想う力
黒に濃い青が滲んだような色にも、名はあるのだろうか。それにまた別の黒で浮かぶ雲の色にも。しな子は、何も知らぬ。知らぬまま、生きてきた。その代わり、望まぬ力を持ちながら。
もしそれが、しな子が本来得るはずであったものと引き換えになっているのであれば、その力を失えば、本来得るはずであったものが得られるのであろうか。
それの名は、知っている。それの名は、人生だ。しな子は、今を生きてはいない。あの日のまま、止まっている。
無論、生命活動を続ける以上、記憶は積み重ねられるし、人格も育つ。しかし、それと、人生という名の鉤括弧で括られるものとは、別のものなのだ。
人にない力が、彼女の生を決定づけてきた。その火は、ここまで彼女を導き、苛み続けてきた。
ぱっと咲く、紅の蓮。
それが、出ぬ。
無くなったら無くなったで、喪失感と焦りのようなものが生まれる。
どうやら、人とは、勝手なものらしい。
知らずのうちに、赤く腫れた口の端を引きつらせ、笑っていた。
「そうだ。お前には、もう念象力が、無い」
朝の静寂を、松本が破った。
「あぁ、そう」
しな子も、白い息を吐きながら応じた。
「俺のことを、話したい。少し、付き合ってくれ」
松本は、落ち着いているらしい。
「お前の力を、デュオニュソスに記憶させ、そのデータを、これから作られる念象力者に植え付けようと思っていた。しかし、それは失敗した」
しな子は、構えていた拳を下ろし、ジャージのポケットに入れた。手が、冷たい。
「なぜ、俺が、お前や佐藤の力を手に入れたがるか分かるか」
「興味ないわ」
「この世の、バランスのためだ」
「バランス?」
赤部も、よくそのようなことを言う。しな子には、どの状態であればバランスが良く、どうなればバランスが崩れたことになるのかが分からない。
「それを、書き換える」
松本も、コートのポケットに手を入れた。
「世界は、金と、戦いによって、均衡を保っている。金は欲を生み、欲は戦いを生む。それは、分かるな」
松本は、言う通りにしないと赤部が死ぬ、などと脅しながら、しな子を説得するようでもあった。
「戦いは、人から奪う。誰にも、何も与えはしない」
それも、松本の言う通りだった。しな子は、奏太郎のことを思い出した。与えられるはずであった、自ら選ぶはずであった全てのものを奪われた者のことを。
「ならば、戦いを、起こさぬようにすればよい」
「抑止論、ね」
「そうだ」
「そのために、俺は、念象力者を使う。あらゆる場所、あらるゆる時間に現れ、標的を確実に抹殺する力。これは、今までの戦いの概念を覆すものだ」
しな子は、答えない。ただ、疼くように身体に走る痛みを、数えていた。
「
「人殺しをさせないために、人を殺すの?」
「そうだ。この後に続くかもしれぬ全ての犠牲者を、生まぬためだ」
「あなた、おかしいわ」
しな子は、呆れたように言った。
「あなたは、念象力者を、魔法使いか何かだと思っているのね」
「魔法使い?」
「わたしは、撃たれれば、死ぬ。あなたと同じね。人は、かんたんに、死ぬ。わたしは、今まで、多くの人を、殺してきた。でも、それは、わたしが生き残っただけで、あれは、わたしだったかもしれないの」
焼かれたり、頭を割られたりして、転がる身体。いつ、自分がそうなってもおかしくはなかった。
「念象力は、魔法じゃない」
自らを苛む記憶から、守るため、発する力。その力に、念象力者は、また苦しむのだ。
「俺と、共に来てくれ。お前には、また、念象力を与える。お前の力を、世界のために、使ってくれ。お前は、一個の存在として、美しい。念象力が無くとも、お前は、傷だらけの身体で、ここまで来た。そして、今、俺を殺そうとしている。その心だ。それが、欲しい。新たな世界のバランスは、その意思と心によって、保たれねばならん」
「あなたは、何も分かってない」
しな子には、分からない。自らの理想のために、どうして人を犠牲にできるのだろう。
高松議員。息子の奏太郎を犠牲にしてまで得たいものとは、何なのだろう。紗和。利用され、食い物にされてでも、得たいものとは、何なのだろう。赤部。自らを盾にし、しな子のために尽くして、何になるのだろう。そして、眼の前の、この男。
「――あなた達は、何も、わかってない」
しな子の手が、固く握り締められ、ジャージのポケットからゆっくりと抜き出される。
「まだ、話は終わっていないぞ」
松本は、それを制し、気を外した。
「お前が、人を導くのだ。全ての念象力を記憶したデュオニュソスを、お前に再び与えてやる。そして、全ての人が、お前に従うのだ。その気高さ。美しさ。強さ。力。お前は、現代のジャンヌ・ダルクになるのだ」
「誰、それ」
名前くらいは知っている。だが、それが、いつどこで何をした人間なのかは知らない。
「お前の力が、世界を変えるのだ。古い価値観も、逼迫した現実も、閉塞した政治も、破綻した経済も。お前は旗そのものとなり、人を、世界を導いてゆくのだ」
狂っている、と思った。本気で、そのようなことができると思っているのか。
「わたし自身のことすら、ままならないような女よ」
「それが、いい。お前は、どこまでも人間だ。しかし、人が持たぬものを持つ。人はそれを羨み、仰ぎ見、拝み、平伏し、皆がそれに続いて歩む。ちょうど、雛が親鳥の後ろを付いて回るように。大きな建物が自立できるよう、地に深く柱を穿つように」
風が、出てきた。日の出が近くなりつつある。それを、松本は唾と一緒に飲み込み、また白い息と共に吐き出した。
「お前は、母になるのだ。全ての念象力者の。そして、新たな価値観の敷かれた、苦しみのない世界で生まれる全ての人類の」
「無理ね」
拳を、握り締めた。
「まあ、待て」
松本が言うのを聞かず、しな子は駆けた。
距離を、一気に詰める。
松本は微動だにせず、じっとしな子を見ている。
雨。
いや、違う。
水?
しな子の身体が、濡れる。
それは冷たく、重い。
しな子の足が、止まった。
その足元を、川のように水が流れてゆく。
青の強くなった空を、それは映していた。
「あなた、まさか」
しな子が、驚いた様子で言った。
「そうだ。俺もまた、念象力を持っている」
松本は、大層に両手を開いてみせた。
「《これ》は、まだ試作品だがな。ちょうどいい試運転になりそうだ」
デュオニュソスの次の技術。ナノマシン化されたそれが、既に試験段階として開発されはじめているのか。
「デュオニュソスとは、お前達から、データを取るための触媒に過ぎん。ナノマシン技術さえあれば、こんなふうに、簡単に作り出せるのだ。もっと、データを集めたい。お前のことを、教えてくれ」
東京の朝は、青が薄い。その薄い青の中で、松本はにんまりと笑った。
「俺は、この世を、平和にしたいのだ。争いのない世界が、欲しいのだ」
その願いが極端であればあるほど、必要な手段は常軌を逸したものになってくる。
「だから俺は、お前を、俺のものにしたい」
松本が、またしな子を見た。しな子の着衣や髪に水滴がへばりつき、流れ落ちた。寒い。身体が、かじかんでくる。
「頼む。俺と、共に来てくれ。この世の、柱に——」
「欲しい欲しい、欲しいって、そればかりね」
しな子が、濡れたスニーカーを、踏みしめた。
「じゃあ、返して。わたしから奪ったものを。わたし自身を。望まずして失われた、小さな命を」
水の飛沫が、上がる。
「赤部さんを。赤部さんを、返せ!」
しな子が、叫んだ。
それは、ぱっと咲く紅の蓮を呼んだ。
「馬鹿な。お前は、力を奪われたはず」
松本が驚き、自ら産んだ水で身体を濡らし、襲いかかる火の蛇を退けた。
「どういうことだ」
「知らない。わたしに、聞かないで」
「どのみち、水と火では、分が悪いな、しな子。力ずくでも、連れて行くぞ」
「気安く、呼ばないで」
息が荒い。失ったはずの力を呼び起こすのは、身体と脳への負担が強いのかもしれぬ。
もう一度。
結んだ。
蛇がとぐろを巻き、それが紅の蓮となり、松本を包む。
とーん。
水飛沫。
とん。
しな子の、踏み込み。
たとん。
そして、跳躍。
松本が、自らを水の球で包んだ。
それは、唸りを上げて襲いかかる紅の蓮を飲み込み、蒸気を生み、消した。
その球に、しな子が突っ込もうとする。軸足を跳ね上げ、もう片方の脚を更に高く上げる、
しかし、球は弾けて奔流となり、しな子に襲いかかる。凄まじい水圧に押され、跳躍した体勢から倒れた。
「母、と言ったが」
目の前をふわふわと浮かぶ水の粒にそっと触れ、松本が笑った。
「水は、生命の母と言うだろう。子は、母には逆らえぬ。そういう風に、できているのだ。俺の水は、お前の火を消し、お前の身体の勢いを殺し、そして冷やし、自由を奪う」
しな子は、全身ずぶ濡れになりながら、起き上がった。どうしようもない震えが、身体中に走っている。
水は気化する際、熱を奪う。寒い。それに、疲労。怪我による痛み。なにより、今日、手術を施されたところなのだ。
それでも、しな子は戦う。それが何なのかは分からぬながら、絶対に譲れぬものが、彼女にはあるのだ。
「お前も、憐れな女だな」
松本は、まだしな子を説得しようとしているらしい。
「世界のために、お前の力が役に立つのだぞ。それを、一人の人間がどうしたとかいうことに囚われて。それこそ、つまらん幻想じゃないか」
しな子は、大きく息を吸った。それを吐いたとき、その息は、なお一層白かった。ちょうど、くたびれたアルファロメオの運転席で、赤部が吐く煙草の煙のように。
しな子の身体が、生きようとしている。寒さに負けぬよう、熱を発している。その脳が、自らを守るため、力を呼び起こしている。
そのしな子の眼の裏側に映るもの。
小さな命。それは、奏太郎の姿をしていた。
大きな掌。それは、微笑む赤部へと繋がっていた。
「幻想なんかじゃない」
しな子が、また松本を見る。
松本がそれを察し、また水の球で自らを包んだ。
構うことはない。
結ぶ。
「あの暖かさは、確かに、あったの」
また、蛇が松本に襲いかかり、花になり、揺れながら包んだ。
「あの暖かさは、幻想なんかじゃない」
水の球に、気泡が生じた。
「あなたには、分からないわ」
気泡が、どんどん大きくなって、増えてゆく。
「だけど、わたしは、知っている」
紅の蓮。飲み込むようにして松本の水球を包む。
「知っているんだから!」
球の中に、巨大な気泡。それは、膨らむだけ膨らむと、水圧に押され、縮み、そして、一気に崩壊した。一つになったはずの気泡が、無数の小さなそれに、また変わった。
いつの間にか、空の青に一筋、橙が掃かれていた。それを、小さな気泡が吸い込んでいるようだった。
その現象と同時に、しな子の鼓膜が揺れ、炎熱と風に吹き飛ばされた。吹き飛ばされながら、そうだ、自分は、あの日、燃え盛る車から、こうして放り出され、助かったのだと思った。
あの日、死んでいればよかった。何度、そう考えたことか。しかし、実際、今、しな子の脳も、身体も、そして心も、その全てが全存在を懸けて生きようとしている事実を受け入れた。しな子は、知っていた。奏太郎や赤部のぬくもりを。それが、しな子の真実であり、世界の全てであった。
蓮の上で踊る世界。その花弁のひとつずつがな子の知る命。それが取り巻き、囲み、歌っている。
中心には、幼き日の自分。こちらに向かって手を伸ばしている。しな子もまたそれに向かって手を伸ばし、結んだ。
今、ここで、あの日のしな子と、互いに結ばれた。
刹那、熱膨張による圧力に耐えられなくなった松本の水球は凄まじい音を立てて四散した。水中での音の伝播速度は、空気中のそれの比ではない。松本は、耳をやられたらしい。
気絶はせず、辛うじて踏み止まった。
「これだけは、言わせて」
しな子。腰を、沈めた。
「下衆野郎」
とん、とん、たとん。
しな子の、足音。
水の飛沫を、持ち上げて。
その一粒ずつに、朝を映して。
水が飛んだあとに、火が、一瞬咲いてはまた消える。
火の蛇を従えて、しな子は跳んだ。
跳んで、松本の頭を捉えた。
それを引き寄せながら、左足を上げる。
咆哮。
朝を、切り裂くような。
まるで、産声であった。
眉間を割られ、松本が、両耳から血を吹き出し、倒れてゆく。
追いかけるように、しな子も。
松本は、即死しただろう。
しな子は、受け身を取りながら、水溜まりに転がった。
うつ伏せになり、激しく息をしている。
その呼吸がだんだんと浅くなっていき、頭が下がり、水溜まりの冷たさの中に眼を閉じた。
生きたい。
奏太郎には、もう、何もしてやれない。
それでも、会いたい。
赤部さんにも、会いたい。
手を、繋ぎたい。
ほんとうは、あの歌、間違っているって、分かっているわ。
でも、ほんとうのことを聞くのが、怖かったの。
赤部さん。
会いたい。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます