歪んだ笑顔

 翌日、十二月十一日。高松議員は、日帰りで他県へ出張に。与党の、青年会の代表として、というようなことを言っていたが、しな子は興味がないので記憶していない。複数いる秘書もついて行ったから、赤部と、しな子と、奏太郎の三人で過ごした。奏太郎は幼稚園に通っているが、非常時なので、自宅で過ごす。

 脅迫してきた犯人を、確保しなければならない。確保というより、抹殺だ。

 正しき道を阻もうとする者を、返り討ちにする。そうすることで、自分や家族の身の安全を確保したい。昨夜のミーティングで、高松議員は、自分の口でそう言った。


 午前中に高松議員を見送った後、三人はテレビを見て過ごした。

 子供向けの番組をやっていない時間だから、録画のアニメや、特撮ヒーロー番組である。

「懐かしいな。俺も子供の頃、憧れたな」

 赤部がその画面を見ながら、笑った。

「やっぱり、男の人は、ヒーローに憧れるのね」

「そりゃそうさ。悪い奴を倒し、弱い奴を守る。男は、こうあらなくちゃ、と思ったもんさ」

「だから、警察に?」

 赤部の前身が機動隊員であることを、しな子は思い出した。

「まぁ、そうだな」

 デリカシーのない赤部も、さすがに、しな子が子供の頃何になりたかったのか、などとは訊かない。

「奏太郎君は、大きくなったら、何になりたい」

「電車の運転手」

「そうか、奏太郎君は、電車が好きなのか」

「うん」

「お姉ちゃんは、何になりたいの」

 奏太郎の顔が、しな子の方を向いた。五歳の割に大人びているが、子供なのだ。その無垢な質問に、しな子は答えられない。

「わたしは、そうね、分からないわ」

「へんなの」

 奏太郎が笑った。

「保育士にでも、なろうかしら」

 しな子が、赤部をちらりと見て言い、赤部が声を上げて笑った。

「おっ、電話だ。ちょっと出る」

 赤部はソファを立ち、部屋を出て通話を始め、奏太郎としな子の二人が、部屋に残った。特撮ヒーローが、画面の中、子供達と街を守るため、怪人と戦っている。実際の戦いよりも、華々しく、格好よく。

 しな子は、それを、ぼんやりと見ている。一体、自分は、何と戦っているのか。何のために戦っているのか、考えながら。


「しな子、おい、しな子!」

 赤部の呼ぶ声で、しな子は、また跳ね起きた。眠ってしまっていた。

「奏太郎君は、どうしたんだ」

「奏太郎」

 立ち上がり、見回したが、部屋の中に姿はない。時計を見ると、十分そこらしか眠っていない。二人で、家の中を探した。

「玄関の鍵が、開いている」

 赤部が、蒼白な顔で言った。しな子は、何も言わず、上着も着ず、駆け出した。

 奏太郎。しな子は、近所を、あちこち呼ばわった。もし、何かあれば。あの無垢な命が、損なわれるようなことがあれば。それは、自分のせいなのだ。任務のこともそうであるが、それ以上のものを感じた。

 焦り。

 苛立ち。

 不安。

 ほとんど泣きそうになりながら、奏太郎を探した。護衛対象を見失うなど、あるまじきことである。

 小さな公園の前で、足を止めた。あの歌が、聴こえてきたからだ。

「奏太郎」

 しな子は、公園の中に入った。そこで、ブランコに揺られて、奏太郎が、昨日しな子に教えた歌を、歌っている。

 そのとき。茂みの中から男が駆け出してきて、奏太郎の身体を持ち上げた。

「待ちなさい!」

 しな子の存在に気付き、男が足を止めた。懐から拳銃を取り出し、向けてくる。

「ライナーノーツか」

 その存在を、知っている。の世界の人間ではない。

「その子を、離しなさい」

「悪いが、俺も商売なんだ。あんた達も、そうだろう」

「一緒に、しないで」

「正義の味方気取りか。汚れ仕事ウェット・ワーカーのくせに」

 奏太郎は、男の腕から逃れようと、もがいている。その小さな抗いは、大人の前では、無力であった。

 誰かの都合で、奏太郎の人生を、決定づけるのか。それを、許していいのか。あるはずの未来を奪われるようなことが、あっていいのか。

 自分がそうだから、とは思わないが、しな子は、目の前の男を、どうしても許すことが出来なかった。

 奏太郎が、男の腕に噛み付いた。男はわっと声を上げ、奏太郎を離した。

 星のマークのスニーカーが、公園の土を激しく踏む。

 銃と向き合うとき、その射線から身体を外すことが第一。

 力を使うには、眼で見、集中を作るが要る。

 その隙を、作らなくてはならない。

 身を低く、斜めに駆け、十メートルほどの距離を一気に詰めた。二発、男が発砲した。しな子には当たらない。

 拳銃を持つ右腕に、取り付いた。捻り上げようとするが、すぐそばに奏太郎がいるから、思うようにできない。

 もう一つ、発砲音。撃たれた。そう感じた。

 頭突き。

 鼻柱を折られ、鮮血を吹き出し、のけ反る男。

 奏太郎の身体を、突き飛ばす。

 そのまま勢い余って一回転したスニーカーの先が、砂に弧を描いた。

 しな子に、悪を憎む心があるかどうかは、分からない。

 しかし、この男を許すことはできなかった。

 心の底から、叫んだ。

 二歩分空いた間隙を、跳躍一つで埋める。

 男のももを、右足で踏み台にして。

 更に高く挙げた左膝が、男の眉間を割った。

 その瞬間、眼が合った。

 

 ぱちり。何かの、ぜる音。男は、顔面から火を吹いた。見る間に、服に燃え移り、全身を焼く。

 叫び声を上げながら、転がる。

 それを、しな子は、見下ろしている。

 恍惚とした表情で、うっすら笑いながら。

 ぱちぱちと、音がする。お囃子のように聴こえてくる。幼い頃の記憶だろうか。やはり、それを辿ることは、できなかった。


 肉と脂肪の焼ける臭いを立てながら、男が動かなくなったとき、しな子は我に返り、奏太郎を顧み、駆け寄り、抱き締めた。

「奏太郎」

「お姉ちゃん」

「大丈夫、怪我は」

「ない。お姉ちゃん、血が出てる」

 奏太郎の衣服に、しな子の血液が、べっとりと付いている。しな子は、慌てて奏太郎の身体を離した。

「しな子!」

 赤部も、騒ぎを聞き付けたのか、やってきた。白昼堂々、銃声と、叫び声と、火を上げた。すぐに、警察が来る。

「早く、ここを離れよう。しな子、動けるか」

「ええ、大丈夫」

 本当は、左肩が、のたうち回りたいほど痛む。おそらく、潰れた弾丸が残っている。しかし、今は、ここを離れるのが先だ。

 たまたま近くにいたのか、早速近づいてくるパトカーのサイレン音から逃れるように、三人は高松議員の家に戻った。


「ごめんなさい、赤部さん。やりすぎた」

「どうしたんだ、お前らしくもない」

「ごめんなさい」

「傷の手当てを」

 病院に行くことはできない。それは、任務放棄を意味する。

「奏太郎」

 怯えている様子の奏太郎に、しな子は語りかけた。

「薬箱、あるかしら」

 奏太郎は、きっと、しな子の怪我に、責任を感じているのだ。自分のせいで、しな子がひどい怪我を負ったと、そう思っている。だから、自分の役目ができた、と使命感に駈られた足取りで部屋を駆け出し、薬箱を持ってきた。

 その中から、しな子は、消毒液と、ピンセットと、鎮痛薬を持ち出した。

「奏太郎、見ちゃ駄目」

 言われて、奏太郎は、強く眼を閉じた。しな子が血を含んだ三本ラインのジャージを脱ぐ。赤部が、スーツのポケットから取り出したバタフライナイフで、その下に着ているシャツを切り裂く。

 しな子の白い肌が、現れた。左の、下着の肩紐の横あたりに、弾丸は入っているらしい。しな子の下着が、元々の色が分からぬくらい、あかく染められていた。

「いいか、行くぞ」

 赤部が、ピンセットを、オイルライターで暖めている。しな子はそれを見ながら、脱ぎ捨てたジャージの袖を自らの口に押し込み、声が出ぬようにした。

 ずぶりと、しな子の肩にピンセットが差し入れられ、しな子は、ジャージを噛みながら絶叫した。少しの間、くぐもった叫びを上げ続けるしな子の体内を探っていたピンセットが、平らに潰れた弾丸をほじくり出した。

「九ミリ弾だな」

 赤部が、意味のないことを言い、それをテーブルの上に置いていた飲み物や菓子の入ったコンビニの袋を空にして放り込んだ。

 自らの左肩を、しな子は、見つめている。を、赤部は感じ、振り返った。

「しな子、やめろ、何をしてる」

 言った瞬間、焦げた臭いが、立った。

 自ら、傷穴を焼き、止血している。

「お前、正気か」

 蒼白になって、汗を浮かべたしな子の口が開き、紅い舌が噛んでいたジャージを吐き出した。

「――これで、任務続行、可能よ」


 高松議員が帰ってくる頃には、辺りは警察やマスコミで大変な騒ぎになっていた。なにしろ、高級住宅街での白昼の発砲事件、そして男の焼死体である。飛ぶようにして、高松議員と秘書が、居間に駆け込んできた。

 奏太郎の無事を確認すると、高松議員の平手打ちが、奏太郎を見舞った。

「何をするの」

 しな子が、奏太郎を庇う。

「お前が勝手なことをするから、丹羽さんが怪我をしたんだ。赤部さんと丹羽さんは、お前を守ってくれているんだぞ。どうして、勝手なことをしたんだ」

「やめて、高松さん」

 奏太郎は、頬を押さえ、呆然としている。見る間に、その眼に涙が浮かんでゆく。

「ごめんなさい」

 ぽつりと言うと、それが引き金になって、大粒の涙をこぼしながら、泣きだした。

「お姉ちゃん、ごめんなさい」

 それから、泣きわめく奏太郎を、しな子は抱き締め続けた。力加減が分からないから、もしかしたら、痛かったかもしれない。自分の肩の痛みは、忘れていた。

 高松議員が、ため息をつく。

「奏太郎は、貴方の気を引きたかったのでしょう。この一年余り、寂しくさせてしまっていたから。申し訳ありません。どうか、許してやって下さい」

「わたしは、別に」

 しな子が、眼を伏せた。

「すみません。先に、休ませて頂きます」

 秘書を引き取らせ、高松議員は自室に戻っていった。

「お姉ちゃん」

 片側の頬を赤くした奏太郎が、しな子を見上げる。

「あなたも、もう、眠りなさい。今日も、絵本、読んであげようか」

 昼間から、痛み止めを何錠飲んだことか。市販の薬など気休めにもならぬ。しかし、しな子にとっては、それよりも、奏太郎のことだった。

「ううん、いい」

 奏太郎は、消沈している。しな子は、その背にそっと手を添え、寝室へといざなった。

 暫くして、寝室から、しな子の下手な童謡が聴こえてきた。


 深夜。しな子は、居間で、つまらないバラエティ番組を見ている。ニュース番組では、今日の事件が大々的に報道されていたが、その時間も終わった。

 赤部は、二階の奏太郎の部屋に布団を敷き、眠っている。交代で、そうすることにしたのだ。一階は、どちらかが起きて見張る。

 明日が、正念場。独身で子育てをする世帯のための講演会に、高松議員は出席する。奏太郎を連れて。

 妻と死別し、国会議員という立場でありながら再婚もせず、男手一つで子育てをしているという美談は、国会すらもエンターテイメント化したいマスコミの好物になっている。奏太郎は、その格好の宣伝媒体というわけだ。今日は、奏太郎がたまたま外に出、このようなことになったが、が何か仕掛けてくるなら、明日だ。

 今日、事が起きたことで、は、単なる予告だけではなく、本気でやるつもりであることが分かった。


 気配。しな子は、素早く立ち上がり、身構えた。

「高松さん」

「やあ、丹羽さん。眠れなくて」

「そうですか」

 しな子は、ソファに戻った。高松議員は、カウンターキッチンの向こう、酒か何かを用意している。

「貴方も、飲まれますか」

「任務中です」

「そうですね。申し訳ない。私だけ、いただきますよ」

「どうぞ」

 どっと、笑い声。テレビの中で。

「隣、よろしいですか」

「どうぞ」

 寝巻姿の高松議員が、隣に座ってきた。手には、ウイスキーかブランデーのような色の酒が、少しだけ入ったグラス。

「お怪我は、いかがです」

「大したことはありません」

 ほんとうは、もの凄く痛む。

「そうですか。貴方がいてくれなければ、どうなっていたことか」

 しな子は、答えない。少しの間、無言。

 ソファの肘置きに、頬杖をついて、金髪混じりの髪を流しているしな子が、ぽつりと言った。

「高松さん」

 高松議員の、清潔な笑顔が、しな子の方に向いた。

「どうして、わたし達を呼んだの」

「言ったでしょう。私を、いわれなく脅す者を—─」

「奏太郎を殺すのに、どうして呼んだの」

 高松議員が、絶句した。

「どうして、高松さんは、奏太郎が勝手に家を飛び出したのを、知っていたの」

 ごくり、と高松議員が、喉を鳴らして、酒を飲み下した。

「わたしたちに状況を聞く前に、あなた、奏太郎を叩いて、言ったわ。お前が勝手なことをするから、って」

 グラスが、ソファの前のテーブルに置かれた。

「意外と、察しがいいんですね」

 しな子が見たことのない類の笑みが、そこにあった。

「馬鹿にしないで。これでも、プロよ」

「そうか。無口な若い女殺し屋は、頭も切れる、か」

「どうして」

「それは、あなた方には、関係のないこと。あなた方の任務は、私の息子を守ること。違いますか」

「そうよ」

「ならば、任務を、全うして下さい。任務以外のことは、できない決まりでしょう?」

 笑顔が、途端に、歪んだもののように見えた。

「あなた、下衆ね。何を考えているの」

「大丈夫ですよ、丹羽さん。明日は、日本で一番の諜報機関の特務員と、殺し屋が一緒だ。奏太郎に、万に一つも、危険はない。そうでしょう?」

「任務は、必ず、こなす」

「ええ、よろしくお願いします」

 空になったグラスを持ち上げ、高松議員は立ち上がった。

「高松さん」

 テレビを見たまま、しな子の背が、高松を呼び止めた。

「覚えていて。奏太郎に何かあったら――」

「――私を殺す、か?出来るものなら、やってみろ。殺し屋」

 清潔で、そして歪んだ笑顔をしな子の背に送って、高松議員は、自室に戻っていった。


 バラエティ番組の終わったテレビから、どこかの国の綺麗な風景が、クラシック・ミュージックと共に流れている。

 それとは関係のない、奏太郎に教わった歌を、しな子は小さく口ずさんでいた。

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