再会
十一月二七日。しな子は、この日、珍しく買い物に出ていた。スポーツブランドのショップで、新作のジャージを手に取っている。赤部などは、しな子の三本ラインのジャージの上下について、いつも同じものを着ていると思っているらしいが、違うのだ。実は、しな子はとても拘りが強く、その日の気分によって、微妙に形の違うものを着用している。たぶん、しな子のマンションのクローゼットには、二十着はあるはずだ。今は、冬だから、その上から同じブランドのダウンジャケットを着ている。
この日は、わざとらしく有り難みを押し付けてくる冬の太陽もなく、雨も降らず、とてもいい曇り空で、それでいて頭痛も無かったので、何となく気分が良くなり、出掛けることにした。電車に乗るのがなんとなく億劫で、仕事のない日に目黒のジムに行くときは、マンションのある下北沢から歩いて五キロほどもある道を、歩くのだ。お気に入りのジャージとスニーカーがあれば、東北にでも九州にでも歩いて行ける気がしていた。もっとも、今しな子の居るショップは、マンションから十分程度の、同じ下北沢圏内であるが。
それほど好きな三本ラインのセットアップジャージは、ブランドの直営店で買えば高くつくが、インターネットの通販では生地感や着心地が分からぬので、いつもこうして、実物を手に取り、レジまで運ぶ。
しな子が手に取っているのは、男物のSサイズ。しな子とは段違いの着こなしを見せる可愛らしい店員が、すかさず声をかけてくる。
「お客様。そちらは、男性用サイズですが、大丈夫ですか」
しな子は、答えられない。これで、いいのだ。いつも、男性用のSサイズを着ている。その緩い着心地が、好きなミュージシャンと同じくらいの感じがして、気に入っているのだ。
「お客様くらいの身長であれば、女性用のSがぴったりですよ。私が着ているのが、そうなんです」
妙に語尾を引く、上代日本語――しな子はその語彙すら知らぬが――のような発音で、店員は言う。頼みもしないのに、女性用のものを持ち出してきた。小さい。こんなものを着れば、目の前の可愛らしい生き物のように、男の眼を惹くためだけに神が作ったとしか思えぬ身体の線が、丸見えではないか。店員は、しな子が全身このブランドで統一しているから、易々と複数点購入すると思っているのか、それに合うインナー、スポーツメーカーらしからぬカジュアルなパンツなどを次々と持ち出してくる。
断っておくが、しな子のスタイルもなかなかのものである。胸もちゃんとあるにはあるし、肩は薄くて狭い。肌は真っ白で、髪はさらさらだ。しかし、しな子は、その姿を自分の気に入るように飾ることはあっても、人に好かれるために飾ろうとは思えなかった。
だから、身体の線は隠す。大きいサイズでいい。
「あの、わたしのじゃ、ないんで」
これが、しな子が経験から編み出した、必殺の一言である。彼氏さんですか、羨ましい、などというお決まりのフレーズさえ乗り越えれば、レジまで辿り着けるのだ。レジで、意味のないプレゼント用包装をしてもらい、つるつるとしたナイロンの手提げ袋を受け取れば、終わりである。たったこれだけのことすら、しな子にとっては冒険であった。
帰り道。携帯オーディオは、使わない。耳に何か入っているのが嫌で、なおかつ、仕事柄、耳を塞いで無警戒で歩くわけにもいかない。
新しいジャージが嬉しくて、ちょっと寄り道しようと思った。マンションの近くに公園がある。大通りのコンビニで肉まんを買い、そこまで足を伸ばすことにした。
ふと、立ち止まる。大通りの歩道を、行き交う人。誰もが、目的を持って、歩いていた。そのモノクロームのアスファルトを、理由があって、踏みしめていた。
疲れ、打ちひしがれ、それでも、なお、彼らには、しなければならないことがあり、行かなければならない場所があった。
雑踏に追い越されながら、自分は、一体、この三本ラインのジャージから生えた足で、何故このアスファルトを踏んでいるのだろう、と思うことがある。
誰とも交わらず、重ならず。ただ、立ち止まって何かを叫ぼうとしている。しかし、何を叫んでよいのかすら、分からぬのだ。ほんとうならば、大学を卒業して就職をし、笑ったり悩んだりしながら、はじめての後輩の面倒を見、先輩におべっかをし、ジムの受付のマリナや、さっきの店員のように、日々を過ごすはずなのだ。彼氏も出来ているかもしれない。きっと、背が高くて、眼が優しくて、多くは語らない、最近映画に引っ張りだこの俳優に少し似ていると友達に騒がれる彼氏だ。とてもしな子のことを大切にして、一番にしな子のことを考えてくれる。
そんな人生が、あったのかもしれない、と、つい思う。しかし、しな子は、自分がどこで生まれたのかも知らぬし、親の顔も名も知らぬ。記憶は、いつも、あの病院から始まる。それ以前の記憶は、無い。ただ、両親と自らの左腕を焼く炎の熱と、その紅い色だけが、黄昏時のまどろみのように、明滅しているだけだ。失ったもの、得られなかったもの。それを取り戻すことは、できぬのか。
こうしていれば、内容こそ違えど、普通の悩み多き同年代の女性と、そう違わないように思える。特務機関ライナーノーツの念象力者として人を焼き殺しても何とも思わぬ訓練を受けていることと、刃物や拳銃相手でも戦える体術さえなければ、だ。
やはり、自分は、誰とも交わらぬ。誰とも重ならぬ。コンビニのガラスに映った、金髪のメッシュ入りのおかっぱ頭、武骨なリングピアスにダウンジャケット、三本ラインのジャージを穿いた女を見て、そう思った。
不意に視線を感じ、振り返った。何も、おかしなことはない。自分を置き去りにしてゆく、無慈悲な世界が流れてゆくだけだ。コンビニに入り、肉まんと小さなペットボトルの水を買う。
思い付いた通り、公園に向かった。妙なことを考えてしまったせいか、心地よい曇り空のはずの世界に、違和感がある。
公園では、学校の終わった子供が遊んでいた。もう、日が暮れる。そうすれば、彼らは、暖かな食事のある、幸せな家に帰るのだ。そして、母や父に、公園でどんな遊びをしたのか、テレビを見ながら楽しげに報告するのだろう。
しな子の報告と言えば、任務を終えたあとにライナーノーツに提出する、いわばレポートのような
湯気の出なくなった肉まんを一口ずつゆっくりとかじり、食べ終える頃、子供たちは公園から去った。陽が落ち、しな子の時間が来た。闇を照らす標的の燃える炎を見ていれば、火の記憶に戻れるような気がしていた。戻りたいと思っているのかどうかは、分からない。無論、任務のとき以外にその力を不用意に使うことは禁じられていた。
夜の空気が、やってきた。それが、ある気配を運ぶ。しな子は、ベンチから立ち上がった。
「ずっと、わたしを見ているのね」
意外にはっきりとした声で、辺りの暗がりに向かって言った。
「あれ、バレた?」
聞き覚えのある声だった。その記憶が、蘇る。
「しな子、久しぶり」
「――紗和」
もしかしたら、コンビニの前で感じた気配も、紗和であったのか。
「あなたじゃないかと思って、ずっと、見てた」
「久しぶりね」
昔のように無邪気に、喜べない。なにか、おかしい。しな子は、警戒した。コンビニの前からここまで、ずっとしな子を見て尾行するなど、普通ではない。しかも、その姿をしな子に認められずに。
しかし、紗和には、妙な様子はない。冷たい手で、しな子のそれを握ってきた。
「ほんとうに。今までどうしていたの、しな子」
「それは、わたしが聞きたいわ。突然居なくなったりして」
握られた手が、じんわりと暖かくなってきて、しな子は、変な気持ちになってきた。
「お迎えだったんだもの。仕方ないでしょ」
紗和の笑顔は、昔と変わらず、綺麗だった。
「今は、外国にいる。仕事で、久しぶりに東京に帰ってきたの」
「そう。どこに?」
「言えないの。分かるでしょ」
分かるでしょ、という言葉に、しな子は引っ掛かりを感じた。しかし、それとは別に、手から伝わる紗和の熱が、しな子の鼓動を速めた。
「しな子」
紗和の眼も、高揚していた。
「お互い、お酒の飲める歳になったんですもの。ゆっくり、話さない?」
「いいわ」
しな子は、即答した。やはり、何かが妙である。その感覚の正体を、確かめなければならない。何か、紗和が良くないことを企んでいて、その誘いであっても、乗らなければならない。そう思った。
下北沢の若者が集う、お洒落なバーに入った。いつも前を通りかかるだけのくせに、ちょっと背伸びして、いつも来るの。と言った。
紗和の話は、思い出話や、最近の日本の流行の話ばかりで、他愛もないものだった。しな子も、先程の妙な感覚は思い過ごしかと思った。
ずっと、手は握ったまま。バーで二時間ほど過ごし、更にその一時間ほど後には、紗和の宿泊している下北沢駅前のビジネスホテルの一室で、二人は絡み合っていた。
紗和は、何もかも、あの頃のままであった。綺麗な笑顔も、黒く細い髪も、薄い胸に顔を埋めたときの吐息も、その指がもたらす鋭い快感も。一度だけしな子の身体に刻まれたそれを、正確に再現していた。
「あなた、ちっとも変わらないわね」
しな子の上で息の荒くなった紗和が、しな子が考えているのと同じことを言った。しな子の左腕の火傷の跡を撫でていた紗和の細い指が登ってきて、左耳のリングピアスを、少し揺らす。
「まだ、こんなの付けてる。ちっとも、似合わない」
と言い、くすくす笑って、また唇を重ねてきた。それに応えながら、しな子は溶けた。
ひとしきりのことが済むと、二人は裸のままベッドに横たわった。さすがに、眠る気にはなれない。
「久しぶりね、こんなの」
しな子が、下着を身に付けながら言った。
「あら、あなた、彼氏は?」
「いないわ、そんなの」
それを聞いた紗和は、またくすくすと笑った。
「あなた、私しか知らないの」
「悪い?」
「ううん、ちっとも」
眼を細めると、やはり、紗和は天使のようだった。
しな子が、今こうして愛用のジャージを脱ぎ捨てた姿で紗和の前にあるのは恋愛感情のためではない。紗和を前にして、何となく、しな子の身体が、疼いたのだ。それは、火の熱を感じたときに覚えるものに、似ていた。
しな子の去った部屋で、紗和は、スマートフォンを片手に、通話をしていた。
「そちらは、まだ夜になったところね」
流暢な英語である。
「ええ、こっちはもうすぐ日付が変わる」
高そうなライターで、煙草に火を着けた。
「ええ、大丈夫。問題ないわ。全て」
紫がかった煙が、部屋の中で遊んでいる。
「分かった。このまま、続けることにする。大丈夫、ヘマはしない」
しな子は、紗和と久々の関わりを持ちながら、部屋の中を様々に観察していた。何も、妙なことは無かった。紗和がシャワーを浴びている間に、スーツケースの中も素早く調べた。着替えの他には、東京のグルメ本が何冊か入っているだけだった。
一体、何故、紗和はしな子の前に現れたのだろうか。それを考えながら、今夜のことを思い出し、自分の指を紗和の指に見立て、アロマキャンドルの灯りだけの部屋で、また鋭い快感に酔った。
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