その時が、近づいている

 赤部。松本と、二人で会っている。一通りの打ち合わせや、確認事項の示し合わせが済んだあと、言った。

「そろそろ、教えてくれないか」

「何だ」

「佐藤加奈枝のことさ。なぜ、彼女なのだ」

「どういう意味だ」

「なぜ、彼女を守る。守らなければならぬ人は、多くいる。彼女も、その一人であることに違いない。しかし、なぜ、彼女なんだ」

 松本は、少し考える素振りをしながら、グラスを置いた。

「話そう。彼女の、力だ」

「力?」

「そうだ。彼女の力は、の役に立つ」

「力?」

読心術リーディングだ」

 相手の心の中に意識を潜行させ、その姿形を見、相手の内なる声や、ときに死者の声をも聞く。そんな能力である。

 もしかしたら、佐藤は、はじめから赤部の心を読み、その危険のないことを知り、しな子の心を読み、彼女のそれが大きな空洞になっていることを知っていたのかもしれぬ。

「お前、まさか」

「そうだ。彼女を、俺のにする。パルテノンの連中の頭の中を覗き、目的のための最短の道筋を取るのだ」

「彼女を、俺たちのために利用するのか」

「そうだ。目的のため、手段は選んではいられない」

「――そうか」

「不満か」

「俺は、できれば、それはしたくない」

「何故だ」

「彼女を救うと称し、それを利用すれば、結局、ライナーノーツと、やっていることは同じではないか」

「気が優しいな、赤部。この後、お前のパートナーのような人間を、作りたくない。お前は、そう言ったではないか」

「しかし」

「全ては、得られん。何かを諦めなくては、本当に欲しいものは、得られん。それを、お前は知っているはずだ」

 無論、知っている。内心でそう思いながら、ウーロン茶のグラスを持ち上げる。そこから垂れた水滴が、テーブルを丸く濡らした。それは、そこにグラスを戻す目印のようにも見えた。

「納得できん。俺は、彼女を守る。しな子も」

「おい、勘弁してくれ。彼女の力を借りれば、デュオニュソスを外す方法も、分かるかもしれんのだぞ」

「彼女の力が無くては分からぬのなら、強行手段に出る」

「馬鹿な。落ち着け。どうするつもりだ」

「ライナーノーツのトップを締め上げ、医療班に、外させる」

「正気か。失敗するぞ」

「松本」

 赤部は、立ち上がった。

「俺は、全て望む。しな子を救いたい。しかし、しな子一人が救われただけでは、意味がない。しな子を救うということは、しな子のように、人が人の道具にならぬようにするということだ。佐藤加奈枝の子に、普通の人生を歩ませるということだ」

「理想家だな」

「とにかく、佐藤加奈枝には、協力させたくないんだ」

「本人が望めば?」

 松本の、薄あばたの顔が、赤部の方を向いた。

「それは、分からん」

 赤部は、立ち去ろうとした。

「赤部。頑なにならないでくれ。彼女の協力で、パルテノンを、武力無しで崩せるかもしれんのだ。俺は、俺の集めた武器が、無駄になることをこそ、求めているのだ」

「――考えさせてくれ」

「頼む。俺も、の頭に取り付けられたおぞましい機械を、この世から消すことを、望んでいるのだ」

 赤部は頷き、ウーロン茶のグラスを空にし、そのまま店を出た。

 

 松本。掴み所がなく、得体の知れぬ男である。税理士事務所を経営する傍ら、パルテノンの嘱託社員をしている。彼の事務所で働く者は、一様に彼の秘密ののアシスタントである。

 しきりと、武器を集めてもいる。組織を作り、パルテノンと戦うと言っていた。無論、戦争を始めるつもりはないにしても、パルテノンとは、それくらいの覚悟がなければ、とても相手にできたものではないのだ。だからこそ、松本は、念象力者を欲しがるのだろう。しかも、佐藤の持つそれは、相手を傷つけず、心を読む力。たとえば、機密を種にこともできるだろうし、あるいは、それらを全て暴き、ほんとうにパルテノン解体に繋がる一石を投じることすらも可能になるかもしれぬ。それは、分かる。

 しかし、赤部は、どうにも腑に落ちない。単細胞と言われればそれまでであるが、念象力者が、その力のために人に利用されるようなことがあってはならぬと思うのだ。人が、人の食い物にされるようなことがあってはならぬ。そう思うのだ。

 それに、松本の側に佐藤を置くということは、彼女を危険に晒すということだ。松本は信用しているが、信頼できるわけではない。言い換えれば、ではあるが、にはなり得ない。

 佐藤を松本に託すということが、赤部の心の中の本流に逆らうことではないという信頼が必要だ。

 そして、赤部は、滅多に人を信頼はせぬ。その信頼は、しな子一人に向けられている。

 どうやら、松本とは、深いところで、道を違えているらしい。

 それならば、表面的な部分で、利用し合えばよい。互いがそれを知り、互いに利用し合うのならば、何の問題もあるまい。


 急がねばならぬ。

 最悪の場合、ほんとうに、強行手段に出てもよい。

 しな子の炎でまず組織中枢機能を破壊し、部長を捕らえ、痛め付けて脅し、医療班に無理矢理手術をさせる。そして、しな子が目覚めるまでそれを死守し、目覚めと同時に逃げればよい。取り付けるときに較べれば、取り外すのは簡単なはずだ。ついでに、部長にも、病室のベッドから起き上がれぬようになってもらう。

 逃げるときに、殺せばよい。

 松本の力を借りずとも、実行できるのだ。

 しかし、それは、あくまで、最後の手段。

 危険は、できるだけ少ない方がよい。

 それは、分かっている。

 どちらにしろ、地獄であることに変わりはない。ましてや、戻ることなど決してできぬ。はじめから、しな子には、戻るべき場所などないのだ。

 ならば、赤部は、進むのみ。



 翌朝、しな子。佐藤が、料理が得意だと言い、赤部がこの前買ってきて冷蔵庫に入れておいた僅かな食材で、何かを調理している。

 それを見ていて、それは、佐藤が、失ったものや得られなかったものを、自分から得ようと努力をしている姿なのだと思った。何も求めず、諦め、受け入れている自分とは違うと。

 なんとなく、そう思いながら、たった一つの娯楽である、また買い揃えたオーディオから流れるの強い音楽に耳を泳がせている。部屋の中だから、お気に入りのジャージを身につけて。

 その手が、何かをしている。赤部が立ち寄ったスーパーの袋の中に入っていた、特売のチラシ。それを正方形に切り、鶴を折っているのだ。

 どこで覚えたのか、思い出せぬ。誰にも、習ったことはない。しかし、折ることができるような気がした。きっとこれは、今の記憶が始まる以前の、記憶。それがしな子を衝き動かし、目の前の小さな鳥を産んでいるのかもしれぬ。

 何かを創ることは、できぬ。

 何かを与えることも、できぬ。

 そう思い定めたしな子の、心の形代かたしろのような小さな鳥が、でき上がりつつある。でき上がりつつあるが、途中で折り方が分からなくなった。

「しな子ちゃん」

 佐藤が、キッチンから顔を覗かせた。しな子の手の中の半端な鳥は、生まれることなくテーブルの上に置かれた。

「ドレッシング、無いの」

「無い」

「サラダ、どうしようか」

「塩でいいじゃない」

「わかった」

 佐藤は、調味料も食材も満足にないキッチンで、できる限りきちんとした朝飯を作った。

 トーストに、ベーコンの入った卵焼き。レタスとキュウリしかないサラダ。スープもあればよかったが、固形ブイヨンなどあるわけがない。

 口に運ぶと、温もりがあった。例えば、赤部とよく行く居酒屋の看板娘である朱里あかりの作るもののような。コンビニ弁当とは、まるで違う。

「おいしい?」

 と、言葉には出さずに佐藤が顔を覗き込んでくる。

「ええ」

 しな子は答えた。笑ってやろうとしたが、タイミングが上手く掴めない。

 

 不意に、部屋のチャイムが鳴った。一階のオートロックの呼び出しは鳴らなかった。

「しな子ちゃん、駄目」

 佐藤が、なにかを感じ取ったように、しな子を制した。

「なにか、嫌な感じがする」

「ええ、わたしもよ」

 ジャージのポケットにスマートフォンを入れ、しな子は玄関に向かった。

 ドアチェーンをかけたまま、覗き窓から覗く。

「管理組合のものですが。契約書類のことで、お聞きしたいのですが」

 部屋の外に、スーツ姿の男が三人。

「ちょっと、待って」

 しな子は、部屋の外に向かってそう言った。

 身を隠せ、と室内の佐藤に、目配せをする。

「しな子ちゃん」

 佐藤が、声を出した。

「押し入るつもりよ、彼ら」

 しな子が、振り返った。

「ここに、押し入るつもりよ。あなたを殺し、わたしを連れて行こうとしている」

「あぁ、そう」

 しな子は、逆に、ドアチェーンを外し、思いきりドアを開いてやった。

 そこに滑り込もうとした一人の手を引き、握っている拳銃を弾くと、膝の上を蹴り落とし、脚を折った。そのまま引きずり込み、盾にする。しな子のポケットからスマートフォンがこぼれ落ち、床に転がった。

 他の一人が、入ってきた。手には、やはり拳銃。呻き声を上げる男を盾にしながら、しな子は玄関を塞いだ。

 床に転がったしな子のスマートフォンが、鳴る。画面には、赤部健一郎の表示。

 足の指で器用に応答ボタンを押し、スピーカー通話にした。

「赤部さん?」

「しな子、起きてるか」

「ええ。知らない男が三人、来ているわ」

「男?何者だ」

「マンションの、管理組合の人だそうよ。拳銃を持ってる」

「おい、何だよ、それ。ちょうど、そっちに向かってるところだ。大丈夫か」

「早く来て」

 しな子は、おい、大丈夫か、と叫ぶ赤部を放って、盾にしている男を突き飛ばした。

「こいつ」

 二人の男が、一斉に玄関へと乱入してきた。

 突き飛ばした男は、よろめきながら、二人の男の方へ。脚を折られているから、倒れ込みそうになった。

 それを、見た。

 結ぶ。

 男の衣服に、紅の蓮が咲く。延焼せぬ程度に火力は調整している。

 わっと声を上げて、二人が咄嗟に身を庇う。

 燃える男を、踏み越えた。

 もう一人の頭に、左の膝。男は、昏倒した。たぶん、頭蓋が割れただろう。

 玄関が、広い。狭い玄関なら、一人ずつ引き込んで始末するのだが、この広さでは、ドアを潜らせてしまえば、二人を同時に相手にすることになる。

 しかし、そんなことは、どうでもいい。相手の狙いが何であれ、佐藤を守るのだ。

 着地と同時に、最後の一人の拳銃に手をかけ、銃床を跳ね上げ、手首を曲げながら奪い取り、向けた。

「どういうつもり」

「待て」

「あなた、何者」

「俺は、お前達を、守りに来たんだ」

「嘘ね」

 階下で、聞きなれたエンジン音。赤部が、来た。

「どうする。ここで、死ぬ?」

「参った。降参する」

 男は膝をつき、両手を上げた。

「その男を、部屋の中に」

 しな子は、その男に、頭を割られ倒れている男を引きずらせ、部屋の中に入れた。

 一瞬のことだから、騒ぎにはなっていない。

 火を発した男は、自力で転がって消火していた。肺まで焼けるほどの力を使わなかったから、衣服を焼かれ、火傷を負った程度であろう。その側頭部を激しく蹴りつけ、気絶させた。

「中に、上がりなさい」

「わかった」

 男は、抵抗することなく、手を上げたまま室内へ。

「あなたを殺していいものかどうか、判断がつかないの。赤部さんに、決めてもらう」

 部屋のドアが勢いよく開き、赤部が駆け込んできた。

「しな子!大丈夫か」

「一人、殺した。一人は生きてる。この人は、どうする?」

「殺すな」

 しな子は、銃口を外し、マガジンを外し、排莢はいきょうし、銃を捨てた。

「どういうつもりだ。お前、何者だ」

 今度は、赤部が、拳銃を抜いた。

「落ち着け。悪かった」

「お前は、やっちゃいけないことを、やったんだ」

「なに」

 無抵抗な姿勢の男の後頭部が、少しだけ振り返った。

「しな子に、手を出した。そして、しな子に、人を、殺させた」

「ライナーノーツきっての殺し屋が、聞いて呆れるな、赤部」

「黙れ」

 男は、しな子や赤部のことを、知っているらしい。

「――松本か」

「誰だ、それは」

「とぼけるのか」

「松本などという名は、知らん」

「赤部さん」

 佐藤が、声を上げた。まだ、トーストを手に持ったままである。

「その人の言うことは、本当よ」

「心を、読んだのか」

「ええ、その人の頭の中に、松本という名は、ないわ。あって、せいぜい、芸能人の名ね。私を、殺すつもりだったらしい」

「なんだと。誰の差し金だ」

「ライナーノーツ。その名を、彼は頭に浮かべている」

「組織からの、刺客?あんたを匿っているのが、露見したということか」

「そこまでは、わからない。彼も、よく知らないようよ」

「ちっ」

 赤部の三八口径の銃床が男の後頭部を激しく打ち、気絶させた。

「しな子。もう、時間がない」

「どうするの」

「分からない。とにかく、ここを出よう」

 三人は、慌ただしく家を出た。


 車のエンジンをかけたところで、赤部のスマートフォンが鳴る。

「赤部です」

 しばらく、赤部は相手の話を聞いている。

「ええ、今、一緒です」

「ほんとうですか」

 赤部が、しな子をちらりと見た。

「――分かりました、すぐに」

「どうしたの」

「お前の頭から、デュオニュソスを外すことになった」

 赤部は、何かをしきりに考えている。

「加奈枝さん」

 佐藤が、赤部をじっと見た。

「一緒に、来てもらいます」

「待って、そうしたら、この人は、殺されてしまうわ」

「どうしますか。嫌なら、何とかする」

 佐藤は、ただ、赤部を見ている。

「どうにも、ならないわよ」

「俺は、どうすればいい」

「私は、構わないわ」

 佐藤が、悲しそうに笑った。

「いいんだな」

 佐藤は、赤部の思考を、読んでいるに違いない。赤部も、それを、感じていることであろう。

「あんたは、必ず守る」

「あなたがそう思っているのは、分かる。でも、危険よ」

「やるしかない」

「わかった。それじゃ、こうしましょ」

「どうする」

「各々、自分の身は、自分で守る。もし、あなたの考えていることが失敗しそうになったら、私を見捨てて、しな子ちゃんを守ってあげて」

「いいんだな」

「いいも何も、あなたは、そうするわ」

 しな子は、二人が何のことを話しているのか、分からない。

「大丈夫なの、赤部さん」

「ああ、俺を、信じろ」

 と言う割には、赤部は、緊張しているらしい。

「この人、頼りにならないの。でも、安心して」

 ジャージ姿のしな子は、助手席の窓に眼をやった。

「あなたは、わたしが守る」

 後部座席の佐藤の視線が、しな子の方を向いた。

「あなた、ほんとうに、空っぽなのね」

 そう言って、佐藤は、また悲しそうに笑った。

「だから、信じられる」


 腹の子のため、彼女は、生きなければならない。自分が死ぬということは、子も死ぬということだ。

 しかし、今ここで逃げても、居所が割れた以上、別の刺客が放たれるに違いない。

 それならば、戦うしかないではないか。彼女の、この世界でたった一人の味方は、しな子なのだ。

 生きるため、これから来ると分かっている危険に身を晒す。

 子のためならば、母とは、それくらいの覚悟はするものらしい。


 車は、目黒へ。ただ進む。

 その時が、近づいている。

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