丹羽しな子は二度生きる

 赤部に連れられて向かったのは、目黒のスポーツジム。コンビニは深夜になれば閉まるところが多くなっている中、このスポーツジムは依然二十四時間営業で、会員制。よく流行っている。夕方が最も混み合うようで、老若男女、様々な人が汗を流す。しな子がここを初めて訪れたときは午前中ということもあり、客はまばらだった。自動ドアをくぐり、慣れた様子で進んでいく赤部の後ろに続くしな子の手には、プラスチック製のカード。緊張しているのか、汗で濡れている。


「はい、これ」

 コンビニで買った缶コーヒーでも差し出すように、赤部はしな子のマンションの前に停めた煙草臭いアルファロメオの中でそれを渡した。何かと思ってしな子が見ると、運転免許証であった。

「どうして」

 しな子は、教習所に通ったこともなければ、運転席に座ったことすらない。しかし、しな子の手の中にあるそれは、どこからどう見てもちゃんとした運転免許証であった。写真は、施設を出る直前に撮影したものが使われていた。

「ちゃんとした運転免許証として、効力を発揮する。無くすなよ」

 ご丁寧に、AT限定の注意書きまでされている。しな子が戸惑っていると、赤部は、

「ライナーノーツの身分証を一般人に見せても、分からないからな」

 と付け加えた。

「ただし、不用意に車は運転するな。ちゃんと、練習しないと駄目だ」

「練習って、どうやって」

「これから、色々なことを、君は学ぶのさ」

 しな子は、まじまじとその免許証を見た。写真の中のしな子は、無愛想で、つまらなそうな顔をしていた。きっと、これは真実を映す鏡。人から見たしな子も、こんな風に冷めた目をしているのだろう。

「ジムに行くって」

「ああ、これから行く。入会手続きのときに、身分証が必要だからな。自然に、それを見せるんだぞ」

「分かりました」

「おい」

「何か」

「話し方。昨日、言ったろ。砕けた話し方でいい」

「ごめんなさい」

 赤部は、苦笑した。

「さ、行こう」

「赤部さん」

 しな子の、真っ黒な瞳と、マスカラの要らない長い睫毛が、赤部の方を向いた。赤部が、ちょっと変な気分になるほど、しな子の容貌は可愛らしかった。明らかにサイズオーバーな三本ラインのジャージと、白く柔らかそうな耳たぶを飾るには無骨すぎるピアスさえ無ければ、だ。

「どうして、ジムなの。昨日、教えてくれなかった」

「東京トワイライトタウン、分かるだろ」

「ええ」

 東京オリンピックに向けて、新たに開業した、目黒の複合施設。ブランドショップや、ホテルが入った、地下二階、地上十六階建てのビルである。

「その地下二階が、目的のジムなんだ」

 しな子の瞳が、続きを乞うように瞬いた。

「そして、東京トワイライトタウンには、地下三階がある」

 それは、初耳である。

「そこに、ライナーノーツの本拠地がある」

「ライナーノーツって、ほんとうにあるの」

「俺が、なんでそんな出鱈目を言うんだよ。あるに決まってるさ」

「なんだか、現実感が無い」

「ははっ、最初は、そんなもんさ。じきに慣れる」

 やはり、赤部は、時おり、ちょっと切なそうな表情をする。それが何なのか言い当てられるほど、しな子の生に人との交わりは無かった。

「だんだん、あなたのことが、分かってきたかもしれない」

 しな子は、唇の端を上げた。笑っているつもりなのかもしれない。

「ほう、俺のことが?」

「おしゃべりなのに、肝心なことは何も言わない。秘密主義ね」

「そうかな、名探偵さん?」

「そうやって、誤魔化して。わたしは、何も知らないまま、何をすればいいの?ジムに行って、ボディビルダーにでもなる?」

「おいおい、苛つくな。悪かった。ジムの奥のVIPルーム。そこから、地下三階に行ける。ジムの経営元と、俺たちは繋がっている。俺たちは、二度受付を通るんだ」

「007は二度死ぬ、みたいね」

 なんとなく、レンタルDVDで借りたことのある古い映画の名を挙げた。別に面白いともなんとも思わなかったが、そう言えば、赤部は、映画に出てくるスパイのように見えなくもない。その赤部が乾いた笑い声を上げた。

「いや、君は、そこで、新しく生まれ変わるんだ」

「丹羽しな子は二度生きる、ね」

「君が、ジョークを?」

「悪い?」

「いいや、悪くないな。その調子だよ、しな子」

「もう、いいわ。あなたに任せる。煮るなり焼くなり、好きにしてちょうだい、ワトソン君」

「いいね。ちゃんと、やり返したな」

 しな子は、それ以上気の利いた言葉が思い浮かばず、車窓の外を見た。汚れたガラスに、自分のシルエットが映っていた。昼間だから、顔や表情は分からぬが、きっと免許証の写真のように、つまらなそうな顔をしているのだろうと思った。


 一つ目の受付にいるのは、明らかにアルバイトらしき、若い女性だった。

「よう、マリナちゃん」

 赤部は、軽々しくその女性の名を呼んだ。目がぱっちりとしていて、名前は忘れたが、最近よくテレビで見る若くて可愛いグラビアアイドルによく似ていた。

「赤部さん。今日は、早いんですね。お仕事、お休みなんですか」

「ああ、窓際族は、大変さ。退屈で気が滅入りそうだから、君の顔を見て元気を出そうと思ったんだ」

 マリナは、楽しそうに笑った。ほんとうに笑っているのかどうか、しな子には分からない。きっと、マリナにとっての赤部は、いつもVIPルームを使う、暇と金を持て余している常連のサラリーマンなのだろう。

「そちらは?」

 と、しな子の存在に初めて気付いたかのように言った。この類の人間は、いつもしな子のことを同じような眼で見る。まるで、居ないかのように。見たくないものから、眼を背けるように。

「ああ、遂に俺にも春がやってきてね」

「まあ、彼女さん?カワイイ」

 心にもないことを言うものだ、としな子は思った。こんなに感情のこもらぬ言葉が、あるだろうか。

「嘘、嘘。俺の従妹なんだが、この春から、こっちの大学に入学するんで、上京してきたんだ。このジムは居心地がいいから、是非入会させてやろうと思ってね」

「なんだ、びっくりした」

「ちょっと、妬けたろ?」

「ええ、ちょっと、ね」

 世間慣れしているであろうマリナは、貼り付けたような笑顔を浮かべた。それが、受付嬢の顔に戻り、

「ご入会ですね」

 としな子に言った。

「はい、ご入会です」

 自分が入会するときに、ご、はないだろう。としな子は自嘲した。これしきのことで動転している自分が、情けなくなった。握りしめて汗でべとべとになった免許証を、ジャージで拭いて、差し出した。

「では、こちらの用紙にご記入を」

 まだ覚えていない新しいマンションの住所を、免許証を盗み見ながら書いた。電話番号は、施設で支給されたスマートフォンのものを。ほんとうは、CMでやっている、流行のものが持ちたかった。しかし、しな子が持つのは旧式の、どこのメーカーのものかも分からぬものだった。インターネットには厳しい制限がかけられ、必要最低限のものしか閲覧できない。ただでスマートフォンが支給されるなど、ふつうの児童擁護施設などに比べれば考えられないほどの厚遇なのだろうが、しな子にとってのそれは、束縛の象徴だった。


 毎日が、空っぽだった。テレビも、漫画も、映画も、何一つとしてしな子を満たしてはくれなかった。教官も、同じ施設で暮らす仲間も、誰もしな子を欲してはくれなかった。同い年の紗和だけが、しな子を欲した。しな子も、紗和にだけは、心を許した。そして、身体も。しかし、その紗和は、もういない。が来たから、どこに行ったかも、知らない。それっきり、もう会えないのだろう。もう、二度と。

 今さら、新しく何かを得るには、色々なものが足りない。何が足りないのかは、分かっている。しかし、それをどうやって得るのかは、分からない。目の前で、一寸の揺れもない完璧な笑顔を浮かべるマリナと、自分との差は、千尋せんじんの谷よりも深い。

「あの」

 入会用紙が、書きかけで止まっていた。

「太枠の中は、全てご記入下さいね」

「ごめんなさい」

 生年月日を書こうとしたしな子の手が、マリナの一言で、また止まった。

「しな子さん。カワイイ名前ね」

 ああ、としな子は、心の中で嘆息を漏らした。きっと、マリナは、言葉に出来ない微妙な線のものを、全て、そう言うのだろう。ウザい、もキモい、も全て。別にそう言われたわけではないし、マリナがしな子に向けているのは満面の笑み以外の何物でもないのに、しな子は、そこに侮蔑と敵意を感じた。

 二〇〇一年、十月十日。しな子は、そう生年月日を書いた。字の綺麗さには、自信があった。きっと、マリナは、虫が潰れたような、彼女の言葉を借りるならカワイイ文字を書くのだ。こればかりは、真似できまい。としな子は、鼻を鳴らす思いだった。それで、ちょっと気が済んだ。

 ただ単に、人づきあいが苦手なのだ。それで、罪もないマリナを、罪人のようにして見てしまった。侮蔑と敵意を持って接していたのは、自分なのだ。それは、分かっている。そんな自分が恥ずかしいから、つい、マリナのせいにしてしまいたくなったのだ。

「ごめんなさい」

 しな子は、蚊の鳴くような声で言った。

「全然。ゆっくり、書いて下さいね」

 マリナは、しな子が、自分の書くのが遅いことを恥じていると思ったのか、優しい口調で言った。あれ、いい人かもしれない、と思ったしな子は、自分の変わり身の速さを笑った。表情には、出ない。笑うのが、下手なのだ。下手に笑うくらいなら、仏頂面でいい。


 第一の関門は、突破した。次は、VIPルームだ。VIPルームと言うくらいだから、さぞかし高い壁が立ちはだかっているのだろうと思ったら、今度は、赤部は、よう、と受付の物静かな女性に声をかけ、会員証を見せただけで、素通りしてしまった。

 そして、奥の部屋へ。しな子のマンションのエレベーターよりも小さなそれに乗り込み、赤部がボタンを押す。そのドアが再び開くと、目の前には、ちょっとした廊下が広がっていた。

 虹彩認証アイメトリクスでロックされたドアの前に赤部が立ち、名を名乗ると、ドアが開いた。

「ようこそ、ライナーノーツへ」

 赤部が、おどけて差す手の先には、小奇麗なオフィスのような空間。机に座る者が、ちらりとしな子の方を見た。

「ここが」

「そうだ。まず君は、奥の部屋へ」

 通された奥の部屋は、学習塾のように、仕切られた細かな空間に分かれていた。

「これから、一年間、君は、毎日朝九時から夕方六時まで、ここで過ごす。送り迎えは、俺がする。夜は、君の時間だ。だが、勝手なことは出来ない。分かるね」

 監視されるということか。

「一番奥へ。そこが、君の場所だ」


 そこで、しな子が受けたものは、としか呼べぬものだった。昼の十二時から一時の間の休憩、三時から四時の運動の時間を除いて、ずっと、戦争ものの映画や、FPSゲームの実況動画、武道の試合の映像、それに古今東西のあらゆる戦争の資料映像や、詳しい解説ドキュメンタリーを見せられた。スパイものの映画は、しな子が見たことのあるものもあった。ありとあらゆる、映像化、音声化された殺しと戦いが、そこにあった。最初の数日は吐き気がして、実際何回か吐いた。家に帰っても、逃げ出すどころか、眩暈がひどく、起き上がるのも億劫だった。赤部に文句を言おうとしたが、彼がしばしば見せた切ない表情は、このことだったのか、と思うと、内気なしな子は、文句を言うのも申し訳ないような気がして、責められなかった。

 施設で黒服の男に受けた様々な質問は、洗脳をし易いタイプかどうかを、見極めるためだったのだろうか。分からないが、なんとなくそんな気がしてきた。こんなことならば、国家公務員などという甘い響きに流されず、希望通りに大学に進学し、自分の人生を自分で作れるように勉強をすればよかった。しかし、今更後悔をしても、後には引けぬような空気が、肌を刺している。明らかに、普通ではない。もし、逃げ出したりすれば、殺されるかもしれない。そう感じた。

 しかし、不思議なもので、だんだん、気にならなくなってきた。意識が、ぼんやりとしてくる。見せられている映像を見ているのに、何か違うものを見ているような気がする。音も、自分の住む世界とは違う世界のもののような気がする。

 そして、ある日、突然、彼女は、ドアが開くようにして、悟ったのだ。自分は、マッチのようなものなのだと。物心ついたときから持っている、炎を操る不思議な力は、この世の中で、自分のように、空っぽで、何も持たぬ人間が、何かをするために与えられたものなのだと。マッチは、それだけでは発火せぬ。擦られ、初めて、発火する。

 きっと、自分は、意味のあることが、できるのだ。自分のように、与えられたことしかせず、自分で何かを決めることも考えることもせぬような人間でも、できるのだ。

 自分の心を苛む、炎の記憶。それこそが、自分を救い、導く灯りとなるかもしれぬ。

 そう、信じることにした。信じざるを得なかった。


 そのような生活を、一年間続けた。毎日、ジムの受付を通る。マリナがいるときは、こんにちは、と短い挨拶をした。

 その頃には、もう、世の人は、東京オリンピックの熱狂など忘れている。その間に、前髪だけを染めた。今までの自分と、少し違った。しかし、大きくは変わらない。その程度の変化でいい。二十歳になる年にそのを終えたしな子は、ふと、鏡を見た。少しの変化を、期待して。しかし、免許証の写真と変わらぬ、何の感情もない、無愛想で色の白いだけの女が、いるだけだった。

 赤部は、研修を終えた日、しな子に、おめでとう、と、やはり少し切なそうに言った。

 そう言われたとき、自分がどのような表情をしていたか、家に帰ってから、思い出して再現しようとした。

 それはとても難しいことで、上手くはできなかった。


 東京オリンピックだけでなく、しな子の存在も、皆忘れているだろう。

 丹羽しな子は、二度生きる。一年前、自分で言った冗談が、ほんとうになったのかもしれぬ。

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