第一章 東京トワイライトタウン
赤部との出会い
しな子は、毎夜、じゃあ、また。と赤部に短い挨拶をし、アルファロメオのドアを乱暴に閉め、下北沢のマンションの一室に帰る。生まれたのは、どうも東京ではないらしい。生まれたところがどこなのか知らないのだから、東京人、と名乗ってもいいだろう。そういう意味で、しな子もまた東京人、という人種に混じり込んでいた。
どうでもいいことであるが、しな子は、東京の地名の即物的な名付け方が、ちょっと好きだった。北沢、の下だから下北沢。五反田には、田が五反あったのだろう。六本木には木が六本あって、それが人々の目印になっていたのかもしれない。案外起伏の多い街だから、なんとか坂、などという名も多い。それぞれの由来など知らぬが、そんな簡単な想像ができることに、なんとなくおかしみを覚えるのだ。それが、しな子にとっての東京だった。
政府直営の施設で、育った。そこには、しな子のように親のない子供が、何人も暮らしていた。義務教育も受けることができた。高校は、受験無しで、何故か都内の公立の中でも偏差値の高いところに入った。帰る家は施設だった。施設では、また別の教育も行う。冷戦時代のような言葉を使うなら、ESP。もっと分かりやすく言うなら、超能力。超能力とはなんとも安い響きであるからか、彼ら施設の人間は、
しな子が施設で暮らしていたのは、民法上の成人が認められる十八歳まで。ちょうど、東京オリンピックの年だった。その能力を制御する訓練を受けたり、頭になにか大層な機械を取り付けて、能力を発現するときの脳がどのような働きをするのかなどを調べられたりする毎日であった。
その念象力がどのように発現するかは、人によって異なる。同い年の
彼女の中でその力が覚醒したとき、父親からの性的虐待のまさに最中であった。彼女は、毎夜、その時間が来るのを恐れていた。父が自分の名前を呼ぶのを、恐れていた。
その日も、その時間になった。その最中、紗和、と父が鋭く叫んだ瞬間、小学校に入学したての紗和のために父が買った勉強机の上の鋏が、父の頭を貫いた。
そのまま、通報を受け、そして政府に保護されたのだ。
しな子と紗和は、とても仲が良かった。しな子に性のことを教えたのも、紗和であった。高校一年の頃、施設のしな子の部屋で、彼女はそれを知った。理由はない。その日、紗和は何故かとても悲しげだった。いつもの通り、テレビを見ながら、セブンブリッジというトランプの遊びをしていたが、紗和の手から不意にカードがこぼれ、しな子の首に伸びてきた。
あのときの、紗和の柔らかな唇や舌の感触、その細い指が自分に伸びてきて鋭い刺激を与えるのを、しな子はずっと覚えている。求められるままに応え、求めるままに求め、身体が動こうとするままに動き、そのことを知った。
その翌日、紗和は居なくなった。しばしば、入所者が突然消えることがあり、施設では、「お迎えが来た」と言っていた。
紗和とは、それきりである。しかし、高校でもずっと一人で、誰とも交わらず過ごしていたしな子のたった一人の友人で、しな子の知るたった一つの温もりであったのだ。何故、紗和がそのようなことを求めたのか分からない。だが、紗和は、しな子の身体に、鋭い快楽の波と柔らかな温もりを刻んだことは間違いない。
それ以外の温もりは、知らない。自らが起こす、火の熱くらいのものだ。しな子は、習慣的にキャンドルを見つめて火を灯し、その火の僅かな熱を感じながら自慰をして、知ってしまったそれを満たした。
しな子は、火が起こせる。それも、非常に強いものから、赤部の煙草のライター代わりのものまで。しな子にお迎えが来るのが遅かったのは、恐らく、その力が強大だから。使い道がなかったのだろう。
東京オリンピック開会直前の春ということで世の中が浮かれている中、しな子は、この下北沢のマンションに入った。中には最小限の家具、テレビなどが一通り揃っていて、生活に困ることはなかった。
施設の、教官と皆に呼ばれる、彼女らの生活の監督官のような者が言うには、マンションに移り住んだその日、パートナーが迎えに来るということであった。そのパートナーから、仕事についての説明を受けるのだと。
部屋の中で、しな子は、パートナーを待った。テレビを何となくつけたが、昼間のワイドショーか時代劇の再放送しか流れておらず、すぐに消した。音楽でもかけたい、と思い、施設から持ってきた、私物が一式入ったキャリーケースからCDを出そうとして、再生するものがないことに気付き、やめた。施設ではパソコンの使用は限られた時間に授業のようにして教わる以外には認められなかったから、自分のパソコンは無い。部屋に、お洒落なテレビCMで流れているのと同じノート型のものが置かれているが、今から開いて音楽をダウンロードするのも面倒くさい。好きな洋楽のバンドがあって、そのフロントマンがいつも三本ラインのジャージを着ていて、とても格好良いと思ったから、しな子もそれを真似して私服にしていた。しかし、常に聴いていなければ死んでしまう、というほど好きなわけではなく、そもそも特別音楽が好きなわけでもない。
しばらくして、ドアの鍵をごそごそする音がした。どういうわけか、鍵を開けたり閉めたりしているらしい。男が、ドアの向こうで、あれ?あれ?ととぼけた声を上げている。
しな子が、面倒くさそうに立ち上がり、鍵を開けてやると、無精髭を生やした、くたびれたスーツ姿の男が現れた。
「鍵ってさ、回して開けてそのまま抜くやつと、回して開けて、もとの位置に戻してから抜くやつがあるじゃん。統一しといてほしいよな」
第一印象は、おしゃべりな男。
「下のエントランスの鍵は、回しただけで抜けたぜ?なんでこの部屋は、同じ鍵使うのに、戻さないと抜けないんだよ」
「わたしに、言われても」
男は、笑った。
「すまん、すまん。俺は赤部健一郎。あんた、丹羽しな子ちゃんだね」
赤部が、上着の内ポケットから、身分証のようなものを出した。ドラマで見る警察手帳のようだが、違った。
「はい」
「そう、ビビるな。これから、一緒に仕事をするんだ。よろしくな。仲良くしよう」
赤部が、手を差し出してきた。それを、おずおずと握った。なんだか、節くれだって、乾燥してざらざらしていて、ちっとも手触りが良くない。紗和のように白く柔らかな手を何故していないのか、とちょっと腹立たしくなった。しかも、ちょっと汗ばんでいる。乾いているのに濡れているとはどういうことか、と思った。それに、煙草の臭いが凄い。それに露骨に眉を潜めた。
「よし、しな子ちゃん。腹が減った。ここを出て、何か食いに行こう」
「さっき、ここに来る前に、もうお昼を食べました」
「そう。何食ったの?」
「ハンバーガー」
「ははっ、いいね。じゃあ、俺の飯に付き合ってよ。コーヒーでも飲んでりゃいいさ。それに、何か必要なものはない?新生活だ。家具だけじゃ、不便だろ」
「あなたが、買ってくれるの?」
「いや、経費で落ちる」
しな子は、アルバイトもしたことがないから、経費で落ちる、というニュアンスがあまり分からないようであったが、お金のことは気にしなくてもよい、ということだと解釈した。
「CDプレーヤー」
ぽつりと、言った。
「いまどき、CD?音楽が、好きなのか?」
「ええ、少し。あなたは?」
「俺も、大好きさ」
「どんな音楽?」
「そりゃ、ストーンズさ。ジミヘンなんかも、最高だな」
古いロックミュージックである。どちらも、しな子は名前くらいしか知らなかったから、それ以上音楽の話は続かなかった。
「よし、じゃあ、飯食って、電気屋に行こう」
赤部が飯を食うのを眺めながら、しな子は仕事についての説明を受けた。何をするか、全く知らされていなかった。赤部は、ちょっと頭がどうかしているのではないかと思ってしまうようなことを言った。
「この日本は、微妙な力のバランスで成り立っている」
最初、政治経済の話だと思った。それはそうなのだが、どうも違う。
「テレビのニュースで、政界、財界のトップが、っていうの、聞いたことあるだろう」
「はい」
「もっと、砕けた話し方でいい」
しな子は、黙って頷いた。
「俺たちは、政府直轄の特務機関なんだ」
「とくむ?」
「そうだ。俺たちは、政府、いや、内閣に所属している。内閣諜報局特務実行部。通称、ライナーノーツ」
そんなもの、聞いたこともない。しばしば見かける、現実と空想の世界を行き来しながら生きている類いの人間ではないかと疑った。諜報局、とは、スパイ映画のようではないか。そんなものが、ほんとうにこの国にあるのか。
ライナーノーツ、と聞いて、しな子は、洋楽CDに付いている、音楽雑誌の編集者などが書くライナーノートを思い浮かべた。いつもCDに付いてくるのだが、何のためにそれがあるのかは分からない。何となく目を通して、またCDケースの中に戻す。何が書いてあったか、ひとつも覚えていない。
「それで、何をすればいいの」
高校時代、しな子は、そうすることで自らの人生を取り戻せるような気がして、大学進学を希望していた。しかし、教官から、国家公務員にならないかという話が来ている、と持ちかけられた。身寄りのないしな子は、その方が食うに困らぬと思い、承諾した。すると、数日後、物々しい黒服の男共が施設にやって来て、あれこれとしな子に質問をした。なにか、図形の問題なども解いた。なんのテストなのか、説明はなかった。
一通り終わると、男共は、互いに顔を見合わせ、頷いた。
「以上です、丹羽さん。お疲れ様でした」
と言い残し、去った。それだけであった。自分の大学進学の希望を曲げてする仕事である。生活の安定のために選んだわけだから、内容は選ばぬが、やはり、何をするのかは詳しく知りたいものである。できれば、今までの空洞のような人生を、埋めて余りあるものであってほしいと思った。
「なるほど、しな子ちゃんは、確かに、ライナーノーツ向きだな」
赤部は言った。その表情が、なんとも言えない切なそうなものであることに、疑問を感じた。
「どういう意味」
しな子は、アイスコーヒー色が残ったグラスに刺さったままのストローを、また吸った。ぞろぞろと音を立てて、コーヒー味の泡が口の中に入ってくる。
「自分が、ない。人任せにして、生きることができるってことさ」
「わたしを、
「いいや、感じたことを、言ったまでさ。大丈夫。君なら、やっていけるよ」
赤部の説明は、ざっくりとしたものであった。
「これから君は一年間、毎日、ある場所に通ってもらう。そこで、下準備をするんだ」
やはり、ちょっと切なそうな顔で、赤部は言った。
「どこに、通うの」
「目黒の、フィットネスジムさ」
「身体を、鍛えるの」
国家公務員と言っても、肉体労働なのか。しな子は、少しがっかりした。正直、運動は得意ではない。
「身体も鍛える。心も、鍛える。そういうことさ」
赤部からの説明は、それで終わった。帰りに家電量販店に寄り、CDを再生できるものを購入した。赤部の求めた領収書の宛名は、赤部自身のものだった。
マンションの前まで、赤部の車で送ってもらい、降りた。明日、午前九時に迎えに来るという。
エントランスの自動ドアのロックを鍵を回したのちに抜いて解除し、自室のドアは鍵を回してもとの位置に戻し、抜いた。これが、赤部は分からないのだ。ちょっとおかしく思って、口の中で笑った。
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