新たな目的

 日付が変わる頃、三人は、赤部が密談などをする際によく用いる赤坂の高級ホテルへ。はじめから、松本と密談をするつもりでこの部屋を予約していたらしく、当たり前のように深夜のフロントで鍵を受け取り、五階の一室に入った。

「さて。何か、飲まれますか」

 深夜でも、飲み物は注文できる。ビールと言いたいところであるが、赤部は下戸。松本も、それに合わせて、ウーロン茶。しな子だけ、カシスオレンジのカクテルを頼んだ。

「赤部さんは、この世界は?」

「ええ、もう、十年になりますか」

「そうですか。私の先輩にあたる」

 この世界、とは、東京の闇や影の中を泳ぎ渡ることを言う。

「いえ、この世界に先輩も後輩もないことは、ご存知のはず。騙し、裏切り、奪い合うだけの世界ですから」

「それに、あなたは、疲れたと仰る」

「そうです。いえ、疲れはしません」

「ほう、それはまた。私は、疲れていますよ」

「会社にいながら、会社を裏切ることに、ですか」

「それもありますがね」

「いえ、申し訳ない。私から、協力をお願いしているのです。まず、私のことを、話すべきでした」

 赤部が、居住まいを正した。そこに、部屋の呼び鈴が鳴り、飲み物が運ばれてきた。そのルームサービスの女性従業員の動作を、しな子は、じっと目で追っている。

「お待たせ致しました」

 三つの飲み物が、テーブルに置かれる。赤部は、失礼、と断りを入れ、煙草に火をつけた。

 刹那。

 座ったままのしな子の手が、女性従業員の手を捉えた。

「なにを、するつもり」

 腕を捻り上げ、素早くエプロンの内側から、拳銃を抜き取った。二二口径。そのまま、女の眉間に突き付けた。

「後ろを向いて。膝をつくの」

 女は、手を上げ、言われた通りにした。赤部もスーツの内側から三八口径を抜き、構えた。

「わたしたちを、殺すつもり?」

 女は、答えない。

「答えなければ、撃つ」

 やはり、女は答えない。その代わり、膝立ちのまま素早く身を旋回させ、しな子の握る拳銃を払い落とした。

 腕を絡めてくる。

 それにしな子は逆らわず、腕を押さえられて自らの上半身が下がる勢いを利用し、白い脚を跳ね上げ、大きく身体を反らせ、女の顔を足の裏でもって蹴った。女が、体勢を崩す。

 しな子は、テーブルの上の灰皿を掴み、腰ごと旋回すると、倒れ込もうとする女の側頭部を、横殴りに殴った。

 血がカーペットに飛んで、その上に女は横倒しになった。

 その灰皿を、赤部の前に差し出す。

「灰」

 赤部がくわえたままの煙草から、灰が落ちそうになっている。赤部は、血糊のついた灰皿で、煙草をもみ消した。しかし証拠になり得る吸殻は残さず、内ポケットの携帯灰皿へ。部屋は偽名で借りているが、念のためである。

「こいつは、一体」

「赤部さん、丹羽さん。これは、恐らく、私への刺客」

「では、パルテノンが?」

「パルテノンの息のかかった者は、どこにでも、いるものです」

「確かに」

 赤部は、国家機関であるライナーノーツもまた、パルテノンと強い繋がりを持っていることを思った。

 赤部がパルテノンの意を受けて動くよりもなお強い繋がりを部長などは持っているらしいことは、このところの一連の騒ぎから察しがつく。

「裏切りは、死。恐ろしいことです」

 自分に放たれた刺客だと言いながら、松本は平然としていた。ものに動じぬ性質たちなのかもしれない。

「しかし、丹羽さん。念象力だけではなく、体術も相当なものですね。頼りになります」

「そういうを、受けています」

 しな子は、ぶっきらぼうに答えた。その膝が、埠頭で放った飛び膝のために、赤黒くなっている。

「松本さん、怪我は」

 赤部が、松本を気遣った。

「大丈夫です。私より、彼女の方を、もっと気遣うべきだ」

 赤部の方は見ず、しな子の膝の痣を、見つめている。

「彼女は、タフです。大丈夫ですよ」

「いくらタフで、瞬時にして男を焼き殺すことができても、女性です。人間です。私などが、あなたにこんなことを言うのは、失礼だが」

「いえ」

 赤部は、しな子を見た。気付いたしな子が、ちょっと眼を上げた。

 しな子を、人間でないもののように、見ていたのかもしれぬ。あれだけしな子のことを気にして、気遣っているふりをしながら、ほんとうに彼女の痛みに寄り添うことは、していない。そう赤部は自分で思った。

 もし、彼女の痛みに寄り添うならば、今、彼女がここに居ることがおかしい。デュオニュソスの試験運転に、彼女を駆り出していることが、おかしい。

 服を買い与え、見た目は別人のようだが、目の前で、膝を真っ赤に腫らし、紺色のパーカーに付いた敵の血を気にしている女は、しな子なのだ。

 世界に、たった一人だけの。その存在を、認め、受け入れ、喜んでやるつもりではなかったのか。

 赤部は、また自責の念に駆られた。自分が、しな子に生きる喜びを与えてやれると思えるほど、赤部の頭はおめでたくはない。しかし、この世で、自らの存在を喜んでくれる者が一人でもいると信じられるか否かは、大きなことである。

 その一人に、赤部はなりたいのだ。しかし、依然として、赤部は、しな子をとしてしか、見ていないのではないか。

 その自責を松本は、察したのかもしれぬ。

 松本がそういう男なら、信用は出来そうであった。

「赤部さん」

 松本は、少し薄あばたのある顔を、赤部に向けた。

「協力しましょう。たぶん、私が求めることと、あなたが求めることは、同じだ」

「そうですか」

 倒れて——間違いなく死んでいる——いる女のことなど見えぬように、二人の会話は続く。

「この、丹羽しな子の頭には、パルテノンの開発した、あるものが埋め込まれています」

「ほう、それは、念象力に関係する」

「ええ。デュオニュソスと言います。それは、脳の働きに影響を与える物質の生産に働きかけ、念象力を増幅します。今、彼女は、そのの最中です」

「なるほど。多人数を相手にすることとなる私の依頼は、うってつけであったというわけですね」

「松本さん。私が、前もって――」

 しな子が、赤部を見た。顔を合わすのは初めてでも、赤部が前もって松本と接触していたらしいことに驚きを覚えたようだ。

「――あなたに関わりをもち、我々の利害の一致を説き、依頼をしてもらったのは、あなたの協力を得ること自体が目的だったのです」

「赤部さん」

「何か」

「まどろっこしいな。俺、お前、で行こうじゃないか」

 松本の眼が、光った。先程までの落ち着いた印象が、舞台の幕のように落ち、途端に鋭いものが見えた気がした。それを、赤部は観察した。

「わかった。あんたは、俺に協力すると、踏んでいた」

「どうしてそう思った、赤部」

「しきりと、武器を買い集めている奴がいるという話を耳にしてね。そいつが、買い付け元と値の交渉でモメて、消されかけているって話も。これは、この前言ったな。消される前に、ライナーノーツに依頼をして、消してしまえと。国を跨いで人を殺せるのは、しかいない。国際問題にでもなれば、パルテノンの眼は、必ずあんたに向く。俺は、考えたんだ。あんたが、何のために武器を買うのかを」

「答えは、出たのか」

「あんた、潰すつもりだろ。パルテノンの広報部を」

 松本は、溜め息をつき、ソファに深く腰掛けた。

「そうだ。出来るだけ、穏便に。今日来ていたのは、税理士事務所の連中だ。俺が、雇っている。彼らにも、人を雇わせ、その人にも、人を雇わせる」

「あんたの組織を、作るつもりか」

「ああ。広報部を潰し、パルテノンを、ただの会社にする」

「できるのか」

「分からん。しかし、武器も含め、暗いことを随分やっている企業だ。武器は、要るだろう」

「国を、相手にすることになるかもしれんぞ。ただの、会社の一部署じゃない。あれは広報部などと言っているが、諜報機関だ。実行力を持った。それを、知らぬわけではないだろう」

「承知の上だ」

「正気じゃないな」

「全くだね、赤部。俺は、どうかしてる。しかし、この国やパルテノンの方が、おかしい。そもそも、我々は、武力を持ってはならんのだ。人を騙したり、殺したりしては、ならんのだ。違うか」

「いいや、あんたの言う通りさ」

「だから、お前とは、協力できると言うのだ、赤部」

「協力の、条件は?」

「ライナーノーツのことを、俺に逐一知らせろ。国のあちこちと繋がりを持っているパルテノンだが、ライナーノーツとの繋がりが、濃すぎる」

 赤部は、考えた。露見すれば、即、消される。

 しかし、このまま、しな子を実験台にして、軍事転用を目的とした念象力者の量産を受け入れることはできない。

 ならば、やるべきことは、一つ。

 赤部は、また煙草に火をつけた。

「どっちに転んでも凶なら、マシな方がいい、か」

「お前の条件は?赤部」

「しな子の頭から、デュオニュソスを取り出すことだ。その方法が分かればいい。あるいは、その機能を、停止させることでも構わん。その方法を、探ってくれ。俺は、もうパルテノンには近寄れぬ身なんだ」

「わかった。やってみよう」

 退屈そうに手遊びをしているしな子を、赤部は見た。

「この恐ろしい機械を、この世から、消してしまわなくてはならない。しな子を、救いたいんだ」

 松本が、ちょっと笑った。

「丹羽さん、赤部は、だな」

「そう」

 しな子は興味を示さず、氷の溶けはじめたカシスオレンジのグラスに口をつけた。


 その視線が、自分をじっと、舐めるように見ている。男性の前にいるとき、大概、こうなるから、慣れている。きっと、松本も、しな子の大きなパーカーの中に、チェックのショートパンツを穿いているとは思わないのだろう、と思った。勝手な期待と想像の中のしな子の体には、幼い頃負った左腕の火傷もなければ、この間拳銃で撃たれて、それを焼いて塞いだ傷――まだ時折痛むが、しな子は気にしない――もなく、白く、柔らかで、美しいものであると思うのであろう。そういう眼を、しな子は、男性から日々感じている。

 それも、しな子には、どうでもよいこと。

 しな子の頭の中に埋め込まれた、小さな機械。それを外すのだと、赤部は言う。

 どうやら、行動の目的が変わったらしい。

 デュオニュソスをはずせば、それは、しな子の力を、どこかへ持ち去ってくれるのだろうか。

 なにやら、パルテノンの広報部なる、新たな敵も現れたらしい。それと、これから、戦うらしい。

 ほんとうは、しな子には、赤部の心の痛みが、よく分かるのだ。彼が自分のことを思い、心を砕いているのも。

 だが、彼女は、知らぬのだ。赤部に、かけてやる言葉を。


 大丈夫。


 ただ、その一言でいいことを、知らぬのだ。

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