歩む音
結局、紗和と接触はできず、中国版ライナーノーツとも言える、国家治安管理部の構成員とおぼしき男も死なせてしまった。
赤部はそのことを気にした様子もなく、ゴーストップの多い東京の街路を、さかんにギアチェンジを繰り返しながら、オーディオから流れているストーンズのドラマー、チャーリー・ワッツがいかに偉大かをしな子に力説している。
しな子は、男の血液が付着したままの、お気に入りのブランドの白いダウンジャケットに包まれて、助手席のシートに埋もれ、シートベルトをした血染めの雪だるまのようになりながら、紗和のことを考えていた。
何故、自分や紗和には、同じ年頃の女性のような人生が用意されないのだろう。映画に出てくるスパイならもっと華々しいが、しな子の人生は、この先、どうなっていくのだろう。
組織で受けた教育により、人を殺すことへの罪悪感は取り払われた。むしろ、正しいことを行っているのだと、さんざん聞かされ、しな子はそれを受け入れた。
できるなら、そのまま、心まで、塗りつぶして欲しかった。何も考えず、何も感じない機械のように。
我思う、ゆえに我あり。と昔の偉い人は言ったというが、ならば、思っても思っても自我を感じられず、この無機質な街とそこで営まれる人の世から遠ざかってゆくしな子は、どうすればよいというのか。
反面、しな子は思う。好きな曲に合わせて鼻唄を歌っている赤部も、車窓の向こう、追い越してゆく見知らぬ人も、皆、そうなのだろうと。
自分は、特別ではない。ただ、少し、変な子なだけ。だから、どうということもない。自分は、それ以上でも、それ以下でもない。
そう思うのだ。
いつもの癖でそのまま車に乗り込んだはいいが、結局、居酒屋にも寄らず、ぐるりと近所を回るようにして車を戻し、赤部と別れた。
血のこびりついたダウンジャケットを裏返しにし、ゴミ袋に突っ込む。お気に入りだったが、同じものは、いくらでも買える。どうやら、そうらしい。この世に、唯一無二など、ないのかもしれぬ。
たとえ、紗和を捕らえ、あるいは殺し、しな子の前から消しても、どうせまた、別のお気に入りを手に入れることになるのだ。見つからなければ、それだけのこと。実際、何年もの間、しな子は紗和を見ず、生きてきたではないか。
キャンドルを焚く。これも、しな子のお気に入り。火を見ていると、左手が疼く。その疼きが全身に回ってくるのを、待った。その時間が、好きだった。その疼きが、しな子を落ち着かせるのだ。
見もしないのに、テレビを点ける。ちょうど、先ほどのホテルでの事件の速報が流れていた。
しな子は、この国の誰よりも、その事件のことを知っている。ホテルの七階から男が飛び降り、部屋には争った形跡。
そのとき、スマートフォンが鳴った。電話である。知らない番号から。
「もしもし」
しな子は、応答した。
「しな子ね。やってくれたじゃない」
「紗和?」
声の主は、しな子が接触を求めた紗和。紗和から、接触をしてきた。どうやって番号を知ったのかは、分からぬ。
「私に、会いたかったんでしょ。それならそうと、言ってくれればよかったのに」
「どうやって、言えばいいの」
「それも、そうね。今から会う?」
「いいわ」
危険であるが、行かねばなるまい。
「貴方一人で。来れる?」
「ええ」
待ち合わせ場所は、しな子が紗和と再会した公園。住宅街の中だが深夜であるから、
紗和は、しな子が一人で行動していないことを知っていた。先ほど、赤部と二人でホテルに入ったのを、見ていたのか。あちこちに、彼女は目を持っているらしい。
赤部に、メッセージを送った。
「今から、紗和と会う。任務は続行。監視されている。気をつけて」
赤部がどこにいるのか分からないが、紗和があちこちに持っているであろう目に対し、注意を促した。それだけ言っておけば、赤部なら上手くやるだろう。場所も、伝えた。何分くらいで着くだろうか。これだけ共に仕事をしていても、しな子は赤部の家を知らない。
とにかく、紗和に会う。会って、指令の通り、殺さずに捕らえるのだ。
迷いなどない。やれと言われたら、自分がどう思おうが、やるのだ。
何か思うほど、自分には、自分がない。そう思った。
公園まで、歩いて十分ほど。どうせ、紗和には、しな子の家も割れているのだ。さっき捨てたダウンジャケットの色違いを着て、堂々とエントランスを出て、星のマークのスニーカーで冷たいアスファルトを叩きながら、人気のない住宅街を歩いた。
とん、とん、たとん。
とん、とん、たとん。
しな子の足音。鼓動の音でもある。
とん、とん、たとん。
赤部はその報せを、高級そうなバーで受けた。傍らには、以前、ホテルの一室で話していた初老の男。
「おや、お呼びのようです」
「君も忙しいな、赤部君」
「人気者の、辛いところですよ」
赤部は下戸なので、酒は飲まない。いつでも車を出せるように、という配慮もあるかもしれぬが。
煙草の火を消し、ジンジャーエールの炭酸を、一気に体内に押し込んだ。
「頼むぞ。まだ、明るみに出すわけにはゆかぬのだ」
「わかっています。貴方のところで作ったものを、我々が使うため、貴方のところで試した。結果、上手くいかなかった。痛み分け、というわけにはいかないでしょうからね」
「嫌な言い方をするものだ」
「ははっ、ジョークですよ」
赤部は、珍しく真面目な顔をした。
「我々としても、失敗を明るみに出すわけには、ゆかぬのです。この商売、信用が大事ですから」
「わかった」
「必ず、うちの売れっ子が、回収してみせますよ」
しな子の、足音。
その律動が、早まった。公園の真ん中、外灯に見下ろされるようにして、紗和は立っていた。ブランドものとおぼしきキャメルのコートに身を包んで。
「早かったわね」
「貴方こそ」
「すぐ近くにいたもの」
「私の居所、分かっていたの」
「ええ、分かっていたわ」
しな子を殺すつもりなら、殺せたということだ。
「今日は、思い出話は、出来そうにないわね」
「あぁ、そう。あなた、まだ何か話したいことがあるの?」
「いいえ、もうない。思い返すことは、できないの。私も、あなたも。そうでしょう?」
「どうして、わたしを呼び出したの」
しな子が紗和を追っているのを知りながら、殺すつもりでもなく、話すつもりでもなく。
「貴方の頭の中を、覗いてみたくなったの」
「なんのこと」
「私と一緒に、来ない?」
「中国へ?」
紗和が、ちょっと笑った。
「あの男。喋ったのね」
「あなたは、中国の何とかっていう組織に、居るのね」
「少し違うけど、そう思うなら、それでもいい」
「わたしは」
しな子は、自分の靴を見た。ベージュっぽい白が、公園の砂に溶けるようにして、影を作っている。
「行かないわ」
「そう。じゃあ、仕方ないわね」
紗和の眼に、力が入るのが、分かった。
「あなた、
「知らない」
空気が、振動する。
「わたしたちの力はね、頭の中で生まれるの」
しな子は、スニーカーの歩幅を、ちょっと開けた。
「エストロゲン、オキシトシン、ドーパミン。色んな名前の物質が、頭や体の中を巡っている。普通の人も、私たちも」
「あぁ、そう」
しな子の眼にも、力が入る。
「そう。今、貴方、高揚しているわ。そして、陶酔している」
「あなた、おかしいわ」
「力を使ったあとの、身体の疼き。それは、貴方の脳の中を駆け巡った物質の、足跡」
性欲のことだろうか。確かに、しな子は力を使ったあと、堪えられぬほどの性欲を覚える。脱力感にも似た、例えて言うなら、蕩けてしまうような感覚。
「それらの物質が、私たちの力を、引き出している。私たちを苛む記憶から、私たちを、守ろうとしている。貴方も、きっと、もっと、自由に力を――」
外灯が、みしみしと鉄鳴りを上げている。明かりが、点いたり消えたりしながら、よく思い出せぬ夢の中の登場人物のように、紗和を照らし出している。
「――使えるように」
獣の鳴き声のような音と共に、外灯がへし折れる。しな子へ降りかかるように、倒れてきた。
都会らしい、色の薄い闇が、二人を包んだ。
その闇を、しな子の足音が、勢いよく踏んだ。
左手の、疼き。
ぱちりと、何かが爆ぜる音。
紗和のコートの裾が、燃えた。
色の薄い闇は、
その紅を残し、紗和は身を翻した。
燃えるコートが、ゆっくり、落ちる。
「せっかちね、しな子」
「あなたこそ」
ふふっ、と紗和は笑った。
「そのピアス、やっぱり、全然似合わないわ」
地響き。
土が陥没し、しな子はバランスを崩した。
紗和が、一気に距離を詰めてくる。身体が、重なった。ふわりと、香水の匂い。何の花だろう、と思った。
腕を捉えられ、捻り上げられる。そのままいけば、肩の関節が外れる。思わず、呻き声が上がる。上がって、息を吸った鼻腔に、また香水の匂いが遊ぶ。
「私たちは、自分のために、生きなくては駄目」
しな子の左耳の太いピアスに唇をつけ、紗和は囁いた。
「貴方も、そうなるの」
自分のために、生きる。言葉の意味は、分かる。しかしどうすれば、そうしたことになるのか、知らぬ。知らぬしな子は、跳ぶ。
捻られた腕を戻すように。脚が、夜の中に、高く。
咆哮。
逆上がりのように翻ったしな子の身体。
腕を捉え上げている紗和の脳天に、逆さに回転した膝蹴りを見舞った。
いかに、紗和が昔よりも強い力を身につけていたとしても、体は、生身。サイボーグではない。脳天に膝を食らえば、失神する。きっと、脛椎を痛めたことだろう。
このまま、眠ったように息をしている紗和の身体を、焼いてやりたいような衝動を覚えた。しかし、それはできない。しな子は、スマートフォンを取り出し、赤部への通話を発信した。
「赤部さん。今、どこ」
「公園の前さ」
赤部の声がスマートフォンより漏れるより一瞬早く、通りから赤部の声がした。煙草も吸っていないのに白い息を弾ませながら、駆けてくる。
「しな子、大丈夫か」
「ええ、問題ない」
しな子は、細く可愛らしい顎で、紗和を指した。
「やったか」
「殺してはいないわ。指令の通りよ」
「よくやった、しな子」
しな子は、答えない。
それからすぐ、紗和は、駆けつけたライナーノーツのものらしき黒いバンに載せられ、回収された。
これから、彼女はどこに向かうのか分からぬ。
いや、自分がどこに向かうのかも分からぬ。
この力は、自分を苛む記憶から、自分を守ろうとしている。
自分のために、生きなくては駄目。
なんとなく、耳に残る言葉。
しな子は、まだ、知らぬのだ。生まれたての子供のように、様々なことを。
知らぬながら、彼女は、歩む。
とん、とん、たとん。
とん、とん、たとん。
第一章 東京トワイライトタウン 完
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