たとん。



 捕らえた男が、寝かせられていた担架ごと、どこかに運ばれてゆくのとすれ違った。

 その担架に付けられた車輪の音には、生命の音は混じっていなかった。

 再びしな子の前にあらわれたデュオニュソス。しな子の力を宿した念象力者。狙い澄ましたかのような、民間からの依頼。

 どうにも、雲行きがおかしい。


 しかし、たいていのことは、それが現実になってからでないと、分からぬものだ。皮肉なことであるが、赤部やしな子に出来ることは、それを待つことのみ。

 今から、時間を少し潰し、夜になれば、今回の案件を実行する。

 薄っぺらい東京の夜の中、また彼女の足音は響くのだろう。

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