生還
赤部。腹を撃たれた。凄まじい衝撃が身体を駆け巡り、意識が遠くなる。薄れてゆく視界に映ったのは、敵に飛びかかり、それを討たんとする、しな子の姿。
いけない。そう思った。しな子は、逆上している。あれでは、やられる。赤部は、誰よりもしな子のことを知っている。格闘技の世界に進めば、たちまちベルトを獲れるだろうと思えるほどの体術で松本と戦うその背中を見てすら、彼女の考えていること、感じていることが分かった。
助けてやらなくては。そう思ったが、全身が痺れたようになっていて、動けない。
暗く、暗く。そして、明るく。
眼を開けていることができず、何かに従うようにして閉じた。
足音が、聴こえる。
いや、これは、音楽。
知らない音楽だ。
いや、これを、知っている。
とーん、とん、たとん。
とーん、とん、たとん。
祭囃子?
いや、しな子の、鼓動?
音のする方へ、明かりの灯る方へ、向かった。
そこは、夏の日差しのうるさい高速道路。
事故を起こした車。
炎上している。
路傍に投げ出され、傷だらけで倒れる少女。
左腕に、ひどい火傷を負っている。
その位置が、しな子のそれと同じであったから、赤部は、この少女がしな子なのだと知った。
「大丈夫か!」
思わず、抱き上げた。
しな子は、眠ったように眼を閉じているが、どういうわけか、声が聴こえた。
――馬鹿ね、赤部さん。
――わたしのことなんて、放っておけばいいのに。
――あなたは、いつもそう。自分のことしか考えていないくせに、正義のヒーローになりたがる。
――勝手な人。
言葉は辛辣だが、しな子の声は、笑っているらしかった。
「しな子。済まん。お前を、守ると決めたのに、俺は、守れない」
――自分の身は、自分で、守る。あなたが、わたしに教えたのよ。
「そうだ。しかし、怖かった。本当のことを言うと、お前がどこかに行ってしまいそうで」
――怖い?どうして?
「お前の側に、いたいからだ」
――わたしの?
「俺は、お前なしでは、生きられない」
ふと、腕に抱くしな子に眼を落とした。それは、ぱちりと眼を開き、赤部を見つめていた。白黒のコントラストのはっきりとした眼と下がった眉は、やはり、しな子だった。
「しな子、ごめんな」
その髪を、そっと撫でた。
「赤部さん」
腕に抱くしな子が、口を開いた。
「死ぬの?」
言われて、赤部は、腹に炎を感じた。
それは、血液。
身体から、こぼれてゆく。
視界が、逆転する。
どうせ、夢なのだ。
そして、自分は、死ぬのだ。
笑ってやりたい気分だった。
何にもなれず、誰も守れず。自分すら救えず。
もう、諦めてしまおうと思った。
人一人ができることなど、たかが知れている。
身体が、揺れる。
倒れそうになる。
倒れたとき、ほんとうに死ぬのだろう。
それに、身を任せてやろうと思った。
――赤部さん。
しな子の声が、響く。
いや、違う。
しな子の、戦う音が聴こえる。
なんのために?
しな子自身の、自由のため?
失ったものを、取り戻すため?
得られなかったものを、得るため?
それを人に強制することを、悪と思い定めるから?
しな子は、戦っている。
この場所から、一歩も動かずに。
ずっと、長い戦いを、一人で続けているのだ。
また、音楽が聴こえる。
とーん、とん、たとん。
とーん、とん、たとん。
しな子が、奏太郎に教えてもらった童謡。
赤部の知っているそれとは全然違う。
これは、しな子の歌なのだ。
幼いこの日の炎が、今なお、しな子を焼いている。
その冷たい炎に身を焦がし、戦っている。
車からは、火が咲いている。
それは、まるで、蓮の花のよう。
その蓮の上で、しな子は踊る。幼いしな子を腕に抱きながら、赤部はそれを見た。
歌を歌う奏太郎も、踊る。
その姿は、見る見る増えてゆく。
増えるたび、それは蓮の花になった。
一輪、二輪、三輪、四輪。あちこちに咲いて、そこは花畑のようになった。
それは土井紗和でもあったし、佐藤加奈枝でもあったし、しな子が戦ってきた敵でもあった。生ける者も、死した者も、等しく蓮になり、踊っている。
それらの一つ一つに、しな子が共に踊りながら息を吹きかけてやっている。
一つ吹き消すたびに、何かが満ちる。
やがて、しな子もまた蓮の花になった。
それがくるりと旋回し、ぱっと風が吹く。
何かがそれに運ばれて、世界は疼きで満たされた。
それは、熱いような、快いような苦痛であった。
ああ、しな子は、いつもこうして結んでいたのだ。と赤部は思った。思って、手を伸ばした。踊るしな子もまた赤部に手を伸ばし、互いに握り合った。
握り合った手を通して、赤部もまたしな子の中に入った。
それなら、いっそ、もっと強く。
抱き締めた。痛みなど、どこにも無い。
赤部の足が、倒れ込もうとする自らの身体を、支えた。
アスファルトの感触が、確かにあった。
しっかりと、その炎を、見る。
「しな子」
しな子が、眼をぱちくりとさせ、赤部を見た。
それに、赤部は、にっこりと微笑みかけてやった。
しな子を抱いたまま、紅の蓮へと向かった。
近づくにつれ、その激しい炎が放つ光と熱が、身体を刺した。
「一緒に、戦おう」
腕の中のしな子が、ぽつりと言う。
「怖い」
それを、強く抱き締め、答えた。
「大丈夫だよ」
激しい炎の熱よりも、互いの身体の温もりが、そこにあった。
そのまま、赤部は、紅の蓮の中に立った。
その火に焼かれ、腹に空いた穴が塞がってゆく。
しな子が、今少しの時間をくれたのだ。
しな子の生は恵まれぬものではあるが、惨めではない。
しな子のために、施しをしてやるのではない。しな子と共に、戦うのだ。
しな子の痛みに同情してやるのではない。その痛みを、分かち合うのだ。
痛みも、怒りも、憎しみも、喜びも、すべて。分かち合い、確かめ合う。
そうしていなければ、人は生きてはゆけぬのだ。
「行こう、しな子」
「その男を、片付けろ」
部長は、鼻から流血しながら、駆けつけてきた組織の者に指示をした。
しな子は気絶し、佐藤も押し入ってきた組織の者に捕らえられ、二人とも連れて行かれた。
部長にとって、赤部がここまで抵抗するとは予想外であったが、概ね予定通りであった。
部長が与えられた任務は、デュオニュソスに、できるだけ多くの学習をさせること。
ライナーノーツは、国家機関である。その区割りを断ち切り、国際的な組織へと躍り出る。
軍事や戦争における、大量の消費。そこに必ず生まれる、大量の金と力。それなくして、均衡は保ち得ない。結局、世界は、武力と金で成り立っているのだ。
そう信じていた。
だから、このように、人を道具のように弄び、利用することができた。
大義とは、ときに人を狂わせる。その目指すものが高ければ高いほど、余計に。折れた鼻の痛みなど、何ほどのことでもない。
五人の部下のうちの二人が、倒れている赤部に手をかけようとした。
倒れたままの赤部の手が、不意に動いた。
それが、手元に転がったままの、三八口径リボルバーを握る。
赤部の顔が、上がった。
五人の男が、一斉に銃を抜いた。
腹這いになったまま、赤部は左右、最も近くの男を撃つ。
眩む頭を奮い起こし、鉛のような身体を持ち上げ、心臓を撃ち抜かれ倒れようとする男の向こうの三人に、銃口を向ける。
極限状態とは、人の感覚を閉ざす。
この場合の赤部が、そうだった。
音も消え、痛みすらも、忘れて。
ただ、銃の射線と、標的を結ぶ。
ドラマでよく見るように、片目を閉じてはいけない。
しっかりと、両目で、自らの銃が敵の方を向くのを見るのだ。
三発。
男達がセミオートを撃発するよりも早く、赤部は撃った。
残るは、部長のみ。
「赤部」
鼻を押さえたままの部長が、震える手で拳銃を向けてくる。
「なぜ」
「しな子は、松本に、負けたのか」
部長は、答えない。
「馬鹿野郎、俺のことなんか、放っておけばよかったのに」
荒い息と共に呟いた。
「何故」
部長が、やっと、そう言った。赤部は、ジャケットを、少し広げて見せてやった。
血に濡れたシャツの傷穴の部分が、焼け焦げている。出血が、止まっている。
「あの馬鹿が、戦いながら念象力を使い、俺の傷を焼き、血を止めたんだ」
しかし、場所が場所である。動脈はやられていないらしいが、放っておけば、やはり死ぬ恐れがある。
しかし、今しばらくの時間はある。
「あんたが何を考えようが、知ったこっちゃない」
赤部の銃の残弾は、一発。
部長が叫び声を上げ、引き金を引いた。
同時に、赤部。
赤部の後ろに飾られた絵に、穴が空いた。
その銃を握る部長は胸を撃ち抜かれ、死んだ。
敵を撃つ場合、頭を狙おうとするのは、素人か、ゲームのやり過ぎだ。頭とは急所だが、標的としてはかなり小さく、狙いにくい。
撃つなら、胸か、腹だ。
だから部長の弾は外れ、赤部の弾は当たった。
がくりと、膝をつく。しかし、倒れ込むわけにはゆかぬ。
医療班の手術室。そこに、しな子はいるはずである。
待ってろ。そう念じ、赤部は重い脚と眩む頭を再び奮い立たせた。
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