第一章 ちいさな翼

リトル・ウイング

 ライナーノーツは解体された。それを統べる部長による組織の私物化、そしてパルテノンコーポレーションとの癒着が原因である。

 しかし、しな子は今、赤部のくたびれたアルファロメオの助手席に乗り、東京の朝が後ろに流れ去ってゆくのを見ている。

 このまま行けば、目黒。

 行く先は、東京トワイライトタウン。

 その地下三階。

 そこに、彼らの根城があるのだ。


 カーステレオからは、赤部の好きな古いロックミュージックが流れている。今日はストーンズではなく、ジミ・ヘンドリクスだ。

「リトル・ウイングね」

 さすがにしな子も曲名を覚えた。

「お、感心だな、しな子。ジミも喜ぶぞ」

「嫌いなの、この曲」

 哀しみしか感じないその音色に心震えて、歌の中に連れて行かれそうになる気がするから、嫌いなのだ。

「そうだったな、いい曲だけどな」

「わたしたちと、おんなじね」

 赤部は相槌を打ち、CDを次の曲にスキップさせた。

 しな子は、もうステレオから流れる音楽から興味を失い、窓の向こうのうるさい朝と、それにうっすらと映る自分の影を見つめている。


 NPO法人リトル・ウイング。

 代表は、森論もりさとし。二字であるから分かりにくいが、森が姓で諭が名である。

 赤部の変名である。

 由来はどうでもよいが、彼の好きなストーンズのメンバーの一人、ロン・ウッドを文字ったのである。ロンウッドというわけである。それを、彼はウィットに富んだネーミングであると自負しているようだから、彼のために書き留めておく。

 NPO法人とは、簡単に言うと非営利かつ公益性の高い活動を行う団体を指す。

 その直接の活動で利益を得ることが出来ないから、資金は一般からの寄付や、あるいはその法人やその代表が経営する別会社から「寄付」という形で供与されたり、あとは政府事業の下請けを行うことで得ることが多い。

 もう、既に怪しげな臭いがしている。

 赤部の煙草の銘柄が変わったことではない。

 NPO法人リトル・ウイングのことだ。

 もちろん、世のNPO法人とは、健全に、純粋に公共の利益のため、高潔な志のもと設立されたものがほとんどである。しかし、ものも中にはあって、ことリトル・ウイングにおいては、という話だ。

 早い話が、以前の事件を受け影の世界の中でライナーノーツの解体騒ぎが起きたどさくさに紛れ、赤部はその事業を引き継いだのだ。

 政府肝煎りという立場から解放され、その代わりを行うことで公益を追求する。以前よりも動き易くはなったが、いざとなれば政府は我知らぬという顔で切り捨てにかかってくるから、慎重に活動はしなければならない。

 また、事業委託を止められてしまえば存在そのものが消滅するに近いわけだから、むしろ以前よりも政府の顔色は組織にとって重要になってくる。

「そこが、大事なんだ」

 赤部は、設立のとき、しな子にそう言った。

「内部機関ではなく、まるで親子のように。そうやって懐に居ることで、間抜けの役人どもに警戒されぬようにするのさ」

 設立メンバーは、赤部としな子の二人。

 二人とも、偽名である。

 しな子のそれが何という名であったのか、しな子は忘れていた。

 だが、ライナーノーツの特務員赤部健一郎と丹羽しな子は、その組織の消滅とともに消えた。そういうことだった。

 

 赤部は、設立の際、子育てが落ち着いた頃を見計らい、心を読む念象力リーディングを持つ佐藤も誘おうかどうか少しだけ迷ったが、しな子の、

「やめてあげて」

 という一言で思い直した。

 彼女には、子供がいる。

 光の中で、それは生きてゆくべきだ。

 自分の母が、かつて闇の世界で生きていたことを、いや、この世にそういう世界があることすら知ることなく、生きてゆくべきなのだ。


 設立から一年余り。今は、ライナーノーツのの中で闇の中でしか生きられぬ者を少しずつ集め、今まさに赤部が駐車場に付けようとしている広大な東京トワイライトタウンの一層にも、少しずつ人が戻りつつある。

 戻りつつあると言ってもまだ少なく、諜報班、医療班、総務班を含め、十五人といったところか。

 諜報班や医療班は文字通りの仕事をする。総務班とは、一般企業の総務部のようなものだ。

 しな子は、リトルウイングの一員でありながら、どこにも所属していない。しな子は、しな子なのだ。

 このところ、かつてしな子や赤部が「」と呼んでいたような活動は少ない。

 ゆうべ、久しぶりのそれがあった。

 しな子の左膝は、まだ痛んでいる。

 とどのつまり、名前が変わり、人が減っただけということだ。

 以前と、何も変わらぬように見える。

 恐らく、赤部は、そこに、何かを隠したのだ。


 組織名のリトル・ウイングは、先程カーステレオから流れた、赤部の好きな曲に因んで付けられた名。彼らしいネーミングであると言えよう。

 これは、文字通り、彼が得た小さな翼なのだ。

 その翼は、羽ばたくには、あまりにも小さい。



 しな子は、あれから火を操る力を失ったままである。その代わり、拳銃や、ナイフをよく使う。必殺の体術は、相変わらずらしい。

 朝早くに彼らが本部に向かっているのは、別に急用ではない。昨日のの後処理が、少しあるためだ。

 昨夜、しな子は、政府からの依頼により、ある男を捕らえた。しな子の跳び膝を食らわせれば、一撃である。捕らえることが目的だから、殺さぬ程度に加減はした。

 その男は、念象力者だった。



「なんだ、お前」

 昨夜、二三時頃のこと。しな子は、ジャージのポケットに手を入れたまま、男の前、十歩ほどの距離に立った。男の手には、コンビニの袋があった。夕飯だろう。一瞬、しな子はそれを見た。

 見て、いきなり駆け出した。

 ブリーフィングでは、所属不明の殺し屋ということであった。捕らえ、その背後を洗え、ということらしい。

 このところマスコミで話題の、政府の汚職問題に関わっていたとされる財務省の官僚が、先日、自殺した。

 自殺というのは建前で、ほんとうはこの男に殺されたらしい。死んだ官僚は、墓場まで汚職の裏側についてのことを持ち込んだ形になる。それを、政府自ら洗い出すというのは妙な話だが、政府の中にも色々な競り合いがあるらしい。


 それは、しな子には関わりのないこと。

 ただ目の前のを、倒す。

 彼女は、十歩の距離を、一気に詰めようとした。

 しかし、しな子はその距離を詰め切ることなく、離れた。

 ジャージの上着を素早く脱ぎ捨てる。

 ちょうど脱いだとき、それがぱっと燃え、人気ひとけのない夜の街路を照らした。

 しな子は、火は使えぬ。

 しかし、ことは出来るのだ。

 男が、しな子を見、「結んだ」と感じ、咄嗟に上着を捨てたのだ。

「よく分かったな。念象力者か」

「いいえ、違うわ」

「その割に、察しがいい」

「あなたこそ、念象力者ね」

「その通り」

 二人の間には、しな子が捨てた上着。まだ燃えている。

 しな子は、跳び下がった位置から、半歩出た。火のあかに、しな子が浮かんだ。その姿を見て、男は少し眼を細めた。

「お前、もしかして――」

 男は、なにがおかしいのか、口元を綻ばせた。

「――そうか。お前か」

「わたしを、知っているの?」

 そんなはずはない。

 しな子を知る者は、限られている。

 いたとしても、せいぜい、トワイライトタウンのジムの受け付けのマリナや、行きつけの居酒屋の朱里あかりくらいのものだ。

「いや、知らない。しかし、感動の対面というわけさ」

 男は、また笑った。

「――おかあさん」

 男がそう言ったところで、しな子は跳んだ。

 火を飛び越えて。

 右足を跳ね上げ、左足が下がる。

 その右足が降りようとする反動で、左足が鋭く上がる。

 膝が男の鼻を砕き、男は昏倒した。

 おかあさん。

 男の口ぶりには、冗談のような響きがあった。

 しかし、脈絡のないこととは思えない。


 その男の調が、終わったのだ。

 取り調べは、何故か、リトル・ウイングの医療班で行われた。

 しな子が赤部と共に病室に入ると、男は、麻酔で眠ったままであった。

 医師のような格好をしたスタッフが、赤部に報告をもたらしていた。

 シャーレの上には、黒い、米粒のようなもの。

「やはり」

 赤部は、それを見、嘆息した。

 言われなくても、しな子にもそれが何なのか分かった。

 デュオニュソス。

 しな子の頭にも、あれが入っていたことがある。そのときのものよりも、小型化されている。

 念象力者の力を増幅するために使うのではなく、念象力者を量産するために使われるはずだった。その素体として、かつてしな子が選ばれた。

 それを、阻止したはずなのだ。



 おかあさん。

 麻酔で眠っている男が言った戯れの意味が、しな子には分かった。

 あの火は、しな子の力をデュオニュソスが写し取ったものなのだ。

 彼女の力をデータ化し、それを、生身の人間に移植する。そういうことが、始まっているということだ。

 しな子の幼き日の残り火は、未だ消えず、存在しているらしい。

 そして、彼女を、まだ苛み続けるつもりらしい。

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