部長室にて
八〇年代後期製の赤部のアルファロメオは、東京トワイライトタウン近くの提携駐車場に。松本には、このことを連絡はしなかった。昨夜のやり取りが、引っ掛かっている。
「行くぞ」
しな子の身体の前に腕を伸ばし、ダッシュボードの中から、九ミリのセミオートを取り出した。
「持ってろ」
それを、佐藤に手渡す。佐藤は慣れた手付きで一度マガジンを外し、スライドを引いて薬室を覗き込み、戻し、初弾を装填した。
「慣れているな」
「あの人が使っていたものと、同じ銃よ」
「そうか」
赤部は、佐藤を庇い、死んだという佐藤のパートナーのことを思った。一体、どんな気持ちであったのだろうか。
最悪の場合、今日、これから、赤部もそれと同じ運命を辿ることになるのだ。数多くの死に触れてきたが、未だ自分で死んでみたことなどない。他者のために自らの身を犠牲にするとは、どのような心持ちなのであろうか。
無論、赤部は、しな子のためなら死んでもいいと思っている。だが、その場になって自分がしな子を見捨てたり、見捨てなくとも守れずじまいというようなことになりはしないか、と不安なのだ。
佐藤は、生きたがっている。彼女は、何を差し置いてでも生きなければならなかった。彼女の身体に宿った命は、彼女が死ねば同時にこの世から消えてしまうのだ。だからこそ、今、彼女は、生きることを勝ち取るためにここにいるのだ。
しな子は。しな子には、何もない。ただ、彼女なりに何かを考えている。
いや、きっと、佐藤は、何かを見たのだ。それが何なのか、佐藤にも分からぬに違いない。
しな子は、まだ、幼き日のあの火の中にいる。しかし、生きている中で触れる様々なものが、彼女を少しずつ進めてきたこともまた事実だ。
たとえば、音楽。それは彼女の髪型や服装を決定した。歌詞が英語だから何を言っているのかは分からぬが、人が歌を歌うのは、正負いずれかの方向に、心を激しく揺らすからだということを知った。
たとえば、言動。彼女の素っ気なく、他者との交わりを避けるかのような言動は、この世界を生きる中で彼女が選択したものだ。
たとえば、人。赤部が結果的にしな子を利用していたということが分かっても、それを許した。それは、しな子が赤部の本質を見抜き、そして赤部を必要としているからではないか。
奏太郎と出会い、人間性の欠片が顔を出した。そして彼を失い、実の父であるはずの高松議員に対しあれほど激しい怒りを表したのは、幼い頃の彼女自身と奏太郎が重なってしまったからではないか。
あるはずのものを奪われ。
自ら選ぶ機会を奪われ。
考えることも、感情を持つことも、誰かを好きになることも。
しな子も、奏太郎も、そうだった。その意味では、しな子は、たまたま身体が生きているだけのことであった。
奏太郎に与えられたのは、死。
しな子に与えられたのは、望まぬ力。
その望まぬ力が、奏太郎に、死を与えた。
その悲しみと怒りと自責は、彼女を焼き、苛み続けるだろう。
しな子が佐藤を守ろうとするのは、赤部に言われたからではなく、自らの意思による。
しな子は、佐藤の腹の中にある新たな命を、尊いものとして見ている。その命は、勝手に何かを奪われたりすることなく、自らの意思で取捨選択をし、生きて行かなければならない。
それは、しな子の憧れ。
そして、それは、自らの命をかけてでも守らねばならぬもの。
夢の中で、高速道路の上で燃える車の中から外に出たことがある。誰もがあの火に焼かれて死にゆく中、それでも、道は続いていた。
人は、いつか、必ず死ぬ。しかし、そこに至るまでの過程をこそ、人は重んじる。
それが、しな子の憧れなのかもしれぬ。
無論、しな子は、理論立ててそのようなことを考えるわけではない。ただ、頭の中を、雲のように、そのようなものが去来しているだけだ。しかし、それは、彼女を衝き動かすのには十分だった。
「赤部さん。手、震えているわ」
ジャージのポケットに手を入れたまま、しな子が言った。
「ははっ、何でもない」
赤部は、強がりを言って、運転席から降りた。しな子も、佐藤も、それに従った。
「行くぞ」
もう一度、赤部は言った。自分に言ったのかもしれぬ。
「赤部さん」
しな子が、赤部を見ている。
「手」
さすがに、赤部は、少し腹を立てた。
「分かってる。怖いんだよ。だけど、行くしかないんだ。俺は、お前達を守ると決めたんだよ」
正義の味方に、憧れた。赤部は、そう言っていた。しかし、機動隊で見たものは、親しい人間の死。そして人を苛む暴力。
そのような話をしていたことを思い出しながら、しな子は、言葉を重ねた。
「ううん、違うの。手」
赤部が、からかわれているのではないということに気付き、訝しむような顔をした。
「手が、どうした」
しな子の白く柔らかな手が、ジャージのポケットから伸びた。それが、赤部のざらざらとした手を掴んだ。
「しな子」
しな子の困り眉が、赤部の方を真っ直ぐに向いている。佐藤が、二人を見て、悲しい笑みを漏らした。
「行きましょ」
それだけ言うと、しな子は、ぱっと赤部の手を離した。赤部の手の震えは止まっている。
くたびれたスーツで無精髭の赤部。ショートカットに無骨なピアス、ジャージ姿のしな子。それと、一人の妊婦。三人は、歩きだした。駐車場の低い天井に、足音を響かせながら。
東京トワイライトタウン、地下二階。ジムの受付を通る。佐藤もライナーノーツの念象力者だから、無論、会員証を持っている。
受付のマリナは、今日も可愛かった。同じ笑顔で、三人を迎えた。
「あれ、お知り合いだったんですね」
「ああ、このジムで、仲良くなったんだ」
何気ない会話をしながら。
しな子は、マリナが得意ではないが、きっとマリナも、生きてきた中で自らの立つ位置を得るため、この人格、言動、行動を選択してきたのだ。そう思うと、憧れた。
いや、もともと、憧れていた。たとえば、しな子が今着ているスポーツブランドのショップ店員。たとえば、居酒屋の
彼女らは、いや、誰もが、自らにしか持ち得ぬものを持ち、生きているのだ。
しな子には、彼女らが等しく違う形で持つものを何一つ持たぬ代わりに、念象力。引け目を感じて、当然である。憧れて、当然である。
思考は、このようにして遊ぶ。デュオニュソスが頭に入ってから、どうも、ものを考えることが多い。
すぐに、頭の中を、情景や言葉がふわふわと漂う。それは悲しみでもなく、怒りでもなく、ただ喜びに似た妖しい脈動をしな子の心に与え続ける。
VIPルームの隠しエレベーターから、地下三階へ。無機質な空間。この国の、いや、世界の闇の一端が、そこに広がっている。
三人は、部長室へ。
「おお、来たな」
部長が、三人を迎えた。しな子と赤部は佐藤を消すという任務を放棄したのだ。本来ならば罰せられて然るべきだが、それを咎める気はないらしい。
「さて、早速だが、始めようか。丹羽君からデュオニュソスを、返してもらうよ」
「佐藤加奈枝は、どうするつもりです」
「佐藤君には、別でお願いしたいことがある」
「その内容を、教えて下さい」
「君には関わりのないことだよ、赤部君」
「そういうわけには、行かん」
赤部が、懐から拳銃を抜いた。
「どういうつもりだ、赤部」
赤部は、その擊鉄を倒し、無理やりに口の端を引きつらせた。笑ったのだ。
「交渉を、しようじゃないか」
「交渉だと」
「しな子の頭の機械は、外す。それは、呑む。俺たちだって、こいつには迷惑している」
「うむ」
「しかし、佐藤は渡さん」
「何故だ」
「彼女は、もう、こんなことに関わらぬ方がいいんだ」
「それは、お前が決めることではない」
「あんたが決めることでもない。誰にも、決められはしない」
「血迷ったか」
「いいや。ようやく、正気に戻ったんだ」
赤部の拳銃が、ずいと突き出た。
「殺しの仕事に、
「俺たちのような人間は、この世に、必要なのだと思っているさ。俺たちが、人の欲の暴走を防ぎ、バランスを保っているんだ」
「それが分かっていながら、何故」
「それと、一人の人間が幸福でいてほしいと願うことは、別だ」
「一人のため、全てが崩れることもあるのだぞ」
「俺は、しな子のためなら、世界が壊れても構わない」
「情が移ったか」
「そんな物言いを、するな。しな子が人殺しをするかどうかは、しな子が決める」
「その女は、デュオニュソスを外せば、もう使い物にならんぞ。デュオニュソスを外せば、脳内の物質のバランスに急激な変化が生じ、力を失う」
「こんな力、無くったって」
赤部の言葉を、しな子が引き取った。
「わたしは、わたしよ」
部長は、言葉を詰まらせた。
「驚いているな。人形が、口を利いたか」
不敵に口の端を歪める赤部への返答の代わりに、溜め息。
「赤部君。君には、期待していたのに。残念だよ」
部長室の奥は応接室になっている。そこのドアが、勢いよく開いた。素早く影が飛び出る。
その動きで、その影が拳銃を構えたことが分かった。
擊発。
赤部が、のけ反る。
しな子の視界に映ったのは、赤部から飛ぶ血と、その向こうで僅かな硝煙を立ち上らせるセミオートを構えた、松本。
「赤部さん!」
しな子の叫びが、部長室に響いた。
佐藤は、松本に。部長は、佐藤に。それぞれ取り出した拳銃を向ける。
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