保護対象:佐藤加奈枝

 吉祥寺のマンション。

 この日も、赤部は、しな子の家にやって来た。しな子は、家の中ではいつものジャージ姿である。肩の銃創は痛まぬようになったし、髪は、ほんの少し伸びたように思う。

 外に出るときは、微妙に形やロゴの違う、紺色のパーカーを着る。それも、自分で思いのほか似合っていると思っていて、気に入ってはいる。しかし、ほんとうのお気に入りは、この三本ラインのジャージなのだ。家で着るために、新しいものをわざわざ買ったのだ。

 使いきれぬほどの金が、毎月しな子の口座に振り込まれる。振り込み名義人は、聞いたこともない法人だった。欲しいものなら、何でも買える。しかし、しな子が欲しいものなど、ごく僅かしかなかった。


 もう、年が明けている。正月の、街のよそよそしい空気もとっくに過ぎ去って、世間にはまた日常の慌ただしさが戻ってきている。今、二月。春の陽気にはまだほど遠く、去年から地続きになったままの東京の乾いた冬の朝だった。

 週に一度は目黒の本部に出向き、デュオニュソスについての経過観察を行う。なにがどうなれば良好なのか知らぬが、経過は良好らしい。

 このライナーノーツの医療班は、パルテノン・コーポレーションからデュオニュソスの運用について、大きな技術供与を受けているようだ。代わりに、ライナーノーツからは、本来最高レベルの機密であるはずの、念象力者についての情報と、その臨床データを。


 仮にも国家機関であるライナーノーツと、国内有数の大企業で海外にも多くのグループ企業を持つパルテノン・コーポレーション。二つの組織は、互いに繋がって、何をしようと言うのか。

 この日、赤部がしな子のところを訪れたのは、いつもの食事の差し入れではなく、迎えのためであった。久しぶりの仕事である。

「いけるか、しな子」

「いけるも何も、ないわよ」

 しな子は、眠そうな眼をしている。

「ブリーフィングの通りだ。気を抜くな」

「念象力者ね」

「ああ。注意しろ」

 あれから、赤部は松本としばしば会い、互いに情報を交換し合っているらしい。

 松本からは、赤部の求める、デュオニュソスの取り外し方あるいはその機能を無効にする方法についての、情報の断片がもたらされた。

 今のところ、分からぬ、ということしか、分からぬ。

 赤部は、ライナーノーツのことを、漏らしているのだろうか。しな子は気になったが、しな子が気にしても、仕方ない。しな子のために、赤部がそれをしているのを、知っているからだ。

 ならば、しな子は、ただ赤部のしたいように、させてやる以外にない。

 しな子は、他者からこうしてくれと求められ、それに応えることと、他者にこうしてやりたいと思うことは、違うと思っている。赤部のしていることは、後者。だから、しな子は、赤部の好きにすればいいと思った。

 冷たいようだが、そこが、しな子らしいところである。決して、人から情を求めぬ。そして与えられるものを、拒みもせぬ。


 対象は、通院しているという。その帰りを、狙う。

 病院の、エントランス。政治家やVIPなどがよく使うことで有名な病院だけあり、豪華なものであった。そこで待ち伏せするのではなく、それを通り抜け、奥へと進んでいった。

 恐らく、松本から別で情報を得ているのだ。

「しな子」

 赤部が、病院特有の臭いのする廊下に、革靴の音を響かせながら言った。

「今日の標的は、殺すな」

 パーカーのポケットに手を入れていたしな子は、眼を上げた。

「殺さない?」

「標的は、妊娠している」

 女性であることは、聞いていた。なんでも、ライナーノーツの情報を、他所に漏らしたらしい。漏らす先が、悪かった。標的は、誰にも相談できず、あろうことか、マスコミに駆け込んだ。マスコミは、格好のとして、彼女を食い物にするだろう。ライナーノーツの存在を世に知られるだけでも大問題なのに、その上、芋づる式にその内側にまで手を入れられれば、たまったものではない。全てを話されるその前に消せというのが、今回の任務。それはすなわちパルテノンにも大きな関わりのあることだから、パルテノン側でも情報を持っているはずで、赤部が松本を経由して独自に得た情報は、そちら方面のものだろう。


 今日、この病院に標的がやって来ることはブリーフィングのときに伝えられたが、妊娠のことには何も触れられなかった。任務には、関係のないことなのだろう。

 赤部は、それを、殺すなと言う。そう言われれば、しな子は、殺さぬ。ただ、

「いいのね」

 と言った。任務に背けば、すなわち、ライナーノーツから狙われることとなるのだ。もしかすれば、二人のうちのどちらかが、あるいは両方が死ぬことになるかもしれぬ。その道を歩くことを受け入れられるのかどうかの、確認をしたのだ。

「構わない」

 赤部は即座に答えた。

「お前は、いいか」

 しな子は、ちょっと立ち止まり、パーカーのポケットから手を出した。

「いいわ」

「お前を、俺が、自由にする」

 思い上がりかもしれぬ。しかし、赤部は、そう言った。

「あなたのこと、信じるわ」

 しな子の可愛い困り眉が、赤部の方を見た。

「期待は、しないけど」

 冗談を、言ったらしい。


 そのまま、病院の奥へ。産婦人科の待ち合いに、腰かけた。しな子と赤部は、一見、年の離れた未婚のカップルのように見えるだろう。遊び好きの三十代と、訳ありの二十代前半。しな子は色白で童顔だから、もっと深い訳があるように見えているかもしれぬ。

 待ち合いに腰掛けていると、の名が呼ばれた。

「佐藤さん。佐藤、加奈枝かなえさん」

 ブリーフィングで写真は見た。しかし、対象は、どうやらを被り、眼鏡をして変装しているらしい。

 まだ、腹はそれほど目立たぬ。しかし、その腹にあてがった手の優しい動きは、紛れもなく母のものであった。

「しな子、あれが、そうだ」

 赤部が、低く言った。

「そうね」

「どうした」

「ううん、べつに」

「そうか」

 出てきたところを尾けて、病院の外で接触する。そのまま、車に載せ、大きく迂回をしてライナーノーツの眼を眩まし、しな子の家に連れてゆく。そういう算段である。

 赤部が企てた、初めての反逆。その計画を、赤部は頭の中でもう一度反芻した。

「わたしも、あなたも、ああして誰かのお腹の中にいたのね」

 しな子が、ぽつりと言った。

「あぁ、そうなんだろうな」

「赤部さん、結婚したことないの?」

「ない。俺には、向いてない」

 しな子が、喉の奥で笑い声を立てた。

「そうね」

「そうね、ってお前」

「だって、あなたがお父さんや旦那さんになっているところなんて、想像できないもの」

「まぁ、そうだが」

「いつもあなたは、自分のことばかりだから」

 しな子の眼が、赤部を射抜いた。その眼には、皮肉と軽蔑の光があるものと赤部は思ったが、違った。黒目はとことん黒く、白目は思い切り白いしな子のそれが、少しだけ潤んだ光を湛えて、揺れていた。

 無論、二人は、男女としてどうこうというような間柄ではないが、しな子にとって、この世でただ一人、なのだ。赤部は、しな子に微笑んでやり、眼を標的の入っていった診察室の方に向けた。

 暫くして、佐藤が診察室から出てきた。それを見て二人は立ち上がり、それとなく病院の廊下を歩いた。

 尾行する。

 気配を殺して。

 しかし、完全には消さず。

 総合受付で支払いを済ませ、エントランスを出た。

 出たところで、しな子と赤部が、佐藤の両脇に。

「佐藤加奈子さん、ですね」

 佐藤が、口から心臓が飛び出るほどに身を縮めるのが分かった。

「このまま、歩いてください」

 赤部が、できるだけ穏やかな口調で言った。

「駐車場に、私の車があります。それに、乗り込みましょう」

「私を、殺すのね」

「いいえ。殺しません」

「嘘。じゃあ、あなた達は、誰なの」

「あなたを、守りに来ました」

「守りに?何から」

「組織からよ。いいから、言う通りにして」

 しな子が、ぶっきらぼうに言った。これでは、余計に佐藤を警戒させる。

「大丈夫です、佐藤さん。あなたの身の安全は、私が保証します」

「でも、どうして、組織が私を守りに?」

 佐藤は、駐車場の方に足を曲げた。彼女もまた、ライナーノーツの念象力者として、を受けている。身重とはいえ、襲いかかってくることも考えられるから、それに警戒しながら歩く。

「この丹羽しな子が、人殺しの道具にならぬように。これ以上、人殺しの道具を増やさぬように。私は、それを願っています。あなたになら、分かるはずだ」

 赤部が、後部座席のドアを開き、促した。佐藤が赤部達を殺そうと思えば、殺せる位置に、あえて彼女を載せるのだ。

 その意味を察し、佐藤はおとなしく乗車した。

 車は、首都高を乗り継ぎ、甲府まで出て高速を降り、更にまた高速へ。その間、様々なことを話した。主に赤部が、自分のことを話した。

 しな子は、ずっと、いつもの通り、助手席の窓を見ている。

「あなた」

 と、佐藤は、しな子のことを呼んだ。

「あなたは、何故、戦うの?」

 それに、しな子は答えた。

「それしか、することがないから」

「戦うことが?」

「わたしには、その他に、何もないの」

「そう。あなた、名前は」

「丹羽しな子」

「しな子ちゃん」

「あなた、赤ちゃんがいるんですってね」

「ええ、そうよ」

「大丈夫。わたしが、守ってあげる」


 それきり、しな子は口を閉ざした。

 その代わりに、鼻唄。

 やっぱり、下手だった。

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