お囃子
しな子は、追われる身となった。マスコミの報道が全てではない、と赤部は言ったが、案の定、翌日、午前八時きっかりに、ライナーノーツ本部からの呼び出しがあった。
どうするか、困った。行けば、どうなるか分からない。しかし、何一つとして追われるようなことはしていない。
任務の依頼主である高松議員に頬骨を折る重症を負わせたことに対してならば、しな子は罰を受けるだろう。しかし、テロリストにされてはたまったものではない。無論、ライナーノーツがそれを揉み消しはするであろうが、もし逮捕などされれば、申し開きをし、疑いを晴らす自信もない。
スマートフォンの画面に光を灯し、しばらくしてそれが消え、また灯し、それを何度か繰り返す間、考え続けた。
奏太郎。守りきれなかった。もう、自分のような人間など、生きていても仕方ないのだ。奏太郎を焼いたのは、自分の起こした炎だった。そのような考えが、鍋底に焦げ付いた汚れのようにしな子の頭にこびりついたいる。
高松議員が雇った念象力者が、力を使ってあの爆発を引き起こしたとはいえ、奏太郎は、しな子の炎で焼かれたのだ。
はじめて、誰かを殺すためでなく、守るために力が使えると思った。しかし、しな子を苛む炎の記憶は、守りたいと思った小さな命をすら焼いたのだ。その怒りを、誰にぶつければいいのか分からない。
紗和は、力を使うと、頭の中に安息や快楽をもたらす物質が多量に分泌され、強いトラウマやストレスから自らの脳を守るための防御反応が起こると言った。
しかし、しな子は、またとめどなく溢れてくる涙をどうすることもできない。
守らなくていい。こんな力、要らない。しな子の嗚咽が、殺風景なマンションの部屋に響いた。ずっと起きて、黙って側についていた赤部が、しな子の背中に大きな掌を置いた。
どうせなら、この身を、焼いてしまえばいい。そう思った。しかし、どうしても、奏太郎を守るためそうしたように、自分に火をつけることはできなかった。
しな子は、赤部のことなど見えないように、誘われるようにベランダへの窓を開けた。濁った臭いのする空気とクラクションが部屋に吹き込んできて、朝の東京の白っぽい青空が姿を現した。
手には、スマートフォンを握ったまま。
しな子は、裸足で、ベランダに出る。
任務の前に、干したままだったバスタオルが、ひらひらと冬の風に揺れている。
「しな子」
赤部が、強くしな子の手を握った。
「しな子。それは、駄目だ」
赤部が、しな子の虚ろな目をしっかりと見ながら、首を横に振った。
「バスタオル」
しな子は、ぽつりと言った。
「干しっ放しだったから」
それを取り込むと、しな子は部屋の中に戻った。
「しな子」
赤部が、宥めるように呼び掛けた。その赤部の胸を、しな子の右手が強く叩いた。
「うるさい。名前を、呼ばないで。わたしなんか、いなければよかったの。あの日、家族と一緒に、燃えて、消えてしまえばよかったの」
何度も、何度も、しな子は赤部の胸を叩いた。気づけば、赤部の胸に、顔を
しな子の涙で、赤部のシャツに染み付いた煙草の臭いが、ふわりと蘇った。
「しな子」
赤部が、そっと、壊れやすい硝子細工でも扱うように、しな子を抱き締めた。
「そんなこと、言うなよ。俺は、お前がいて、よかったと思ってる」
「嘘。そんなわけない。あなたも、わたしを、腕のいい殺し屋として、使っているじゃない」
「そうさ。そして、心を痛めている」
しな子が、赤部の胸から顔を上げた。
「都合がいいわ。どうして、そんなことが言えるの」
「お前のことを、大切に思っているからだ」
いつになく真剣な顔で、そう言った。
しな子は赤部の身体から腕を放し、力なく立ち上がり、
「あぁ、そう」
とだけ言うと、自室に入っていった。
「おい、どうするんだ」
赤部の声が、しな子の部屋の中に追いすがる。
「着替えるの」
「本部へ、行くのか」
「ええ、行くわ」
「行って、どうする」
「あなた、まさか、わたしに逃げろと言っているの?」
「どうだろう。お前が逃げるなら、俺も、付き合うぜ」
しな子は、いつもの服装で出てきた。いや、三本ラインが、赤い。これは、きっと、勝負服のつもりなのだろう。
「行きましょう、赤部さん。それとも、あなたも罰が怖い?」
「馬鹿言え。高松議員を半殺しにした以外、俺たちは、何もおかしなことはしていないじゃないか。そのことなら、俺が上手くやる。お前が容疑者にされていることは、組織が揉み消す。そうさせる」
しな子が、珍しく、くすりと笑った。
「なんだよ」
「なにも。その言い方が、少し嬉しかっただけ」
しな子は、歯だけ磨いて、行きましょう、と赤部を促した。
濡れたままのスニーカーは履かず、色違いを。くるぶしの所に、星のマーク。色は、黒。
それが、廊下に出た。
とん、とん、たとん。
とん、とん、たとん。
その足音は、もしかしたら、しな子が炎を見ながらいつも記憶の断片のように思い浮かべる、祭りのお囃子の拍子を重ねているのかもしれない。
八時四十二分、しな子は、赤部のアルファロメオへ。
ジムの受付のマリナにいつもと変わらぬ挨拶をし、VIPルームから地下三階へ降りた時刻を記憶していないのは、緊張からお気に入りのダイバーウォッチを見る余裕がなかったからかもしれない。
部長が、しな子と赤部を迎えた。
「まあ、掛けたまえ」
部長は、二人に、革張りのソファを勧めた。
「どうだね。マスコミでは、色々な報道がされているが」
「全て、事実無根です。我々は、依頼主の要望の通り、護衛対象である高松奏太郎を誘拐もしくは殺害しようとする者を殺害しましたが、高松奏太郎を死なせてしまい、なおかつ、依頼主である高松議員に、暴力を振るいました。それは、事実ですから、そのことに対する責めは、負うつもりです」
「では、あの爆発テロと報じられているものは、君たちが引き起こしたことではない、と」
「はい」
「部長」
しな子が、か細い声を薄い唇から発した。
「なんだね、丹羽君」
「高松議員は、念象力者を雇っていました。それが、奏太郎を、殺そうとした。彼は、空気を操った。わたしの炎が、彼が圧縮した空気に引火し、爆発し、それで奏太郎も、死にました」
淡々と、しな子は事実を述べた。赤部が、せっかく庇ってやってるのに、という顔をしているが、気にしない。
「でも、不可抗力だったんです」
しな子は続ける。いつも無口で大人しいしな子が、これほど喋るのは、珍しいことである。
「高松議員は、わたしたちに、奏太郎の護衛を依頼しておきながら、自分で念象力者を雇い、奏太郎を殺させ、わたしに、その念象力者を殺させたのです」
「自作自演?なんのために」
「さぁ。知りません。でも、あの人は、それで得をする」
「得?」
「息子を殺され、それでも志を曲げない、英雄になれます」
「世論を味方につけ、我らの後ろ楯を匂わせ、闇の世界の住人をも封殺する、か」
「部長。証拠はありませんが、高松議員本人が、そう言ったのです」
赤部が、部長の頭の中を測るような顔をした。
「丹羽君。君は、優しいな。優しすぎる」
「優しいとか、優しくないとかでは、ありません。なんなら、今から、あの人に直接聞いてみますか」
「しかしな」
部長は続ける。
「どのみち、君は、警察からも、マスコミからも追われる身だ。少し、身を隠した方がいい」
赤部の顔が、曇った。
「どうだ。少し、ここで、ゆっくりしてみては。あたらしい研修プログラムを用意している」
「部長、それは、もしかして」
「ああ、そうだ、赤部君。これは、君の功績だ。我々は、念象力をより強力な道具として、使うことができるようになるのだ」
「馬鹿な。しな子を、どうするつもりです」
「分かっているだろう、赤部君。あれを、どう使うか」
「やめて下さい。俺は、こんなことは、望んでいない」
「いいや、赤部君。私は、これでも、寛容な男なんだ。私は、君を許しているのだよ。分かるかね」
赤部の表情が、凍りついた。
「部長、まさか」
「もう一度言う。君は、私に、許されているのだ」
赤部が、身構えた。
「おい、よせ。君は優秀だ。君が任務の外で何をしていようとも、私は、眼を瞑っているつもりなのだ」
「部長」
「分かるね。これは、君が招いたことだ。君に、選択肢はない」
赤部が、露骨に舌打ちをした。
「では、行こうか。赤部君、丹羽君」
部長が立ち上がり、二人はその後に続いた。
東京トワイライトタウンの広大な敷地一層分、丸ごとライナーノーツの本拠地である。その一角に、医療班の区画がある。病院よりは小さいが、ちょっとした病室に内科、外科設備、そして手術室なども備えている。
その廊下を歩きながら、しな子は、赤部に訊いた。
「さっきの、どういうこと」
「なにが」
「あなたは、許されているって」
赤部は、答えない。
「言いにくいなら、赤部君。私が、話してやろうか」
「やめて下さい、部長」
「言いたくないなら、聞かない」
「いずれ、話す」
「さて、丹羽君。この病室の扉を、開きたまえ」
しな子は、赤部の顔を窺った。赤部は、黙って頷いた。
そのスライド式の扉を開くと、横たわる人の姿があった。
紗和。眠っているらしい。身体中に、わけのわからぬ管や、電極のようなものが付けられている。
「紗和」
呼ばれて、紗和が答えるわけがないことくらい、分かる。
「彼女の頭の中には、あるものが、埋め込まれている」
部長がしな子に向かって言い、
「パルテノン・コーポレーション」
と、カメラや、医療機器などを手広く開発、販売する会社の名前を挙げた。
「そこと、君の大好きな赤部君は、強い繋がりを持っている。土居紗和は、新開発の、あるものの、被検体なのだ」
「赤部さん」
思わず、赤部の顔を、見た。
「済まん、しな子」
赤部は、知っていたのだ。紗和の事件のとき、彼女のことを。
「そう。あれは、試験運転だったのね」
「思いの他、彼女の頭に埋め込まれた機械の力が、強かった。試験運転のつもりが、思わぬ暴走を引き起こしたのだよ、丹羽君。この男が受けた依頼は、その暴走した被検体の回収。可哀想に。君は、この男の保身と尻拭いに、利用されたのだ。君の、知り合いだそうだな、土居紗和は」
「赤部さん、嘘よね」
「しな子、聞いてくれ」
「嫌。聞かないわ。聞きたくない」
「落ち着け、しな子。いい子だから」
赤部の腕が、しな子を捉え、抱き締める。
「しな子。いい子だから。頼む」
しな子は、自分の身体が、崩れてゆくのを感じた。
赤部の声が、あちこちから響くような感覚。
「赤部君。今度は、大丈夫なんだろうな」
「パルテノンが目をつけ、ずっとこの土居紗和に、手をかけてきました。しかし、彼女は、もともとの器としては、あまりに小さかったのです」
「器とは、念象力の強さかね」
「ええ。言い換えるならば、脳の中で分泌されるホルモンの量。しな子は、それが極めて強い」
「彼女ならば、大丈夫。そう言いたいのだね」
「ええ」
「分かった。我々の一員である君を、信じよう」
「寛容でいらっしゃる」
「しかし、分かるね。次はない。丹羽君にも、君にも」
「そのときは、テロリストとして、影の中に沈めればよいでしょう」
「言うね」
二人は、そのまま部屋を出た。その日のうちに、しな子にはある手術が施された。土居紗和の頭に埋め込まれた、パルテノン・コーポレーション製の小さな機械。それを取り出し、しな子に移植する手術である。
それは微弱な電気信号を発し、脳下垂体や視床下部に働きかけ、神経伝達物質の分泌を促す。
紗和は、十六歳のときにお迎えが来た。その引き取り先が、パルテノン・コーポレーションだった。パルテノン・コーポレーションは、数年をかけて徹底的に念象力について調べ、ついに、その力の秘密の一端を掴んだ。次に彼らが着手したのは、その力の増強技術。
ライナーノーツをはじめ、複数の機関による長い研究により、念象力者の力の発現には、複数のホルモン、神経伝達物質が関係していることが特定されている。主なものとして、副腎髄質ホルモンであるアドレナリン、ステロイドホルモンであるエストロゲンとプロゲステロン、ペプチドホルモンであるオキシトシンなど。
たとえば、甲状腺ホルモンは、ミトコンドリアや細胞壁とも結合する。もしかすると、頭の中で作られたイメージがホルモンや神経伝達物質の働きで念象力者の細胞やミトコンドリアと運動させられることにより、力が具象化するのかもしれない。どういうメカニズムで、しな子のように離れた物体にその力を伝達することができるのかまではよく分かっておらず、あくまで、念象力者が力を使う際、それらの物質の分泌が著しく活発になることから立てられた仮説に過ぎない。
脳波やサーモグラフィで脳の働きを見ると、脳の中で未だ何に使われるのかよく分かっていない部分が活性化していることも分かっている。オカルトやSFではよくある話だが、あながち、間違いではないのかもしれない。
逆説的に考えれば、どのような働きによって具象化するかはさておき、ホルモンや神経伝達物質の分泌をコントロールすれば、力の強化に繋がるということになる。ただ、それは一面からの働きかけにすぎず、暴走は予測の範囲内とも言えたし、不測の事態とも言えた。
紗和の頭の中に埋め込まれているものの、開発コードを、デュオニュソスという。
ギリシャ神話において、ワインの醸造方法をもたらしたとされる神の名である。その神がもたらすのは、葡萄という自然物から造られる、死の酒なのか。
紗和の試験運用が成功すれば、赤部が、それをライナーノーツに持ち込む予定であった。
巨額の金が、動く。もしかしたら、赤部は、それで多額の報酬を受けるのかもしれない。
しな子は、麻酔の眠りの中にいる。普通、全身麻酔の場合、人は夢は見ない。しかし、稀に、見ることがあるらしい。手術台の上に横たわる自分を見た、というような話は、掃いて捨てるほどある。
しな子が見たのは、それではない。
車。
有名な祭り。中に灯火の入れられた大きなハリボテのようなものが街を練り歩く。青森のねぶた祭りに似ていた。いや、ねぶた祭りそのものかもしれない。
父とおぼしき男が、その帰り、ハンドルを握りながら、何かを言った。言ったが、訛りがひどくて、何を言っているのか、ほとんど聞き取れない。
男の言うことに笑い声を上げるのは、母だろう。しな子のことを振り返り、何か言っている。
しな子は、二人の言うことが分からず、困って、抱いていた縫いぐるみを、握りしめた。
衝撃。何かが、壊れるような音。上が下に、右が左になった。
全身が、痺れている。いや、これは、痛み。
続いて、耳を壊すような大きな音。そして熱。しな子は助けを求め、泣き叫んだ。運転席に乗っているのは、いつの間にか赤部になっていた。助手席には、紗和。しな子が大切に抱いていた熊の縫いぐるみは、奏太郎。
炎が、それらを、焼いた。しな子の体をも包んで。
左手が、熱い。
痛い。
ぱちり。何かが、爆ぜる音。
もう一度、大きな音。
しな子は、熱い風に運ばれ、車の外に投げ出された。
目を開いたまま、焼けた夏のアスファルトの上に叩きつけられた。
その瞳に、燃えてゆく車が映っている。
彼女は、倒れ、傷つき、瀕死であった。しかし、彼女は、自らが、立ち、歩けることに気が付いた。
思ったよりも軽く、歩けた。
なぜか、車の中のことは、気にならなくなった。
彼女が一歩歩くごとに、アスファルトには小さな火が宿り、すぐに消えた。
それを、楽しんだ。
なぜが、とても安らかな気分になっていた。
彼女が、一歩歩くごとに、あの祭りのお囃子が、聴こえてくるのだ。
とーん、とん、たとん。
とーん、とん、たとん。
不思議なことに、それは、奏太郎が教えてくれた歌にも、似ていた。
口ずさんでみる。
自分で笑ってしまうくらい、下手な歌だった。
それでも、歌って、歩いて、夢の中の彼女は、夏の日差しに揺らめく高速道路のアスファルトの向こうへ、消えていった。
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