スローガン
とん、とん、たとん。
とん、とん、たとん。
しな子のスニーカーが、乾いたアスファルトを叩く。冬のそれは、固くて高い音。すれ違う者は誰も、しな子のそれを聴くことはない。聴いても、どうせ、すぐに忘れるに決まっている。
しな子の姿も、そうだ。お気に入りの三本ラインのジャージに、同じブランドのダウンジャケット。その顔立ちが可愛らしく、肌の色が白いせいか、日付が変わるまで残業したり飲み歩いた帰りのサラリーマン風の男などが、じろじろとしな子の
しかし、どうせ、すぐ忘れるのだ。家に帰れば、テレビの中の美人が彼らを癒してくれる。しな子の容貌を覗き込むのは、その代わりになってくれる人が、大勢の中からたまたま見つからぬものかと、何となく期待しているだけなのだろう。
しな子を知る者といえば、隣で寒い寒いと身を縮めている赤部。それに、ライナーノーツの構成員。皆、誰にも知られていない者達ばかり。
すなわち、しな子は、誰にもその存在を認知されていないのと同じなのではないか。
そんなものなのだとしな子は思うようになっていた。知られようとも思わない。知られて、良いこともない。あまり広く顔と名を知られれば、仕事に差し障りも出る。
それは、言い訳。やっぱり、苦手なのだ。その証拠に、赤部などは任務中に遭遇する初対面の人にも、軽口を言う。それでも、赤部が個人を特定されたことはない。
とん、とん、たとん。
とん、とん、たとん。
その足音は、世界とは交わらず。異質なものでもなく。ただそこに残り、すぐ消える。
今から、紗和を確保しに行く。紗和は、しな子を、深く知る者。その存在がこの世から消えれば、しな子も消える。
仕方がない。はじめから、居ないのと同じくらいの存在でしかないのだから。
「標的」
と、赤部は、任務の対象について指す語を用いた。
「標的は、一人。しかし、単独行動をしているかどうか、分からない。気を抜くな、しな子」
ブリーフィングでも聞いたことを、口に出した。
「さっき、聞いたわ」
事実を伝えた。赤部はちょっと苦笑して、
「分かってるさ。俺だって、ちょっとピリピリするんだ」
緊張しているということだろうか。しな子は、あぁ、そう。と癖のようになっている返事をした。
ホテルアーバングリーン。しな子の家から、徒歩圏内。いつもは車移動だが、今回はしな子のマンション近くのコインパーキングに停めている。
「いつも、車だからな。やっぱり寒さが堪えるな」
赤部が、また意味のないことを言った。あの煙草臭いアルファロメオも、なかなか暖房がきかず、冬場は地獄のような寒さではないか。
ホテルのエントランスをくぐると、快適に整えられた空気が二人を迎え、冷たい地獄から解放した。従業員削減のためか、一人しかスタッフのおらぬフロントを何食わぬ顔をして通りすぎ、エレベーターで七階へ。
ふさふさとした絨毯の踏み心地は、しな子のスニーカーの音も消した。
赤部は、上着の中に右手を入れている。三八口径を握っているのだろう。
部屋の呼び鈴を、鳴らす。中に、気配はない。もう一度。やはり、同じである。
赤部が、特殊な器具を、鍵穴に差し込んだ。そして一気に回すと、鍵が外れた。ドアが、開く。
中は、無人。
注意深くバスルームのドアを開くが、誰もいない。しな子はドアの前三歩の位置に立ち、上着のポケットに手を入れたまま、眉間で見る準備をした。あとは、頭の中で、炎の像を結べば、対象を焼ける。車好きの赤部が名付けた、「半クラッチ」という状態だ。
銃の構えを解き、赤部がしな子に目配せをした。しな子は、頭と眼の力を抜き、赤部風に言うなら、ニュートラルの状態になった。
そのとき、しな子は、ドアが開くのを感じた。とっさに、振り返る。
男である。しな子を、羽交い締めにしようとしてきた。その片腕を絡め取り、勢いをつけて壁に顔面を叩き付けた。べっとりと、血糊が付く。男の片腕が、上着の中へ。
拳銃。
片腕を捉え、顔面を壁に押し付けたまま髪を掴み、引き寄せながら跳躍し、跳ね上げた膝で後頭部を打った。ムエタイなどで見られる、飛び膝蹴りである。
昏倒した男から腕を離し、拳銃を蹴り飛ばす。
曲がった鼻から濃い色の血を吹き出したままの男を引きずり、再び銃を構える赤部の方へ連れて行った。
「何者だ」
男をソファに座らせ、赤部が、三十八口径を眉間に突き付け、問い掛けた。男は、うつろな眼をしている。
「もう一度聞く。お前は、何者だ」
やはり、男は答えない。
しな子が、いきなりテレビを点け、音量を上げた。夜中のバラエティ番組の中で、芸人が楽しそうに騒いでいる。
男は、反射的に、テレビの画面を見た。
しな子が振り返る。右手のリモコンを、振り上げて。
男の頭を強打した。こめかみから、血が吹き出た。
続いて目の横や、折れて曲がった鼻などを強く打つ。
男の声を、テレビの笑い声がかき消した。
男が語り出すまで、何度も。力を使えば、すぐに口を割るだろうが、男に自分が念象力者であることを知られてはならない。相手が何者か分からぬのは、お互い様なのだ。
当たり前であるが、銃を突き付けるよりも、殴った方が効果的である。ついに、男は、土井紗和に連絡をつけている者だと白状した。しかし、所属を言うくらいなら自殺するだろう。死ぬまで殴っても、無駄だ。紗和の居所は、知らぬと言う。
赤部が、いきなり中国語らしき言語を話した。しな子には、その意味が分からない。しかし、男の表情が変わった。それを、赤部は見逃さなかった。赤部が見逃さなかったのを、男は見逃さなかった。
男が、立ち上がる。それを、しな子が激しく制止し、床に沈めた。男の腰の上に股がり、身動きを封じる。
「いい、しな子。よせ」
何故か赤部が止めるので、しな子は男の上から身を引いた。男は、ゆっくり立ち上がると、ふらふらと窓の方へ歩いてゆき、ガラスを叩き割った。
そのまま、七階から、転落した。
破れた窓から、東京を吹き上がる風が、入ってきた。
「何故、あの男は、自分で飛び降りたの」
目立った収穫はなかったが、男と接触した。煙草臭いアルファロメオをアイドリングさせながら、そのことを報告するメールをスマートフォンで作っている赤部に答えた。
「正体を、知られたからさ」
しな子には眼をやらず、答えた。
「さっき、あの男に、何て言ったの」
「何が」
「中国語」
「国家の安寧のため。人民の幸福のため」
「どういう意味」
「中国政府直轄の、国家治安管理部。そのスローガンさ。日本のある企業と、繋がっていてね」
中国のライナーノーツといったところか、としな子は解釈した。それが何故、日本にいて、中国政府高官を殺したかもしれぬ紗和と接触を持っているのか。
赤部がそれきり何も言わなくなったので、しな子なりに、色々想像してみた。
どれも、ただの想像。
しな子が、特に意味なくシートベルトを伸ばしたり縮めたりする音が、赤部の好きな古いロックミュージックの湿ったスネアドラムの音に合わせて、鳴っている。
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