第二章 うたをうたう
護衛対象 : 高松奏太郎
紗和は、結局、東京トワイライトタウンの、その地下三階の、広大な施設の中の、医療区と呼ばれる区域に入れられた。
先にも述べたが、トワイライトタウンは、東京オリンピックに向けた再開発により建てられたショッピングモール、スポーツジム、オフィスなどが入った、広大な敷地を持つ複合施設である。管理、運営は国の第三セクターのような法人が行う。二〇十九年末完成。しな子がライナーノーツに入ったのはその後だが、赤部曰く、完成前は、オフィスビルの一室に事務班、ある私立病院と提携してそこに医療班、という具合に、その機能はあちこちに分散されていたらしい。
ライナーノーツ、正式な名前は内閣諜報部特務実行機関。その母体の創立は意外に旧く、戦後間もない頃のGHQによるアメリカナイズの一環として創られた。はじめ、国内の治安維持に必要な情報収集を主に行う。古来、日本人は、そのような機関が好きである。現代においてキャラクター化され、アイデンティティを持つようになった忍びなどはかなり旧くからその存在が認められるし、江戸時代なども密偵、探偵が公私問わず創られ、国家の治安維持に影の中活躍してきた。明治以降も、何かしらそういう諜報期間のようなものがあって、国民に眼を光らせていたようなふしがある。
内閣諜報部特務実行機関として正式にライナーノーツが発足したのは、一九六〇年。いわゆる安保闘争と言われる、過激な学生運動が盛んになっていた時代で、それら組織だった運動を鎮圧、あるいは構成員を闇に葬るような役目を密かに担うべく創られた。
第二次世界大戦前、あるいはその後、アメリカやソ連が、密かに、盛んに研究を重ねていた「
暴動の鎮圧に投入された最初の念象力者は、心を読む力があったと言われている。それにより、機動隊に正確な情報がもたらされ、暴徒の海の中から、その指導者の位置を特定することを助け、素早く鎮圧ができるようになった。
七〇年くらいになると、更に多くの念象力者が投入されるようになり、しな子のように直接人を傷つけることのできる力を持つものも現れはじめた。
警官隊、機動隊との衝突により、と記録されているが、学生運動による学生側の死者は通算百名を越えており、そのうちの多くは、ライナーノーツによるものであったと考えられる。
第一世代と言われるその念象力者達が、その後、どこに行ったのかは、誰も知らない。
時代が降り、学生運動などが落ち着きを見せてくると、ライナーノーツは、情報収集、提供などに傾注する。しかし、その傍ら、発展してゆく経済の影の中で、国家や主要企業の利権のため、念象力者は暗躍させられた。バブル期などを通じ、百名を越える政界、財界の大物が、突然死、事故死をしている。
この国は、それこそ時代劇の昔から、こうやってバランスを保ってきたのである。
九〇年代以降になると、国家機関の解体、民営化の流れを受け、ライナーノーツもまたその独立性が強まり、対価を得て民間からの依頼も受けるようになる。大抵は、国家の治安維持には直接関わりのない、誰かの汚れた部分を守る、汚れた仕事だった。
関係がないと言っても、大義の上では、念象力者は、この国のバランスを保つために使われている。それは、政界、財界の誰かにとって、都合の悪い事実を隠蔽することであったり、あるいは、汚職にまみれた者を消すことであったりした。
しな子は、今、自分が何のために、何をしているのか、知らない。だから、紗和を捕らえても、その後紗和がどうなるのか、知らない。そして、しな子は、どうやら、それに興味を持つようには出来ていないらしいし、そう教育されてもいる。
標的、と呼ばれた時点で、しな子の中で、紗和は紗和ではなくなった。
耳の中に、紗和の放った言葉を残したまま、しな子は、進んだ。
十二月十日。この日、ある政治家に対する脅迫事件の護衛として、しな子は駆り出された。
その議員は
そのうちのどれが、誰の気に障ったのか、分からない。
受けた脅迫の内容は、五歳になる議員の息子への誘拐予告。議員の自宅に向かうアルファロメオの中に、しな子はいる。
「子供を守るのね」
改めて、しな子は確認した。特に意味はない。ただ、今までの任務と少し違う。それを、言っただけだ。
「しかし、誘拐予告とはな」
「そうね。誘拐するなら、予告しちゃ駄目じゃない」
しな子は、郊外の高級住宅街が流れてゆく窓を見ている。
「脅迫だろう。政治のことに、専念しろとでも言いたいのかな」
「政治のことを、していない人なの?」
「いや、高松議員は、しているさ。正しいことをしようとすれば、それを嫌がる奴が現れるだけのことさ」
「そう」
議員の自宅に着いた。これから、数日間の間、泊まり込みで護衛する。赤部と同世代くらいであろうが、無精髭に皺だらけのスーツの、やさぐれた見た目の彼とは正反対の印象のこざっぱりとした男が、キャリーケースをそれぞれ曳いた二人を迎え入れた。
高松議員の秘書が、赤部の車を駐車場に回す。
「あなたが、赤部さん」
高松議員が握手を求めた。
「ええ、お初にお目にかかります」
その手を取りながら、赤部は好意的な笑顔を見せた。
「こちらが」
高松議員の眼が、しな子に向いた。それに気付き、ぺこりと会釈をする。
「丹羽しな子です」
しな子の代わりに、赤部が言った。
「護衛と仰るから、てっきり、屈強な男性が来られるのかと思ったら。いや、これはまた、可愛らしいお嬢さんではないですか」
月に一度は歯医者に通っているのだろう、真っ白な歯を見せて、高松議員は微笑んだ。
その笑顔を通り越して、しな子は、開けっ放しの玄関の向こうからの視線に気付いた。高松議員がしな子の視線を追い、家の中を振り返った。
「
言われて、男の子が、おずおずと出てきた。
「息子の、奏太郎です」
「奏太郎君、よろしくな」
赤部が座り込んで、奏太郎と眼を合わせ、手を差し出した。その手を怖がるように、奏太郎は高松議員の脚の陰に隠れてしまった。
「お父さん、この人達、だれ」
「お父さんの、友達さ。今日から、しばらく、奏太郎と遊んでくれるんだ」
「寂しくなんか、ない」
奏太郎が、高松議員のスラックスを、強く握りしめた。
「いや、失礼。去年、妻が他界してから、こんな調子で。男一人では、なかなか上手くいかぬものらしい」
奏太郎が、しな子をじっと見つめている。母がいないから、家に女性がやってくるのが、珍しいのかもしれない。
「奏太郎」
しな子は、名前を呼んでみた。
「何して、遊ぶ」
ぶっきらぼうだが、しな子なりに、最大限に気を使っているらしい。奏太郎は、しばらく固まった後、高松議員の脚の陰から出てきて、しな子を見上げた。
「これは、驚いた。幼稚園でも、あまり人に馴染まないのです、奏太郎は」
「そうですか。よかった。奏太郎君は、我々がお守りします。ご安心ください」
「よろしくお願いします」
家の中は、高松議員が買い与えた玩具で溢れていた。奏太郎としな子は、並んでソファに腰掛けて、録画されたテレビアニメを見ている。
「お姉ちゃん」
と、奏太郎はしな子のことを呼んだ。彼なりに、しな子の扱いを、測っているのだろう。
「テレビ、退屈じゃない?」
「あなたに合わせて、見ているのよ。退屈だわ」
しな子の記憶も、五歳から始まる。ちょうど、奏太郎の歳だ。そのあと、すぐ、施設に入れられた。
「じゃあ、何か、一緒にする?」
「何をするの」
五歳の子供に、気を使われているということくらい、しな子にも分かる。できるだけ、にこやかにしようと思った。
「どうしたい?」
子供は、親の口調を真似るということを、しな子は知識として知っている。いつも、高松議員は、このように奏太郎に語りかけているのだろう。
その二人を見ながら、高松議員と赤部は、護衛の算段や、脅迫の主についての心当たりなど、様々な打ち合わせをしている。その切れ目に、高松議員は、溜め息混じりに言った。
「この家は、広すぎる。私の父も、議員でした。その地盤と、この家を受け継ぎましたが、やはり、私には、荷が重いのかもしれません」
「そうですか。大変でしょう。議員のお働きは、常に世の注目の的。正しきを行い、不正を許さぬ。悲しいことにこの国において、稀有な人だと言わざるを得ない。その分、心労も多いことでしょう。お察しします」
「ええ、しかし、私は、やめるつもりはありません。志を曲げるくらいなら」
言葉をそこで切って、その悲しげな眼が、奏太郎を見つめた。
「息子には、自由に生きてほしい。なりたい自分に、なってほしい」
「親として、当然の願いです。それを阻むことは、誰にもできないはずです」
「私が、警察ではなく、あなた方に相談をした意味を、お分かり頂けますね」
「ええ。明るみに出さず、貴方を阻む者を、消せと仰るのですね。他の、同じような、貴方に洗われることを恐れる者への、示威行動として」
「ずいぶん、率直な物言いをなさる」
「正直が、信条です。私も、貴方も」
「違いない」
「お姉ちゃん、これ」
幼稚園の鞄の中から、奏太郎は薄い本を差し出した。
「一緒にできること、これくらいしか、ないね」
歌の本である。童謡などが、収められているらしい。
どのページを見ても、しな子は、知らない歌ばかりだった。
五歳の子供が、当然のように親や幼稚園などから教わる歌。それを、しな子は、一つも知らない。
「ごめん。知らないわ」
しな子が本を返そうとすると、奏太郎は驚いた様子で、知らないの?なんで?と言った。
その問いに、しな子は答えることが出来なかった。何故、自分がそのような人生を生きることになったのか、説明などできないのだ。
「じゃあ、教えてあげるよ」
奏太郎がページをめくり、歌いだしたのは、誰もが知っている童謡だった。しな子も、ゆっくり、小さな声で、歌詞を見ながら、そのメロディを追いかける。
童謡だから、数度歌えば、覚えられた。しかし、五歳の子供の歌だから、ところどころ微妙にメロディが違っていて、その度に赤部と高松議員は顔を見合わせ、やわらかな苦笑を漏らした。
夜。奏太郎は、九時過ぎには眠った。眠るまで、しな子は、奏太郎の求めに応じ、絵本を読んでやっていた。様子を見に来た赤部が、しな子、とベッドに突っ伏しているしな子に声をかけると、しな子は弾かれたように上体を起こした。
「眠ってしまっていたわ」
絵本を閉じ、枕元に置くと、しな子は立ち上がった。部屋を去ろうとして、戻り、奏太郎の毛布を深くかけてやった。
「おやすみ、奏太郎」
しな子が、ほとんど声にならないほど小さな声でそう言い、部屋の電気を消す。赤部は、吹き出しそうになるのを、辛うじて堪えた。
「奏太郎君、よくお前に懐いているな」
「とても、いい子よ」
「しな子、保育士に向いているのかもな」
「やめて。似合わないわ」
「そうかな」
「あんなに無垢な子供が、あなたのようなむさ苦しい男になっていくのかと思うと、死にたくなる」
「ははっ、言うね。さて、議員がお呼びだ。ミーティングをしよう」
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