つたわる
赤部の心は、大きく揺れている。それは、いつもミック・ジャガーの声に合わせて歌うはずのストーンズの曲が流れても、黙っていることからも分かる。対して、しな子は、平静であった。平静というよりも、むしろ機嫌が良さそうである。彼女の脳内や体を、人為的に駆け巡るホルモンや神経伝達物質。その働きであろう。
赤部は、その彼女を見て、自分がライナーノーツに持ち込んだものがどれほど恐ろしいものなのか、初めて知った。
本来なら、しな子は、赤部を恨み、泣きわめき、怒らなければならない。しかし、彼女はそれをせぬ。後頭部に埋め込まれたあの小さな機械によって、支配されているのだ。
人として、当たり前の感情を持てぬ。奏太郎のことを思い出しても悲しめぬと言う。では、人として当たり前の感情を抑制されたしな子を、何と呼べばいいのか。
一瞬、感情が戻ったように見えて安堵しても、次の瞬間には、木の
しな子がそうなってはじめて、赤部は、恐ろしいと思った。紗和を被験体としているときは、何も感じなかった。人とは、そういうものかもしれぬ。
しな子は、何のために、紗和を殺しにゆくのだろう。組織に命じられたからだろうか。それとも、自分の中の何かを清算するためだろうか。まさか、殺人機械として生きることを、受け入れたわけではあるまい。
しな子にそれを問うことはできない。
赤部にできるのは、しな子に対する自分の引け目と悔悟を清算出来たと思えるよう、生き、それをしな子に見せてやることのみである。
高速に乗って、小一時間。二人は、横浜にいた。どうやら、紗和はパルテノン・コーポレーションの監視を受けながら、野放しにされているらしい。
「どうして、紗和は、ここでパルテノンに引き渡されてすぐ、殺されなかったのかしら」
しな子が、ぽつりと言った。
「デュオニュソスを外した人間がどうなるのかの、データを取るつもりなんだろう。彼女には、きっと、何か仕事を与えるふりをして」
しな子は、ちょっと車窓に眼をやり、
「あぁ、そう」
とだけ言った。
ランドマークタワーにほど近いホテル。その一室に、紗和はいるという。その部屋を、二人は訪ねた。部屋の呼び出しブザーを押す前に、赤部は、しな子の覚醒と共に返してもらった愛用の三八口径リボルバーを手にした。
しな子の三本ラインの右足が半歩下がった。身構えている。
「どうぞ」
くぐもった声と共に、無遠慮にドアが開いた。
紗和がいた。デュオニュソスとはとても小さな機械だから、摘出の傷は小さい。紗和が頭に包帯をしているのは、たぶん、しな子と戦ったときの打撲のためであろう。
その紗和が、しな子と、眼を合わせた。
「やっぱり、あなただったのね」
「紗和。ごめん」
しな子は、紗和がまるでしな子の来訪を知っていたかのようなことを言うのを無視し、いきなり紗和の喉首を前腕で強く押し、一気に部屋の中に押し込みながら、腰に隠されていた拳銃を抜き取り、捨てた。そのまま腕を絡め、膝を払い、床に倒した。
「ごめん。殺すわ」
「ええ、そうしてちょうだい」
紗和の首にかかろうとしたしな子の手が、止まった。
「あなた、わたしが来ると、知っていたの?」
「あなたが来るとは、思わなかった。私は、失敗したの。私から外されたあの機械を与えられた者が、私を殺しに来る。それを見事返り討ちにすれば、私は、また生かされるそうよ」
「あぁ、そう」
「なに、その髪型。ちっとも、似合わない。男の子みたいね」
組み敷かれながら、アメリカ映画の軍人のように短く刈り込まれたしな子の髪を、触ろうとした。
「動くな、土井紗和。しな子に何かすれば、殺す」
それを、赤部が拳銃を向けて制した。
「なにも、しないわ。忠告したいだけ」
「忠告?」
紗和の指が、しな子のピアスに触れた。
「パルテノンは、嫌な会社よ。あちこち、国際的な活動もしているわ。その機械は、完成形じゃない。もっと、別のものがあるの」
「デュオニュソスは、完成形ではない?」
赤部が、怪訝な顔をした。
「試作品とか、そういうことではなくて、その本当の形は、もっと別のもの。人の血の中を巡り、人を、人でなくさせるもの」
「
赤部は、計画の細部までは知らされていなかったらしい。舌打ちをした。
ナノマシンとは、蛋白質の化合物、あるいは機械的構造を持つ微細な有機物を主体とするもので、血流に乗り、特定の細胞に働きかけたり、情報を届けたりするものを指す。ガン治療などに効果が期待されているが、軍事転用を危険視する声もある。
「神様に選ばれなくても、身体の中に神様がいれば、人は誰でも念象力者になれる」
紗和の言葉に、赤部が蒼ざめた。
もし、パルテノン・コーポレーションが人の脳のどの部位がどう働いて念象力がもたらされるのかを解明しているのであれば、デュオニュソスは、ナノマシン化されることで人の脳に働きかける物質の分泌を促すと共に、その部位を覚醒させてそうでない者を念象力者にすることを運用の最終目的としているということになる。
紗和やしな子に取り付けられたのは、そういう意味での試作品。もともと念象力を持つ者に埋め込むことで、その機能強化にどれほどの効果があるかどうかを、測るための。
言い換えれば、紗和やしな子は、これから量産されるかもしれぬ、戦争において人を大量に殺すことのできる念象力者の試作品なのだ。
「狂ってる」
吐き捨てるように言う赤部に、紗和は声をかけた。
「お金は、大事よ。人は、お金のためなら、人を食べることだって出来る。あなたも、そうでしょう?お金のために、しな子をこんなにして」
「黙れ」
「ふふ、おかしな人。いいわ。最後にしてあげる。しな子、気を付けてね。人に、食べられてしまわないように。わたしの力は、その機械と共に、無くなってしまったみたい。どれだけ念じても、何も起こらない。いえ、違うわ。どれだけ力があっても、念じたところで、私たちは、救われはしないの」
「紗和」
「なぁに」
「もう、いい?」
「いいわ」
しな子の手が、紗和の頭と、顎にかかる。まるで、性的な行為を楽しむかのような手付きで。
「しな子。私は、力を失って、あなたにこうされて、はじめて、救われるのかもしれない」
それには答えず、しな子は、一息に紗和の首を折った。
「さよなら」
その一言に、全てを込めて。
「それで、実験をすれば、いいんでしょ」
赤部に、しな子は背中で言った。
赤部は頷き、一歩下がった。
しな子が、もの言わぬ紗和を見た。
結ぶ。
赤部が眼を瞑るほどの、紅い熱。
激しい閃光と、蛇のようにとぐろを巻く炎。
そのあと、炎は、紅の
デュオニュソスにより、確かに、しな子の念象力は強化されている。
その炎の強いこともそうだが、発動までの時間も格段に短い。
見る間に、部屋中に蓮の花びらは散り、移り、視界を橙と
火災報知器、スプリンクラー。慌て、叫ぶ人の声。
しな子の涙の代わりのように、それらが、この建物を包んだ。
ただ、歩いて。
従業員の誘導に従い、停止したエレベーターを避け、階段で。しな子と赤部を追い越して、我先にと人はゆく。
どこへ?
それは、わからない。
赤部は、呆然としながら、恍惚の笑みを浮かべるしな子が人に突き飛ばされて怪我をせぬよう、ただ庇った。
「しな子、こっちだ。大丈夫か」
その声は、届いているのか、いないのか。
しな子の左腕が、疼いている。
とん、とん、たとん。
とん、とん、たとん。
階段を降りる音。
しな子の、心臓の音。
赤部の声は、遠く、近く。
心は、あの日の火の中に、置いてきたのかもしれぬ。
それでも、手を赤部が引いているのは、分かった。
頭に埋め込まれた小さな機械とは別に、それもまた、しな子の中に、オキシトシンを生成する。触れ合うことで、安息と幸福をもたらすホルモン。人が他者を求め、人の中で生きるため、そのように作用するよう、人は自らを進化の過程で作り替えてきた。
それは、人の心の闇を僅かでも晴らし、希望をもたらす。それより尚、闇が深くとも、無いよりはずっといい。
赤部がしな子の手を引くのは、しな子への機嫌取りでもなければ贖罪でもない。しな子を気遣うからである。
人の思いは、人に伝わる。だから、しな子も、赤部の手を振り払おうとはせぬのだ。
しな子の試運転は、成功した。帰還して、
「よくやった。どうだ、丹羽君。簡単な任務だったろう?」
「ええ、とても」
その答えを聞いて、部長は、満足そうであった。
「赤部君」
その顔が、赤部の方を向いた。
「お帰り、我がライナーノーツへ」
その得意気な鼻柱を、へし折ってやろうと思った。しかし、赤部は、別の行動に出た。
「部長、あなたのライナーノーツでは、ありません」
と言い、立ち上がったのだ。
「おっと、これは失言であった。撤回しよう」
部長は意味深な笑みを浮かべると、出ていってよろしい、と二人に仕草で示した。
「どうだ、しな子。久しぶりに、例の居酒屋でも」
「いいわ」
良い、という意味か、いらない、という意味か、分からない。しな子は時折、こういう言葉足らずな言い方をする。それすらも、赤部は嬉しかった。
「行くか?」
と改めて聞き直した。
「行く」
しな子は頷いた。
「赤部さんのこと、怒ってないわ。わたしは、何かを納得する必要なんてないの」
少し、違う。
しな子の言葉足らずを、赤部はいつも、頭の中で補う。
気がついたら妙な力を与えられ、あるはずであった生を奪われ、守りたいものも、知己も奪われた。そして、望みもせぬ強力な力を与えられた。
自分から求めるなど、馬鹿馬鹿しい。望んだとて、どうせ、勝手に人はそれを奪い、別のものを与える。しな子は、そう言っている。
それが分かるのは、赤部だけ。
赤部に分かるのは、それだけ。
ならば、人はしな子の悲しみを、苦しみを、奪ってはやれぬのか。喜びを、幸福を、与えてはやれぬのか。
せめて、優しくしよう。傷付けたのだから、なおさら。赤部はそう思い、濡れて湿った煙草をくわえた。
その先に、ちいさな紅の蓮が光り、ひとりでに火がついた。
しな子を見ると、眼をそらし、車の方へ歩き出してしまった。
二人はスプリンクラーの水でずぶ濡れのまま、冬の東京の街のアスファルトを踏んだ。
あちこちから漏れ聴こえるクリスマスソングなど別の世界の音であるかのように、また、下手な鼻唄が、聞こえる。
とん、とん、たとん。
とん、とん、たとん。
第二章 うたをうたう 完
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