行き先
零時七分。しな子は、煙草臭いアルファロメオの助手席のドアを乱暴に閉めた。未だに、ドアを閉めるときの力加減が分からない。ドアを静かに閉めろと赤部はいつも言うから、しな子は先回りをして、
「半ドアより、マシでしょ」
と呟いた。
東京も、西の外れまで来ると、都心の薄っぺらい夜とは違い、この時間になると真っ暗なのだ。それを、しな子は今さら知ったような顔をして、その闇の色を確かめるように眼を凝らしている。
「お化けでも出そうな林だな」
「ああ、そう」
二人は、車を停めたところから少し歩き、そのまま、あたりの闇よりも一層濃く塗りつぶされた雑木林の中に足を踏み入れた。
「遅かったな」
しばらく進むと木が少し払われた空間があり、そこを照らす赤部の生白い光のライトに向けて、男の声がかかってきた。
「蚊が、すげえ」
赤部が照らした先には、男の姿。三十代くらいか。運送業か建築業のような服装である。
「あれ、荷物はどうした。こっちは、仕事の予定曲げて来てんだ。早くしてくれよ」
ここで、男は何かを受けとる予定だったのだ。
「眩しいな。ライトを、下げてくれよ」
男が光を嫌い、手を顔の前に差し出した。
さく、さく、さく。
当たり前だが、しな子の足音は違う。
雑木林の柔らかな土と、草を踏む音。
男が、悲鳴のような声を挙げた。
「あなたは、何を受け取り、どこへ運ぶの」
男は、自らの首に、冷たい金属の味を感じていることだろう。
「つ、つくば」
「筑波?」
「何を運ぶのかは、し、しらない。台車に載せられた箱。それを、運ぶ」
任務に、しな子は忠実である。
依頼主である民間企業からの要請は、積み荷について深く詮索し過ぎた職員の抹殺と、積み荷の回収は勿論、横流しされたものが、どこに向かうのかを突き止めることであった。ブリーフィング中、分析官のブラウスに写るプロジェクターの光をじっと見ているようでいて、ちゃんと頭には入っているのかもしれない。
いや、実際にほとんど聴いていないことが多かった頃もあったから、その頃の癖で、目的地に向かう車内で赤部がいつもしな子に
もし、赤部のおさらいに効果があるならば、彼女は、二つのブリーフィングルームを持っているということになる。
それは余談として。
「ああ、そう」
しな子はまだ男に自由を赦さない。
「筑波の、どこに?」
「い、言えない」
「そう?言ったら、殺される?」
男は、喉に当てられた刃物を恐れ首を縦に振ることが出来ないため、吐息でそれを伝えた。
「言わなければ、今ここで死ぬのよ」
男はどこかに痛みを感じたのか、叫び声を上げた。
「さよなら」
しな子は、任務における必要に駆られ、多弁になっている。
「待て、待ってくれ」
男が声を枯らした。
「国立生態研究所だ」
「あぁ、そう」
男は、柔らかな土に崩れ落ち、水の飛び散る音を立てながら、身体を痙攣させている。
しな子は、刃物で相手をどうこうする感触が、好きではない。拳銃を発砲するときの大きな音と、焦げた酸っぱい臭いも。
しかし、炎が出ぬ以上、それらはしな子の身を守り、仕事を助けるから、使う。
「国立生態研究所――」
赤部が、ライトの光を下に向け、呟いた。
国立の名の通り、茨城県に設置された、生物の生態とそれに対する科学の環境的影響を調査、実験する機関である。
そういった機関の多くは、得てして一般人からすれば、何のために存在するのかよく分からぬものであるが、この機関においてもそうであった。ただ何となく、こういった機関が天下りの温床になっているとか、予算の無駄遣いであるとかの話題の種になるのみで、いっこうに実態が見えて来ないのである。
「国立生態研究所、か」
赤部は、もう一度その名を口にした。
海外から運ばれる、謎の積み荷。
それに手をつけ、横流しをするもの。
そして、国家機関。
まあ、概ね、察しはつく。
それを知らせてくれるかもしれぬ者が、二人の後方からやってきた。
「斉藤さんですか」
しな子の足元で死んでいる男の名だろうか、そう言いながら、ライトの光が近づいてくる。
赤部も、そちらに光を向けた。男。二人である。
一人は痩せ型、長身。スーツを着ているから、これが今回の標的であろう。
もう一人は、やや肥満気味の男。顔つきはまだ二十代の後半といったところだが、頭髪が薄くなり始めている。それが、土に車輪が取られるのか、重そうに台車を押している。
「――違うな?」
スーツ姿の赤部とジャージ姿のしな子を認め、痩せた男が警戒した声を上げた。
また、しな子が土を踏む音。速い。一気に、距離を詰めた。
跳び、左足で踏み切る。
空中で右足が、上がる。
それを降ろす反動で、左足を。
膝が男の眉間に入り、ぐしゃりと頭蓋が割れる感触があった。
この衝撃は、戦いのあと、鈍い痛みに変わるのだ。
台風に薙ぎ倒されるようにして倒れる男。
しな子は、跳び下がる。
何かの、
男のジャケットが、燃えた。
念象力。
しな子の、うんざりしたような顔が火の灯りに浮かんだ。
どうせ、この男も、自分のことをおかあさんと呼ぶのだ。
どうでもいい。
男は、台車から離れるようにして、駆けた。
「しな子!」
赤部のライトがそれを追い、しな子の名を鋭く呼んだ。
しな子は、感じた。
男が、その視界の中で、結ぶのを。
駆ける。
距離は、十歩。
届く。
咄嗟に、しな子は跳んだ。
また、何かの爆ぜる音。
跳ね上げた足が、旋回する。
それに持ち上げられるように、しな子の身体が、宙で回った。
その足の先にあるスニーカーに、火。
紛れもない。それは、しな子を苛み続ける、紅の蓮。
その手を離れてもなお、しな子を焼こうと、追いかけてきたのか。
まるで、子が母を慕うように。
スニーカーに火がついたまま、しな子は駆ける。
火が、彼女の足に、まとわりつく。
揺らめきながら、言っていた。
――おかあさん。
それを断ち切るような、しな子の跳躍。
膝を入れるには、まだ遠い。
火を纏った足が、その軌跡を宙に残しながら、舞う。
今度は、右足。
後ろから回ってきたつま先が、念象力者の脳天に入る。
そのまま、太った男は昏倒した。
スニーカーを脱ぎ捨てると、捨てた先の闇が、紅色になった。火傷を負ったしな子の足裏を、土が冷やしてゆく。
「なんて女だ」
念象力を使う男は、即死は免れた。
身体を大きく旋回させながらの蹴りで、一撃で仕留めるのは難しい。
それでも、立ち上がることすらままならないらしい。
「しな子、どけ!」
咄嗟に、しな子は跳び下がった。
赤部の拳銃が火を吹いて、弾丸が男の脚を撃ち抜いた。それで、男はまた倒れた。
「さて、話してもらう」
拳銃を構えたまま、赤部が、男に近付く。
「おかしな真似をしてみろ。お前の脳が、雑木林の肥料になるぞ」
「俺を、殺すのか」
「聞かれたことに正直に答えれば、殺しはしない」
「いいや、殺すね」
「どういうことだ」
「俺を連れ帰って、調べるんだろう?俺の頭の中に、入っているかどうかを」
「デュオニュソスのことか」
「名前なんて、どうでもいいさ。俺の頭の中で、ずっと声がしてる。燃やせ。焼け。殺せってな」
男の視線が、しな子の方を向いた。
「そうか。あんたの声だったんだな」
「ああ、そう」
赤部は、しな子を制止しようとした。
積み荷は、おそらく、デュオニュソス。
ひとつひとつが小さなものだから、男が運んできた台車に載った箱一つで、百人分くらいにはなるか。目的地は、政府が運営する研究機関。そして、分析官が言っていた、所属不明の護衛。その頭にも、おそらく、デュオニュソスが埋め込まれている。
だから、赤部は、しな子を制止しようとしたのだ。
「しな子」
しな子の腕が、這いつくばる男の腕に、そっと伸びた。
「よせ」
その赤部の声がしな子に届くのと、しな子が男の首をへし折るのとが、同時であった。
まだ小さく燃えているスニーカーと、赤部が握るライトに照らされた闇の中に、その鈍い音が響いた。
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