おまけ 義理チョコはいらない

 2月14日 21時。

 何で紙、なんだよ……。

 最精密を誇る最新計器が聞いて呆れる。カードやらチップやら、記録媒体が日々小軽量化しているというこのご時世にだ。全部“専用サイトからダウンロード”にすりゃあいいのに。

 取引先が開催した一日がかりの出張研修を終えた吉崎克弥は、資料と称して持たされたカタログ類の重さにうんざりしながら、勤務先である国立生物学研究所に戻ってきた。研修後、見せるようにと上司から言われていなかったら、途中で放り出してくるところだ。上司にあたる教授はわりと物分かりがいい方だが、デジタルの恩恵を受けたがらないのは困る。

 面倒ではあったが、翌朝の満員電車に持ち込むよりはマシと、職場に寄って帰ることにしたのだった。

「あれ」

 誰か、いるのか?

 克弥のデスクがある淡水魚研究科・観賞魚研究室の窓から灯りがもれている。

 ドアを開けると、同僚の大野進が、一人パソコンに向かっていた。

 しんとした研究室に、キーボードを叩くせわしない音が響く。邪魔する気はなかったが、一応小さな声でただいま、と言ってみた。

「おう、お疲れ~」

 手を止めた大野が、へなへなと振り返った。研修で一日出かけていた自分より、大野の方がよっぽど疲れてるみたいだ。そう言おうと思ったら、

「何か食うもん持ってない?」

 切羽詰まった調子で聞かれた。

「食うもん? ああ、あるよ」

 研修後に取引先からもらった義理チョコだ。気を遣ってくれたのだろうが、実は甘いものはそれほど好きじゃない。

「腹の足しにはなんねえけど」

「いや、いい。全然いい」

 大野は自他共に認める甘党だ。酒も飲むが、甘いもの、特にチョコレートには目がない。

「さんきゅ~。助かった」

 大野が何日も食糧なしで漂流していたみたいな声をあげた。

「全部食っていい?」

 もちろん、と克弥が渡した包みを、威勢良く破ると、大野は2、3粒まとめて口に放り込んだ。あっという間に全部平らげ、恍惚の表情を浮かべたと思ったら、ずいと身を乗り出してきた。

「聞いてくれ吉崎。おれの苦難を」

 哀れっぽい声を上げる。

「いや、苦難なんてもんじゃねえ。拷問だ。拷問」

 本当は、大野が残っていると分かった時点で、克弥は自分の愚痴を――退屈極まりない研修のためにまる一日拘束され、何の苦行だ! と言いたくなるほど紙の束を持たされた――と聞かせるつもりだったのだが、大野の様子から、同僚の“苦難”の方がより深刻だと察し、聞き役に回ることにした。

「今日中にまとめたい論文あってさ」

 大野によると、一日必死でキーボードを叩いていたが、途中、必要な資料のファイルがうまく開かず、結局残業することになった。

 出勤時に買っておいた昼飯を昼過ぎに食べ、夕方には机の中の常備菓子も食い尽くしたが、以降、何も口にしていない。

「買い足そうにも、購買は今週、臨時休業だし」

 研究所の外に買いに出ればいいのだが、一番近いコンビニが、微妙に遠い。寒い中、身を縮めながら駆け足で往復するのと、空腹を我慢するのとどちらにするかでかなり迷う、という距離だ。

「で、結局、腹減らしたまんま書いてたわけだ。もしお前が戻ってこなかったら」

 国生研で餓死者が出たと、翌朝ニュースになるところだった、と笑う。少し気持ちに余裕が出てきたらしい。

「そんなに腹減ってたなら、電話くれりゃよかったのに」

 克弥が言うと、

「お前、絶対直帰すると思ったからさ」

 大野が言う通りだ。資料が少なく軽かったら、わざわざ遠回りして職場に寄ることはなかった。

「で、拷問ってのは?」

 腹が減って辛かったというだけではないだろう、そう思って聞いた。

「よくぞ聞いてくれた!」

 思い出したのか、大野が悔しそうに言った。

「食い物ならあるんだよ。この部屋に。どっさりな」

「は?」

 入口近くに積んであるダンボール箱を顎で差す。

「あれ。全部チョコ」

「チョコ? 3箱とも?」

「そうだ。あとプリンタの上と」

 冷蔵庫にも、と最後の方は声を震わせた。

「チョコレートに囲まれてんのに、食えないって」

 女だらけの水泳大会(全員ビキニ)に放り込まれて、見てるだけなのと同じだぞ! と拳を握り締めた。

「耐えたよ……半日の間」

 なるほど、それは拷問だ。

「おれは自分を売らなかった。おれえらい」

 遠い目をしてつぶやいている。

「分かった。ヤツのか」

 克弥が苦い顔をすると、大野は激しくうなずいた。

 この研究室にもう一人いる同僚、ヤマケンこと山本健司が、2月14日にもらったチョコレートを、親戚にまとめて送りつけるのは恒例行事になってしまった。

 山本は院生時代から、時々ここに出入りしていたから、2、3年くらい前からか。一度、山本が大野に“好物だよな? 良かったらもらってくれ”と大量のチョコレートを提供しようとしたことがある。

 大野の返事は“お前から義理チョコのお下がりもらうくらいなら、一生チョコ断ちしたほうがマシだ!”で、以来、毎年この日の夕方になると、山本は眉間に皺を寄せながら荷造りをする。

「毎年毎年、ほんとすげえな」

 “すげえな”はもちろん、称賛の言葉ではない。アホかふざけんな、という意味だ。今日が出張じゃなかったら、本人に直接言ってやったのに。

「おれは、毎日最低3回は野郎のことを殺したいと思うんだが」

 大野が言った。

「オレも」

「この2月14日については、20回は殺意を抱くね」

「オレもだ」

 気が合うなあ、と二人で笑った。

「ほんと迷惑なヤツだよな」

 この場にいない人間の陰口をきくのは、褒められたことじゃないが、大野と自分にはこれくらい許される。

 妖しげなフェロモンを年中放出しているヤマケンは異常の極みだが、奴と数十秒話しただけで、倒れたり座り込んだりする女たちもどうかしている。ヤマケン本人が介抱すると、さらに状況が悪化するので、克弥か大野が引き受けるしかない。今まで一体何人の面倒を見てきたことか。

 おかげでこの研究室に女性の営業担当者を当てる出入り業者はなくなってしまった。これ以上の迷惑があるだろうか。

「だいたい、送りつけられる親戚だって困るよな」

 “叔父さん一家があまりに気の毒だ”と大野は言ってやったらしい。

「そしたら“みんな甘党だし、600が900に増えたところで大差ない”だってよ」

「何だ、その数字」

 何で単位が100なんだよ。

「まさか、あいつの親戚、野郎みたいな顔したのがうじゃうじゃいるのか?」

「やめてくれ、考えたくもねえよ」

 どんな顔をしているかは知らないが、親戚には頭が上がらないらしい、と大野は言った。

「へえ」

 俺は木の股から産まれ、以来誰の世話にもなってない、みたいな涼しい顔で生きているあのヤマケンにも、そんな存在があるとは。

「今年は、さすがに電話で謝ってたな」

 何か買ってやるとか、作ってやるとか、いくつも引き取り条件を提示していたらしい。

「相手、女の子っぽかったぜ」

 “みはる、頼む”と電話しながら、拝むようにしている山本は見ものだったそうだ。

「で、ヤツはどうした? 帰ったのか」

「ああ。定時になったら飛び出してったよ」

 なんて奴だ。飢えに震える手で論文に取り組む同僚を、見捨てて帰るとは! (と言っても、自分なら終業後、大野のために離れたコンビニまで往復してやったかと聞かれると、かなり自信がない)

 大野によると、ヤマケンは今日一日そわそわしていたらしい。

「ふうん」

「あいつ、どうしちゃったんだろうな」

 大野が何を言いたいか、克弥には分かった。

 ここ半年の山本は、精神状態がひどく不安定なのだ。

 これまではあまり感情を表に出すタイプではなかったが、昨年の9月頃だったか、突然上機嫌になった。女遊びが過ぎてとうとう妙な病が脳にきたかと、克弥は大野と二人で面白がったものだ。それから半月ほどすると、反動からか今度は枯れ果て生ける屍と化した。さすがにこの時は、克弥ですら病院に行けと勧めた。本人が問題ないと言い張るので放っていたら、徐々に回復し、年末頃には落ち着いた。

「最近はどっちかって言うと、浮かれ気味だな」

 克弥が言うと、大野がうなずいた。

「ちょっと前に、後頭部打ったとか言ってたろ。浮かれてんのはそれからだ」

 大野は一度チョコ詰めダンボールの方を見た後、ふん、と鼻を鳴らした。

「まあ、前に比べたら、あいつ、ちょっとはマシになったよ」

 同感だ。少なくとも“誰の世話にもなってない”みたいなツラをすることはなくなった。

「頭の打ち所が良かったんだな」

 ついでに色男顔もぐちゃっと潰れれば、もっと良かったのだが。大野にそう言うと、

「ああ。その方が、ヤツのためになる」

 とまたダンボールを見て言い、深くため息をついた。

「呪ってやりたいよ。2月中旬のこの日を特別な日にした奴を」

 まったくだ。もうガキではないし、チョコなんかどうでもいいが、業界の容赦ない販売戦略に煽られて、誰かにあげないと、もらわないと、みたいに思わされているのが悔しい。

「大野」

「ん?」

「まだ、だいぶかかりそうか?」

 パソコンを指して尋ねると、大野は首を横に振った。後は参考文献のリストを入力するだけだと言う。

「ラーメンでも食いに行かねえ? 飲みでもいいけど」

「お、いいねえ」

「で、合コンの計画立てる」

 来年はお互い大本命を1個、手に入れようと言うと、大野の顔が輝いた。

「300の義理より、本命1個の方がどれだけ価値があるか」

「ああ、野郎に教えてやろうぜ」

 ――野郎こと金魚博士ヤマケンが同時刻、某所で初めての彼女にもらった本命チョコを抱えて、喜びにうち震えていた――と国生研の“大吉コンビ”が知るのは、それから少し後のお話。


* * *


【おまけのおまけ】

 いいかげんにしてよ、もう! 

 いくつあるって? 300個? もうちょっと減らせないの? それでも250?

 そんなに要らないよ。うち去年600くらいあったんだよ。お兄ちゃんなんか、毎年増えてきてるんだから。もうホントやだ。

 自分で食べればいいじゃん。そんなに賞味期限短くないって。次のバレンタインまでには食べきれるんじゃない? たぶん。

 お詫び? 当たり前じゃん。チェリーパイと何? ナッツのタルト?

 うーん、嬉しいけど甘いもののこと、いま考えたくない。

 じゃあね。焼鳥丼がいい。うんと、いいお肉使ってるやつ。天丼でもいいよ。

 貴美子さんからはもらったの? へえ、今日会うんだ。ご馳走してくれるって? ふうん。いいな。初めての本命チョコ、もらえるといいね。

 わたし? もう2月はチョコ地獄ってインプットされてるからさ、誰にあげるとか考えらんないよ。わたしにずっと彼氏ができなかったら、お父さんとお兄ちゃんとけん兄のせいだからね。ほんと恨むからね。

 パイとタルトと焼鳥丼のこと忘れないでよ。特上天丼も。じゃあね。バイバーイ。

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Dragon-Jack Co. スパイより愛を込めて 千葉 琉 @kingyohakase

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