中国高官殺害事件

 早朝、点けっぱなしのテレビから、ニュース番組が流れている。しな子は、眠い手でリモコンを探り、力尽きた。朦朧とする意識の中に、原稿を読み上げるキャスターの声。

 中国からやって来ている、外務大臣だか防衛大臣だかが、日本国内で事故に合い、命を落としたという。警察が捜査を進めているらしい。国内での事故だから、外交問題になりはしないか、と訳知り顔のコメンテーターが、自分のことのように話す。

 中国にも、日本と同じように、大臣はいるのだな、などと薄ぼんやりと明けていく空と同じ色の部屋の中で、毛布にくるまれながら考えた。


 しな子は、一度目覚めてしまうと、眠いのに眠れないという状態が長く続く。その迷惑な覚醒を、ニュースと共に過ごすしかなかった。

 なんでも、中国の偉い人というのは、視察していたショッピングモール天井が崩落してきて、その瓦礫に挟まれて死んだのだという。不運というか、そのようなこともあるのだ。現場には規制線が敷かれ、恐らく、昨夜から使い回されっ放しなのであろう中継の録画映像が流れた。

 眠りが来そうになったが、映像の中に、眼を止めた。先日、会ったばかりの紗和である。リポートをするキャスターの後ろを、一瞬、通った。

 紗和も、現場にいたのだ。

 直感。

 もしかすると、やはり、紗和もまた、しな子のように、その力を使い、人を闇の中へと葬り去るようなを、しているのだろうか。

 しかし、紗和の力は、しな子の知る限り、ごく軽い、つまらぬものであった。天井を崩落させ、人を押し潰すなど、できるはずもない。能力とは、により、ある程度は開花する。しな子も、施設や組織でのそれにより、かなりのところまで、己の力を随意に発現させることが出来るようになったし、力を使った後の疲労感も昔に比べて軽い。しかし、それはあくまでコントロールの面であって、能力自体が強くなるということは、しな子の知る限り、無いはずである。コップを動かすのが精一杯であった紗和が、六年の時を経て、天井を崩すくらいの力を手に入れるとは、考えにくい。


 とりあえず、赤部に連絡をすることにした。早朝であるから、通話ではなく、メッセージで。


 ――中国の要人死亡の件、テレビに、知り合いが映っていた。気になる。


 しな子の書く文は、端的である。すると、一分もせぬうちに赤部からの返信が、しな子のスマートフォンを揺らした。

 起きていたのか、と意外に思い、画面を見ると、OK!と、熊のキャラクターがピースサインをしているスタンプが送られて来ているだけだった。

「なにが、OKよ」

 しな子は独り言を言い、スマートフォンを放り投げた。



「やはり、俺のパートナーが接触していたのは、土井どい紗和で間違いないようです」

 赤部は、傍らの初老の男に言った。なにか、高級なホテルの一室のようである。しな子が見ているのと同じ番組が、流れている。初老の男は、それを気だるげに見ながら、

「やれやれ。俺は、面倒事は嫌いだぞ、赤部君」

 と言った。赤部は乾いた笑い声を上げて、煙草に火を着ける。この早朝にこの部屋を訪れているのは、人目を避けるためか。

「ご安心を。全て、我々で処理します。貴方は、その後のことだけを考えて下さればいい」

「ライナーノーツには、期待しているのだ」

「おや、嫌っておられるかと」

 初老の男もまた、赤部につられたのか、煙草を口にくわえた。その先に、赤部のライターが差し出される。ゆっくりと、男は煙を吸い、吐き出した。テレビの光が、一瞬、それで霞んだ。

「ああ、大嫌いだよ。お前達のような、得体の知れぬ連中はな」

 赤部は、また少し笑った。

「どうなさいます、我々に日の光を当て、断罪なさいますか」

「脅すな。それより、目先の案件だ」

「承知しています」

「国際問題になりかねん。今、揉め事を起こすのは、得策ではないのだ」

「それも、承知しています」

「全く、馬鹿どもが、面倒ばかり持ち込みおる。いいな、決して、明るみにするな。全て、無かったことにしろ。あれの存在を、知られるわけにはゆかん」

「俺を、こんなに早くにお呼びになったのは、念を押すためですか?それとも、大企業の辛さを聞かせるため?」

 赤部は、豪華な造りの灰皿で、煙草を消した。

「居てもたっても、居られないのだ。何度でも、念を押したい」

「あまり、軽々しくお呼びにならないでいただきたい。誰にも見られず、ここまで上がってくるのは、なかなか大変なのですよ」

「だが、お前は来た。お前は、そういう男だろう?」

「ま、否定はしませんがね」

 赤部は、立ち上がった。

「赤部君」

 紫の煙が、その背を追いかけてきた。

「ライナーノーツは嫌いだがね。、君のことは頼りにしているのだ」

 赤部は、ちょっと立ち止まり、

、受け取っておきます」

 と言い、また笑い、ドアを開いた。



 いつの間にか、眠っていた。震え続ける携帯を手探りで取り上げる。赤部からだった。

「――はい」

 掠れた寝起きの声で、答えた。

「二度寝か、しな子」

「ええ。今、何時」

「九時だ。今、そっちに向かってる」

「赤部さん、どこにいるの」

「コンビニさ」

「そうじゃなくて」

「すぐ、近くさ」

 言葉の通り、赤部は十分ほどで上がってきた。しな子の部屋の鍵を持っているが、一応、フェミニストを自称している赤部は、来る前に必ず連絡を入れる。さすがに、エントランスは鍵を回してそのまま抜く、部屋の鍵は回してもとに戻して抜くということは覚えたらしい。

「入るぞ、しな子」

「どうぞ」

 しな子は、まだ寝室の布団の中だ。赤部は、丹羽しな子は二度寝る、などと軽口を叩きながら、リビングのソファにどかりと腰掛け、テレビを点けた。

「これ、えらい騒ぎになってるな」

 例の、中国の政府高官が死んだ事故である。

「そうみたいね」

 しな子は布団からようやく出て、部屋着用のジャージから、よそ行き用のジャージに着替えた。歯を磨こうと寝室から出たところで、露骨に眉を潜めた。

「部屋で煙草、吸わないでって言ったのに」

「ああ、すまん」

 赤部は、コンビニで買ってきた缶コーヒーの空き缶に、煙草を入れた。折角、お気に入りのカモミールのアロマキャンドルを焚いて、うっすらと部屋にその香りを染み込ませているのに、赤部の、赤い丸印の入ったパッケージの煙草の煙は、それをいとも簡単にかき消してしまう。煙草が嫌いなのではなく、それが嫌なのだ。

「もう、煙が」

 しな子はベランダの窓を開け、東京の朝の霞んだ空気を入れた。

「しな子、寒い」

「あぁ、そう」

 紫の煙が、光を求めるように、窓の外へと逃げて行く。

「パープル・ヘイズね」

「お、ジミ・ヘンドリクスか。悪くない」

 赤部の好きなロックスターの曲の名を、しな子は持ち出した。

「全然、好きじゃない」

 ある程度煙を逃がし、しな子は窓を閉めた。

「それで、今日はどこへ?」

 ようやく、歯を磨くため、洗面所へ向かう。洗面所に聞こえる声で、赤部は言う。

「一緒に、本部へ来てもらう。だ」

 しな子が、歯ブラシをくわえたまま、洗面所から顔を出した。

「中国の、胡長豊こちょうほう外務大臣が死んだ件だ」

 しな子は、どきりとした。ライナーノーツは、紗和のことを探っている。

「その事故が、どうしたの」

 一応、聞いた。

「分かるだろ。これは、殺しだ。お前が接触した、土井紗和。彼女が、関わっていると思われる」

「あぁ、そう」

 紗和の狙いが何なのか、気になる。それは、しな子が紗和を知っているからであって、任務とは関係ない。もし、紗和を殺すのが任務なのであれば、殺すだけだ。念象力者を殺したことはないが、身体は普通の人間である。箪笥に脛をぶつければ青痣ができるし、焼かれれば死ぬ。

「部長じきじきの、お呼びだ。悪態をつくなよ」

 内閣諜報局特務実行部。そのトップは、部長と呼ばれている。自衛隊官僚だったとも、有名大学の教授だったとも言われているが、詳しい経歴は分からない。真島三蔵まじまさんぞうなどという名も、いかにも芝居じみていて、本名ではないのでは、としな子は思っていた。

 歯を磨き終え、ピアスを着けると、丹羽しな子が出来上がった。


 目黒の、東京トワイライトタウン。その地下三階の本部に、しな子と赤部は着いた。

「赤部健一郎、丹羽しな子、到着しました」

 赤部は部長室の前で名乗り、ドアを開いた。

「おう、赤部君、丹羽君。わざわざ、済まないな。スマートフォンでのやり取りだけでは、味気がないだろうと思ってな」

「いえ、別に、それでいいです」

 と言うしな子のスニーカーを、赤部の革靴が小突いた。

「ははっ、若いな、丹羽君。俺が君くらいの頃、携帯電話の画面は、まだオレンジ一色だったぞ。メールをし過ぎると金がかかるからな、親に怒られる。好きな女の子の家電に、勇気を出してかけるんだ。お袋が、盗み聞きしやがってな」

 赤部が、笑った。赤部はまだ三十代だが、しな子よりはその昔話におかしみを感じられるらしい。

「あぁ、そうですか」

 しな子は、眉一つ動かさない。ほんとうは、調子を合わせて、相槌をうってやらないといけないことくらい、分かる。しかし、苦手なのだ。人の前で言葉が詰まるのは、昔からだった。頭の中にはたくさんの言葉が行き過ぎていて、それを手に取って、口にめ込めばよいのは分かるが、どれを手に取るか選んでいる間に、いつも言葉はしな子を置き去りにして行き過ぎてしまう。

「君には、分からない話題だったかな。失敬。それでは、お望み通り、本題ブリーフィングだ」

 真島部長は、立ち上がった。本部の中の、ブリーフィングルーム。分析官という役職の女がいて、それがパソコンでスクリーンにスライドを映し出す。

「標的は、土井紗和、二十三歳、国籍日本。住所、職業は不明。丹羽さんには、彼女を殺害することなく、動けぬようにして頂きます」

 加減しろ、ということか。足を焼き、動けぬようにすることを、しな子は即座に思い付いた。知り合いであろうが、紗和であろうが、「標的」と呼ばれた相手ならば、やる。そういうを受けてきたのだ。

「標的の所在は、下北沢の、ホテルアーバングリーン。丹羽さん、知っているわね」

 赤部には、しな子が自ら報告したのだが、組織には、ほんとうにしな子の全てが筒抜けになっている。しな子がそこに出入りしたことを掴んでいるらしい。

 そのあと、任務の注意点や、タイムリミットなどについての話があった。それを終えると、真島部長が、立ち上がった。

「では、赤部君、丹羽君。良い帰還報告デブリーフィングを、待っているぞ」


 東京トワイライトタウンのエントランスを、皺だからけのスーツの男と、ジャージ姿の女が出て行く。出て、アスファルトの海の上を、歩いてゆく。

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