二月、その夜が明ける前
赤部は、痛みでひっくり返りそうになる頭で必死に考えた。
しな子をどうやって救い出すか。
今頃、デュオニュソスを取り出す手術が始められようとしていることだろう。それはチャンスでもあるのだ。しな子の手術をそのまま行わせ、デュオニュソスが取り外されたときに奪い取る。医師を脅し、手術を完遂させる。用済みになったしな子を、殺させはしない。
取り外したデュオニュソスは破壊する。これでしな子を救い、念象力者の量産を止めることができるのだ。
しかし、そもそも気を失ったていたのだから、しな子が生きたまま運ばれたのか殺されて運ばれたのかが分からない。きっと、しな子は生きている。根拠はないがそう信じるしかない。
時折、誰もいない廊下の壁に手をつき、息を入れながら、医療班の区画へ向かう。生きていてくれ。そう願いながら。
たどり着いた。赤いライトが点灯している手術室に入る。松本がいれば真っ先に射殺するつもりで、銃を構えた。しかし、その扉の中にいたのは、医師や看護師だけ。
「続けろ」
赤部は、銃を構えたまま、驚いて振り返る医師どもに促した。細菌の感染を引き起こしてはならぬと思い、横たわるしな子には近寄らない。
まだ、手術は始まったばかりであった。医師らはしな子の後頭部、首の付け根のあたりからデュオニュソスを取り出す手術を始めた。
壁にもたれかかり、その場に座り込んで、それを待った。隣には、佐藤が眠っている。しな子から取り出したデュオニュソスを、佐藤に埋め込むつもりなのだろう。
摘出は、簡単である。たちまちのうちにしな子の後頭部が切開され、脳から小指の爪よりも小さな機械が取り出された。
「おい」
赤部は、ピンセットでそれを洗浄液のバットに入れようとする医師に、呼び掛けた。
「こっちに、持って来い」
医師は、言われた通りにした。
「ここに、置け」
赤部の座り込む床に、デュオニュソスが置かれた。
それを、銃床で叩き潰した。虫の潰れるような音とともに、デュオニュソスが粉々に砕けた。
「その女の頭を、閉じろ」
医師は頷き、頭を閉じる作業が始まった。殺せと命じられてはいても、医師は事情を知らぬらしい。手術を完遂させることには、むしろ賛同的だった。
赤部は、眠りそうになるのを必死でこらえ、それを見守った。一時間ほどで手術は終わったか。
「二人を、担架で、運べ。地下駐車場に繋がる、緊急通路からだ。そこで、救急車に乗せろ」
医師らは顔を見合わせたが、赤部が銃を向けると点滴だけを繋ぎ、二人を担架に載せ替え、看護師に運び出させた。
「怪我をしているんですね」
看護師が車椅子を用意しようとしたが、それを拒み、赤部は歩いた。
歩きながら、スマートフォンを取り出し、救急に電話をする。
松本は、どこに行ったのか。
ライナーノーツの構成員は、赤部が射殺した五人以外は出払っているのか、施設内で出合う者は内勤の連中ばかりであった。
射殺した者も、知らぬ仲ではないのだ。互いに、名と顔くらいは知っているし、言葉を交わしたこともある者もいた。
しかし、赤部は、撃った。
赤部なら、言い切れるだろう。全世界の全ての質量よりも、しな子一人の方が、赤部にとっては重いと。
互いに銃を向け合った以上、躊躇わず引き金を引いた方が生きる。それだけのことであった。
おそらく、今日のうちに死ぬだろう。自分でそう思った。しな子が松本と戦いながら発した念象力により出血は止められたが、内蔵がやられ、身体の中に潰れた九ミリ弾が残っているのだ。
とりあえず、病院まで行けば。そう思っていた。自分のことではない。しな子のことだ。
病院まで行けば、保護される。麻酔が切れれば、目覚めるだろう。そうすれば、彼女なら、何とかする。
そばにいてやれぬのが残念で仕方ないが、赤部は、成しうる限りのことをした。デュオニュソスも、もうない。しな子は、自分で生きてゆくだろう。夢の中で見た、幼いまま止まっていたしな子は、きっと、あの道路を自分の足で歩いてゆくに違いない。
佐藤の腹の子は、麻酔などかけて大丈夫だろうか、などということも考える余裕があった。それは、赤部が自分のことを諦めてしまっているからに他ならない。
視界も知覚も、途切れ途切れになっている。いつの間にか緊急用通路を通り、トワイライトタウンの地下駐車場に出ていた。少しだけ待ち、乗り付けてきた別々の救急車に、佐藤としな子が乗せられ、しな子の方に赤部も乗り込んだ。救急隊員が赤部の顔色の尋常でないことを見て取って、大丈夫ですか、と声をかけてきたが、曖昧に笑って、早く行ってくれ、と乾ききった声で答えるのみであった。
車内の席に座ると、耐えがたい眠気が襲ってきた。寒気もない。視界もきかぬ。音があちこちからばらばらに飛んできて、赤部を通り過ぎてゆく。
あぁ、俺は、死ぬんだ。
しな子、済まん。
そう思った。
思って、眼を閉じた。
しな子は、眠りから覚めた。
まず、自分が病室にいることを知った。
暗い。夜であろう。佐藤は。赤部は。松本は。見回したが、大部屋には自分一人しかおらず、ベッドは全て空いていた。
なにかが、おかしい。しな子の肌がそれを知らせ、身体に入れられた点滴による寒気が、朦朧とする頭を冷ましてゆく。
身元不明の女——しかも、頭に真新しい手術痕のある——が、病院に運び込まれたのだ。警察などが、うるさいに決まっている。
脱け出すなら、夜のうち。とりあえず、自分が生きているということしか分からぬ。
乱暴に点滴の針を引き抜き、そのまま裸になり、脇に畳んで置かれた三本ラインのジャージに着替えた。
そろりと、病室を脱け出す。彼女の覚醒を待っている者がいるとは知らずに。自発的に保護された病院を脱け出してくることを待っている者がいるとは知らずに。
後頭部に痛みが蘇ってきた。手術の麻酔が切れてきているらしい。同時に、全身のあちこちに痛みが走る。顎、鼻柱、腕、腹、脚。それらは火のように這い回り、彼女の身が傷ついていることを知らせる。
しかし、彼女は、立ち止まることをしない。痛みとは、自らの生命を守るための脳の反応。自らの生命に対する頓着が極めて薄いしな子は、痛みに対して鈍い。
何食わぬ顔をしてエレベーターに乗り込み、おかっぱにはほど遠いにせよ伸びた髪の後頭部だけが刈り上げられているのを手触りで確認し、ジャージのポケットに入れられていたピアスを耳につけた。
一階で開いたエレベーターのドアから降りてきたのは、いつものしな子だった。
三本ラインのオーバーサイズのジャージに、星のマークのスニーカー。耳には、男物の武骨なピアス。
ジャージのポケットに手を入れ、エントランスの方へ歩く。
ダイバーウォッチを確認する。深夜である。看護師や警備員もうろついていない。
難なく、エントランスから表に出て、ここはどこなのだろう、と辺りを見回した。
ジャージやピアス、時計はあっても上着が無い。その寒さが、身体の痛みを奪ってゆくようで、ちょうどよかった。ズボンのポケットには、数枚の一万円札が小さく畳まれて入った小銭入れが残っている。松本に、絞め落とされたときのままであった。
あのあと、ライナーノーツの手術室に運ばれ、手術をされたのであれば、誰が、自分の衣服や持ち物を、この病院にまで運んだのか。分からぬが、病院の寝巻のまま逃げ出すよりは、ましだった。
家には、帰れぬ。恐らくライナーノーツの者が張り込んでいるだろうし、部屋には死体もある。警察も、黙ってはいないだろう。
普段、あまり出歩かず、外の世界といえば前のマンションの下北沢界隈と、赤部のアルファロメオの車窓を通りすぎる景色しか知らぬから、ここがどこなのかも分からぬ。病院の看板を見たが、聞いたことのあるような、ないような名だった。
大通りまで出て、タクシーを拾う。
「一番近くの、ホテルまで」
「畏まりました」
タクシードライバーが、車を出す。
やはり、しな子は気付かない。その背後に路上駐車されていた車のヘッドライトが灯り、タクシーの後に続いて発車したことに。
「車内の温度は、いかがでしょう」
運転手が、通り一辺倒のことを訊ねてくるが、無視した。
「お客さん、怪我をされているんですか」
口の回りや、眼尻などを赤く腫らしたしな子をミラー越しに見て、ドライバーがそう言った。彼氏に殴られでもして、家を飛び出してきた。そんな風に見えたかもしれない。しな子の財布の中を想像してか、ドライバーは、一番近い高級ホテルを通りすぎ、安いビジネスホテルの前に車をつけた。
小銭入れから皺だらけの一万円札を取り出して渡し、釣りも受け取らずに降りた。
東京オリンピック以降、外国人の旅行客も減っているから、運よく深夜の駆け込みでも部屋を取ることができた。
エレベーターに乗り込む。
不意に、背中に、感触が来た。
「そのまま、乗り込め」
いつものしな子ならば、その気配だけで応じていたところだろうが、さすがに身体が重く、頭も完全には覚めきらぬ状態で気配を殺したプロの接近を察することはできなかったらしい。
「おはよう。しな子ちゃん。目覚めてすぐ、宿泊か」
松本。
腕を捉えて、背に銃を更に強く押し当ててくる。
「赤部は、生きているぞ」
囁いた。
「取引をしよう。どうだ」
しな子は、無言で頷いた。
「よかった。この寒空の中、何時間も待った甲斐があった」
しな子が鍵を受け取った部屋は、最上階。松本が、降りろ、と捉えた腕を押した。
「俺の条件は、お前の身柄だ。大人しく、言う通りにすれば、赤部は助かる。歯向かえば、赤部は死ぬ。分かるな」
「ええ」
「よし、取引は、成立だ」
部屋に入らず、松本は、非常階段の方へしな子を促した。
促されるまま、階段を上がる。
「俺が、憎いか」
上がりながら、松本が訊いた。
「ええ、とても」
「そうだろうな。お前にとっての俺は、裏切り者で、人でなしで、敵だ」
「ええ、そうよ」
「だが、俺のしようとしていることを、ほんとうに理解すれば、そうは言っていられない」
「あぁ、そう」
松本は、少し言葉を切った。
「お前は、戦争について、どう思う」
いきなり、そう言い出した。
「戦争?」
考えたこともない。この世のどこかには、いつも戦争があるのは知っている。しかし、世界のことに眼を向けるほど、しな子は世界を知らぬし、知ろうと思ったこともない。
「戦争とは、無駄な行為だ。消費するばかりで、そこに生産はない。命は奪われても、戦争で育まれる命は無い」
言われてみれば、そうだとしな子は思った。それがどうしたとも思った。
松本が屋上へのドアノブを銃床で叩き壊し、外へ出た。
二月の風が、再び吹き付けてくる。東の空が、僅かに青みがかっている。
「寒いな。しかし、少し、話そうか」
松本は、しな子を解放した。
即座にしな子は振り返り、拳銃を叩き落として、松本の顎に掌底を放った。それはやはり弾かれた。
飛び下がる。距離を、取る。
「驚いた。もう、それほどに動けるのか」
両手を広げ、驚いた素振りをする松本。
その姿を、しな子は見た。
幼き日の残り火。
左手の疼き。
それが、全身を駆け巡る痛みよりも強くなる。
結んだ。
しかし、松本は、平然としている。
火が、出ぬ。
紗和の言っていたことは、本当だった。
デュオニュソスを外されれば、念象力を奪われると。
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