夜に支配された朝

 赤部。下戸のくせに、一人、酒を食らっている。いつもの居酒屋で、その名の通り、顔を真っ赤にしながら。

「あれ、赤部さん、今日はしな子ちゃんは?」

 男子大学生のアルバイトが、声をかけてきた。

「ははっ、嫌われちまったよ」

「え、なに、やっぱり付き合ってたんですか?」

「馬鹿。違うよ」

 赤部は、まだたっぷりとグラスに残ったチューハイを橙の照明にかざしながら、看板娘の朱里あかりに、お代わりを注文した。

「赤部さん、駄目ですよ。まだ残ってるじゃないですか」

「いいから、朱里ちゃん」

 朱里が持ってきたのは、水だった。

「なんだこれ。水じゃねぇか」

「赤部さん」

 朱里が、赤部が一人で座る座敷席に腰かけた。忘年会シーズンだから、赤部が店に入ったときは大変な賑わいであったが、今は他の客は誰もいない。皆、二次会のカラオケなどに繰り出しているのだろう。

「駄目ですよ」

 朱里は、美人である。ちょっと巻いたミルクティー色の髪を後ろに束ねて、エプロンをしている姿が赤部は気に入っている。グレーのニットから伸びる、細いがしっかりとした線の首がよく映えるのだ。歳は、確かしな子より二つ三つ上のはず。しな子のように色白ではなく、どちらかと言えば、活発で健康的なイメージだった。

 それが、赤部のグラスの、氷の溶けてすっかり薄くなったチューハイを一気に飲み干した。

「このチューハイ、お代は引いときますから。さ、お水、飲んで下さい」

 ちょっと首を傾げて微笑みながらそう言うと、赤部はまんざらでもない様子で従った。

「朱里ちゃん」

 朱里が、ちょっと困ったような笑顔を赤部に向けた。

「俺と付き合って」

 朱里が、笑いだした。

「駄目。しな子ちゃんに怒られるわ」

「だから、俺はもう、しな子に嫌われちまったんだよ」

「ううん、そんなことないです。大丈夫」

「なぜ、言い切れる」

「しな子ちゃんは、そうね、赤部さんの恋人というより、妹みたい。お兄ちゃんのことが大好きな妹。だから、大丈夫。それに、そういう人がそばにいる男性と付き合うと、後々面倒なんです」

「お、さすが、経験豊富だね」

「しな子ちゃんはいい子だから、そんなことはないかもね。でも、駄目。赤部さん、酔っ払ってるもの」

「じゃあ、酔っていないときに、また申し込むわ」

「はい。お待ちしてます。わたしと付き合うってことは、このお店も継ぐってことだから。朝まで仕事して、夕方まで寝て、どこにも遊びに行けないし友達とも連絡できない人生を過ごす覚悟ができたら、いつでもどうぞ」

「おいおい。手厳しいな。傷ついた男盛りの俺に、もうちょっと優しくしてくれてもいいのに」

 赤部は、壁にもたれかかり、水を飲んだ。その冷たい感触が食道を押し広げ、胃に落ちていく。しかし、その胸のうちに溜まった暗い気持ちを洗い流してはくれなかった。

「食べ物、やみつきキャベツしか注文してないじゃないですか。何か、作りますね」

 商売上手なのか、赤部を心配しているのか、朱里はそう言って、キッチンに入っていった。


 どれだけ酔っても、問題ない。赤部は、休暇を取っているのだ。愛用の三八口径リボルバーも預けさせられた。明け方、店が閉まるまでここで店に迷惑をかけて、その後はインターネットカフェか何かで過ごせばいい。

 そう思いながら、赤部の意識は閉じていく。

「朱里さん!赤部さん、寝ちゃったよ!」

 叫ぶアルバイトの声が、遠くに聞こえた。

 いいじゃねぇか。どうせ、他に客もいやしねぇ。久しぶりの休みなんだ。

 そう言おうとしたが、それより先に、眠りが来た。

 明け方まで眠って、激しい頭痛と共に目覚めた。

「悪い、寝ちまってた。朱里ちゃん、お勘定」

 こめかみを押さえながら、財布を取り出す。

 大丈夫ですか、と声をかけてくる朱里に手を振り、赤部はまだ夜に支配されている朝の街に出た。アルファロメオはコインパーキングに放ったまま、インターネットカフェを探して歩き、煙草を咥え、火をつける。

 与えられた休暇は、一週間。つまり、しな子の処置が終わり、覚醒するまでの期間。

 何も、することがない。学生時代や警察の友人など、もう何年も連絡を取っていない。甲府の地元に帰ろうにも、両親は既に他界しており、仲の悪い兄が家を継いでいて、居心地が悪い。

 赤部には、仕事しかないのだ。それが、この国のバランスを保っている。そう信じてはいるが、決して明るみには出ず、誰にも称賛されることのない、汚れた仕事ウェットワークを、無感情に行えるわけではない。

 しな子は、可哀想である。幼い頃、悲惨な体験をし、そのトラウマを引きずって生き、何の因果かそれから彼女自身を守るために神か仏か誰かが与えた不思議な力すら利用され、今も病室のベッドの上で全裸にされ、電極やチューブまみれになって眠っているのだ。それを思うと、涙が出てきた。

「畜生」

 彼女をそうさせたのは、他でもない自分自身。それは、分かっている。

「畜生」

 しな子という一人の人間を、国のためとはいえ、道具のようにして。なにが、内閣諜報局特務実行部だ。

 なにが、その腕利き特務員だ。

 なにが、赤部さん、だ。

 路上に、座り込んだ。

 泣いた。泣くしかなかった。こんな時間まで残業をしていたのか、あるいは同じく飲んでいたのか、サラリーマン風の男が通り過ぎ、ちょっと振り返り、そばの自販機で水を買い、与えてくれた。

「ほら、兄さん、飲みな。こんなところで寝ちゃあ、財布盗まれるぞ」

 そう言って差し出す水を、赤部は充血した眼で受け取った。

「まぁ、辛いことあるけどさ、大丈夫だから。お互い、頑張ろうや」

 そう言って赤部の肩を叩くと、男は立ち去った。

 師走の風が、冷たい。その冷たさを、皆、誰かに暖められ、誰かを暖めることで、乗り越えるのだろう。

 家に帰っても、以前に金魚を飼っていたときの、空っぽの水槽があるだけ。そこに生き物を入れようとは思わないが、何かの気配がしていないと、家で一人で居ると押し潰されそうになるから、水を張って、ポンプは動かしている。

 毎日、少しずつ、苔がガラスを覆っていく。赤部の心も、そのようにして、少しずつ何かに塗り潰されているのかもしれない。

 正義の味方に憧れて、警察に入り、機動隊に所属した。極めて優秀であった。

 機動隊を辞めたのは、立てこもり事件の解決に出動した際、犯人が発砲した弾がすぐ隣の同僚のヘルメットを貫通し、死んだからだ。

 警察に入ってから知り合った同僚だが、親友だった。何でも話せたし、二人で夜の店に繰り出し、朝まで飲み明かしたりもした。その同僚は魚釣りが趣味だったから、車で赤部の出身の山梨県の湖まで行って、ボートで釣りをしたりもした。

 その同僚が、赤部の隣で、弾丸に撃ち抜かれ、死んだのだ。隣にいながら、赤部は、彼が倒れたことで、彼の身を理不尽な暴力が襲ったことを知った。

 赤部は、彼の名を、毎夜唱えている。どれだけ、正義のために身体を張ろうとも、人は、人の大切なものを簡単に奪う。

 悲しみと後悔の中にいた赤部に、ライナーノーツから声がかかった。ちょうど、十年前。

 理不尽な暴力から人々を守る赤部健一郎は、影の生き物になった。

 人を殺すことも、した。指先ひとつで、引き金は引ける。標的に対してそれをすることを躊躇しなかったのは、正義を行う信念があったからだ。

 しかし、いつしか、個人の信念は、ちょうど蚕の幼虫が桑の葉を食い進めるように、あるいは赤部の家の水槽のガラスに張り付いた苔が日々広がるように、組織に食い潰されていった。

 組織の利と、己の利。赤部がパルテノン・コーポレーションに嘱託され任務を請け負うもう一つの顔を持っていることは事実である。それで、ずいぶんと金を手に入れたことも、事実である。しかし、しな子をあんな目に合わせるために、働いてきたわけではない。

 なぜ、あのとき、部長を殴り倒し、しな子を連れて逃げてやらなかったのか。なぜ、己の身を守り、事を荒立てぬことを考えたのか。

 分からない。それに、今考えても、仕方ない。


 しな子。まだ、眠る彼女の世話を、医療班のスタッフが、あれこれと焼いている。

 目覚めたとき、彼女は何を見るのか。せめて、自分の顔を見せてやりたい。

 ごめんな、と言いたい。思いきり殴られ、人でなし、と罵られてもいい。

 しな子は、もう、赤部のことを信じてはくれぬだろう。赤部は、しな子の唯一の親友と、しな子自身を利用したのだから。

 罪は、積み重なることはあっても、洗い流されることはない。クリスチャンに改宗しようとも思わない。出家し、朝夕の務めと座禅に生きようとも思わない。赤部の生きる世界は、ここなのだ。

 夜に支配された朝。

 足取りのおぼつかない赤部は、見知らぬ人に与えられた水のペットボトルを握り締め、一人、インターネットカフェを求めて、また歩きだした。

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