第一部 最終話 つながる

「馬鹿ね、急いで食べるからよ」

 むせ返る赤部を横目に、しな子は言った。

「いや、だってさ、久しぶりにまともなものを食うんだ。大目に見ろよ」

「好きにして」

 赤部は、今日、退院した。腹の傷は、何とかなった。焼いて止血したから、死なずに済んだのだ。だが、あとほんの少しでも遅ければ、腹の中に血が溜まり過ぎて死んでいたかもしれぬらしい。

「お前、髪、伸びたな」

「そうね」

 しな子は、メッシュを入れ直した髪を少し触った。まだ、おかっぱには遠い。しかし、耳のピアスはいつもと変わらない。

 四月の半ばともなれば、もうすっかり春だ。三本ラインのジャージを上着無しで着て歩ける。

「ほんと、赤部さん、入院してたなんて意外よね」

 いつもの、居酒屋。看板娘の朱里あかりが、追加の食事と飲み物を運んできた。赤部は、ウーロン茶。しな子は、カシスオレンジ。

「そうだろ。健康体そのものだと思ってたら、これだもんな」

「何の病気で入院してたんですか?結構、長かったじゃないですか。それとも、怪我?」

 朱里が、二人の顔を交互に見ながら言った。

「いや、まあ病気ではないんだが」

「――お尻」

 言い澱む赤部の言葉を遮り、しな子がカシスオレンジのグラスに口をつけたまま、ぽつりと言った。

「え?」

「お尻のできものが、悪くなったの」

「それ本当?しな子ちゃん」

「ええ、本当よ」

 しな子はいつも冗談などほとんど言わぬから、朱里は真に受けたらしい。

「馬鹿、しな子。適当なことを言うな」

 赤部が必死になって否定するから、朱里はますます信じた。

「あぁ、駄目だこりゃ。しな子のせいで、朱里ちゃんに笑われたじゃないか。もう、これでオーダーストップ。朱里ちゃん、お勘定」

「あら、もう?折角の退院祝いなんでしょ、赤部さん。もうちょっと注文すれば?」

「いいや、駄目だ。俺のことを笑ったからな。俺のお嫁さんにして下さい、と言えば、追加注文してやる」

「伝票、持って来ますね」

 朱里は笑い、そそくさと立ち上がった。しな子は二人のやり取りを聴きながら、またグラスに口をつけた。

 伝票が運ばれてきた。

「おいおい、ドライだな、朱里ちゃんは」

「だって、赤部さんのお嫁さんにして下さい、なんて言えば、しな子ちゃんが怖いもの」

 しな子が、眼を真ん丸にしながら、グラスから口を離した。

「わたしが?どうして」

「だって、最近、しな子ちゃん、すごく女らしいわ。赤部さんと、いい感じなんでしょ」

「馬鹿ね。そんなわけ、ないじゃない」

「あら、気のせい?」

「思い込みね」

「そう。残念ね、赤部さん。女のお尻ばっかり追いかけていたら、本命を逃がすわよ」

「おっと、自分の尻のことで、精一杯だ。勘弁してくれよ」

 三人、笑った。


 一通り、飯を食い終えて、しな子は転々としているホテルへ。赤部の車から降り、明日の待ち合わせ時間を確認した。午前十時。

 ライナーノーツの部長は、未だ不在。来月になれば、新たな部長が赴任してくる。赤部も、しな子も、ライナーノーツを辞めたわけではない。赤部は、部長が行なっていたパルテノンとの癒着を明らかにし、それをもって自分の後ろ暗さを隠し、しな子をも守った。

 彼らのする仕事は、決して人に誇れるようなものではない。しかし、彼らは、必要悪なのだ。それを知り、受け入れることもまた、生なのだろう。手を引くことは、簡単だ。しかし、彼らは、知ってしまっている。

 この東京の、夜を。朝の色の、薄さを。世界の、歪みを。人の、脆さを。

 だから、彼らは、ライナーノーツを去らなかった。夜が怖いなら、朝を待てばいい。歪みがあるなら、正せばいい。そのための、汚れ仕事ウェットワーク。彼らがいるから、政治家は権勢を欲しいままにすることができず、大企業は利を貪るのみにはならぬのだ。

 それは、正義でもなんでもない。何が正しく、何が間違っているかなど、誰にも分からぬのだ。

 だから、彼らは進む。朝に向かって。その色が、どれだけ薄くとも。

 どれほど悲しい夜でも、同じ時間待てば、朝は来る。どれほどその色が薄くとも、同じ時間待てば、世界は色を取り戻す。

 しな子は、あれきり一度も念動力を使えていない。奪われて初めて、得るものもあるのかもしれぬ。それは、この先、しな子自身が確かめることだろう。

 奪われた力がまた戻ることもあるかもしれぬ。その時は、またその力の使い道を考えればよい。

 今は、ただ、眠るのみ。朝を待つために。


 その夜が、明けた。

 十時を少し過ぎて、赤部はしな子の宿泊している部屋のチャイムを鳴らした。

「待たせたな」

「遅刻ね」

「これを、買っていたんだ」

 赤部の手には、花束。ちゃんと、花を下にして持っている。

「あぁ、そう」

 しな子は、既に身支度を終えている。

「行こうか」

 ホテルをチェックアウトし、コインパーキングまで歩く。

 春の陽射しが、二人の影をアスファルトの上に長く落としている。

「もう、会えるの」

「あぁ、もう、大丈夫だろう」

「そう」

 赤部が、ドアのロックを解除する。いつものように、しな子は助手席へ。

 向かった先は、病院。昨日赤部が退院したのとは、また別の。

 エレベーターで四階へ上がり、産婦人科の病棟へ。

 その病室の扉を開いた。

「あら、二人とも、来てくれたの」

 ぱっと顔を明るくして二人を迎えたのは、佐藤だった。

「無事、産まれたようだな」

 赤部が、花束を渡す。

「ありがとう。元気な女の子よ。見に行く?」

「あぁ」

 佐藤がベッドから起き上がり、二人を導く。

 別の部屋の小さなベッドに、新生児が何人か寝かされている。

「この子よ」

 佐藤が、微笑んだ。それが向けられる先に、その子はいた。無垢な瞳を、きょろきょろとさせている。

「しな子、ほら、見てみろよ」

 言われて、しな子は、おっかなびっくり、ベッドの脇に立った。

「可愛いでしょ」

 佐藤が、しな子に言う。

「ええ、そうね」

 しな子も、笑った。

 その子に向かって、鼻唄を歌いだした。

「しな子」

 赤部が、少し悲しげな表情をする。

「しな子ちゃん、その歌は?前にも歌っていたことがあったわね」

 佐藤は、この下手な鼻唄が有名な童謡だとは気付かぬようだ。

「この赤ちゃんに、教えてあげて」

 しな子は、鼻唄をやめ、ベッドから離れた。

「とても、優しいメロディね」

 それには答えずに少し振り返り、困ったように笑うと、ドアに手をかけた。

「わたし、行くわ」

「もう?わかった。また」

「ええ、また」


 しな子は、一人で病院を出た。出たところで、聞き慣れた足音が追ってくるのに気付き、振り返った。

「しな子、待ってくれ」

「どうしたの、赤部さん」

「お前に、言っておきたいことがある」

「なによ、改まって」

「俺は――」

 赤部は、何かを言おうとしている。

「俺は、しな子。お前と、これからも、一緒にいたい」

 赤部は、はっきりと言った。

 しな子は、答えない。

 ジャージのポケットに手を入れたまま、赤部を見ている。何かを言おうとしたのか、ちょっと足元に眼をやり、再びそれを赤部に向けた。この季節のようにほんのりと色付いたその薄い唇が発したのは、

「あぁ、そう」

 という言葉と、うっすらとした笑みだった。


 とん、とん、たとん。

 とん、とん、たとん。

 祭囃子は、しな子の足音に。自らの耳を流れる血の脈に。そしてそれは、奏太郎の歌に。

 幼き日のしな子は、あのどこに繋がるか分からぬ道路を、その先へ向かって、歩きはじめたのかもしれぬ。

 足音を、うるさい陽射しに響かせながら。


 とん、とん、たとん。

 とん、とん、たとん。


 彼女は、ゆく。

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