紅の蓮

増黒 豊

第一部 奪い、取り戻す

はじまりの熱

 その熱に、彼女は浮かされていた。熱は風を呼び、踊る。笑うのがほんとうに下手な女だが、このときばかりは、その楽しげなお囃子に口角を持ち上げ、目を細めるのだ。その白い肌に、橙が、赤が、朱が、紅が、様々に化粧を施している。

 

 彼女の記憶のはじまりは、火。うっすらと浮かぶ、父と母の姿。顔は覚えていない。自動車事故。炎上する車内。そして、父や母が、火に巻かれる姿。そこから、彼女ははじまる。その前、どう過ごしていたかは、覚えていない。

 気付いたとき、明るく、綺麗な部屋に彼女はいた。

「丹羽、しな子ちゃんだね」

 優しい男の声。彼女は、頷いた。

「私は、君を迎えに来たんだ」

 身体中が、痛い。それに、熱い。そして、焦げ臭い。それを知覚した。脇を見ると、寝台の横の花瓶に、黒い棒のようなものが挿さっている。よく見れば、焼け焦げた花だった。臭いのは、それだった。

 痛みは、左腕において最も強い。その手を、優しい声の男は、そっと包んだ。

 このとき、丹羽しな子、五歳。それ以降、彼女は政府直営の施設で育てられることになる。


 男性に比べ、女性の成長は早いものであるが、思春期と世間で呼ばれる年頃になっても、背はあまり伸びなかった。

 身体の線も、細い。今、それが、恍惚に揺れている。火の中へ溶けている。火の中で、彼女は、耳の中に揺蕩たゆたう、そのぜるぱちぱちとしたお囃子を、聴いている。

 その音と光と熱が、なにか、黒い丸太のようなものを生んだ。左手の僅かな疼きも、生んだ。

 とん、とん、たとん。左手の疼きが、お気に入りのスニーカーがアスファルトを踏む音に変わる。


 肩より少し上で切り揃えられた黒髪は、美容師の勧めにより、前髪の部分に金のメッシュが入れられている。

 耳には、男物の太いリングピアス。三本ラインのジャージが描くルーズな皺が、細い肩によく似合う。

 その影が、通りすぎる車のヘッドライトに弄ばれるように、伸びたり縮んだりした。

「しな子。終わったか」

「終わったわ。赤部あかべさん」

 十歳年上の赤部が乗る、ちょっと古いアルファロメオ。車の名前は数字になっていて、しな子は覚えられない。四角っぽいデザインと痩せた赤い色は、好きだった。

「そうか。これで、八幡やわた議員の汚職の露見も、免れるだろう」

 車が古いからか、ドアを閉める音がやたらと大きい。もうちょっと静かに閉めろよ、と赤部がいつも言うのだが、しな子にはその力加減など分からない。

 車内には、煙草の臭いが充満している。赤部が、無精髭を生やした口許からそれを離し、まだ少し中身の残っているコーヒーの缶に放り込んだ。新しい一本を取り出してまた口に咥え、ライターを探し、ジャケットのポケットをごそごそとしている。しな子は、その煙草の先を、じっと見た。

 わずかな煙。

 そして、ぱっと火が咲いた。

「お、済まん」

 赤部は満足そうに最初の一吸いを味わうと、シートに深くもたれかかった。

「議員の汚職が露見するのが免れて、どうして、それが良いことのように、あなたは言うの?」

「この国の均衡を崩すようなことは、国民は知らない方がいいのさ、しな子」

 赤部は愛車をアイドリングさせたまま、皺だらけのジャケットの下のホルスターから三八口径の拳銃を取り出し、安全装置をかけ、再びホルスターに戻した。

「どうする。何か、食うか」

「いらない」

「そう言うな」

 この時間に開いている店など、せいぜい、いつもの安い居酒屋くらいのものだ。しかも、赤部は下戸である。

 手近なコインパーキングまで、車を走らせた。赤部がアクセルを踏んだり緩めたりする度、息をするように、振動がシートに伝わってくる。それも、少し好きだった。


 比喩を用いるならば、彼女は、炎が描くはちすの上に座し、お囃子のような音と拍子を、聴いていた。そういえば、あの幼き事故の日は、どこかの有名な祭りを見に行った帰りだったような気がしていた。

 丹羽しな子、二十三歳。彼女の耳の中に、眼の中に、その身体の芯に残っている幼き日の炎は、今なお彼女を焼き続けている。少しずつ、ゆっくりと。

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