第3章 張り込み
ゆかりは“見張る”と言ったが、張り込みに最適な席が都合よく空いているだろうか。
そんな心配をしていたら、案内係から“一階は満席になりまして”といきなり詫びが入った。
「あの、上はだめですか?」
浩子は斜め上を指差しながら小声で言ってみた。この店には中二階がある。
「グループでご利用のお客様がいらっしゃいますが」
それでよろしければ、という案内係の言葉に二人で強くうなずき、浩子たちは中二階に通された。浩子たちが忘年会をしたのもここで、今日も十人ほどの客が楽しそうにしている。
幸いにも、いくつか用意されている二人席は中二階の端に位置しており、一階の客席のほとんどが見下ろせた。
「会話は聞こえないけど、ここなら」
ゆかりの言葉に浩子はうなずいた。見張りにはもってこいだ。それに、観葉植物の間から顔を出して呼びかけでもしない限り、自分たちが下の客の目に留まることはないだろう。
貴美子はおそらく席を予約しておいたのだろう。健司と奥の席に納まっている。手前に座っている健司の顔は見えないが、二人の様子をうかがうには充分だ。
二人は、ちょうど注文を終えたところのようで、ウエイターがメニューを手に立ち去るのが見えた。
「はは。みんな見惚れてる」
ゆかりが指差す方を見ると、貴美子同様、壁側に座った女性たちから、健司に向けて一斉に視線が放たれているのが分かった。デート中でしょうに。連れの男性には気の毒なことだ。
だが、これまた探偵側には好都合な状況だ。数ある熱視線の中に、一つ“監視の目”が混じっていても気にならないだろう。
浩子がそんなことを考えていると、
「あ」
ゆかりが妙な声を出した。
「どうしたの」
「灰皿がない~」
確か、この店は全席禁煙のはずだ。
「諦めなさい」
浩子が言うと、ゆかりは大げさに肩を落としてうなずいた。
「ホント、いろいろ最悪」
ゆかりは“昨今の飲食店における分煙・禁煙対策”が、貴美子と健司の責任であるかのように、苛立ちを込めた目を二人に向けた。が、すぐに穏やかな表情を見せた。
「何だか、楽しそうですね」
「ほんとだ」
水入りのグラスを前に、二人とも相変わらず緊張しているように見えるが――健司が何か言い、貴美子が微笑んだ。こちらが気恥ずかしくなるくらい初々しい。
「初デート、に見えなくもないわね」
貴美子について言えば、本当に“初めてのデート”なのではないか。ふと思った。
「さすが健ちゃん。すごい演技力」
演技なのかなあ。ちょっと切なくなった。
共同研究が始まってすぐに、健司と一緒に食事をする機会があった。その時、欠席した貴美子についても少し話題に上ったが、貴美子が金魚をたくさん飼っていることを知った健司は、端正な顔を輝かせた。
“一緒に、金魚について語り合いたいな”
まるで生涯の夢でも語るかのような口ぶりと、健司自身、金魚が大好きで研究の道に進んだ、というのを意外に思ったのを覚えている。
あの時も演技をしていたのだろうか。ゆかりの予想が当たっているとすれば、健司は半年前のその時から、貴美子に狙いをつけていたことになる。
考えていたら、水とメニューが届いた。
「センパイ、あたしたちも何かおいしいの食べましょう」
「そうね」
「たぶん、デザートまでブツは出ませんよ」
のん気に言ってメニューを広げたゆかりが、え? と眉間に皺を寄せた。
「言いそびれたけど、ここちょっと高いのよ」
「あれ、会社の忘年会で使った、って――」
「忘年会はキャンペーン価格だったの」
だから夫の誕生日で再度来た時は、浩子も少し焦った。
「何それ~!」
ゆかりがテーブルに突っ伏したと思ったら、ずいと顔を上げた。
「センパイ、とりあえず払っといてください」
「え、そんなに持ち合わせないんだけど」
「カードないですか?」
「あるけど、あんた自分のは?」
「だめです」
「なんでよ」
「限度額いっちゃった」
「また? いいかげんに――」
思わず声が大きくなってしまった。貴美子や健司を含め、何人かが見上げてきたので急いでテーブルに伏せた。
「後で、しっかり請求するからね!」
* * *
尾行対象者よりも早く食べ終わるように、と考えた結果、浩子とゆかりは一番シンプルな、前菜とパスタ、デザートのセットを頼んだ。
貴美子たちに供される料理を見る限りでは、おそらく自分が夫の誕生日祝いに頼んだのと同じコースのようだ。メインディッシュを魚か肉かで一品選ぶ、店の名前がついたコース。
「いいなあ」
ゆかりが(半ばやけになって、デカンタで頼んだハウスワインを飲みながら)、貴美子たちの方を見てつぶやいた。
たぶん、あっちの方が豪華でおいしそう、という意味で言ったのではない。ゆかりも浩子と同じ気持ちなのだろう。
ワインのテイスティングに始まり、前菜、スープ、メインと進んできたが、“不可解なカップル”は、緊張感を漂わせつつも実に幸せそうなのだ。貴美子は穏やかな笑みを絶やさないし、健司の身振り手振りからもいかに目の前の食事が美味しいか、今この瞬間が充実しているかが伝わってくる。
それに――ゆかりには言わなかったが――貴美子が“めろんめろん”でないことが、浩子には嬉しかった。うつむきがちだった貴美子が顔を上げ、後光が射しそうな二枚目と対等に話をしている(ように見える)。
書店で二人を見かけた時は、あまりにつり合わないと不審に思ったが、もしかしたら、共同開発の後、二人が研究者として意気投合するようなきっかけがあったのではないか。いや、今の二人を客観的に見るなら、本物の恋愛感情が育っていると言ってもおかしくない――そんな風に思えてきた。
その時だった。
コーヒー(たぶん)を一口飲み、カップを下ろした貴美子が、脇に置いたバッグから何か取り出した。
「きた!」
A4程度の封筒のようだ。よく見かける茶封筒で、会社の備品ではない。それが色鮮やかなデザートの上にそろそろと差し出され、健司の手に渡る。
健司が封筒から書類らしきものを引き出して確認するのが見えた。満足そうにうなずいた後、封筒を掲げて一礼した健司に対し、貴美子はなぜか申し訳なさそうにしている。
「出ましたね」
ゆかりの声に、浩子は二人から目を離さずにうなずいた。信じられないし、信じたくない。
さらに貴美子は、小柄な身を一層縮めてうつむくと、意を決したように再び何か取り出した。ハンドバッグより小ぶりの、白い紙袋だ。
貴美子が何か言いながらそれを差し出すと、健司が少し驚いたような素振りを見せた。左手で胸を押さえている。演技かどうかはともかく、思いもよらなかったということらしい。
健司の手に紙袋を託すと、貴美子はそそくさと立ち上がった。バッグと勘定書きのホルダーを手にしている。コートは置いたままなので、浩子は、貴美子が会計に向かったとふんだ。
「へえ。まちさんが、払うんだ」
貢いでんのかな、とゆかりがつぶやいた。
「そうじゃないと思う」
今日は女性から男性にプレゼントを贈るバレンタインデーなのだから、不思議はない。
「一年中男に驕らせて平気なあんたとは、違うのよ」
ずばり言ってやったが、ゆかりは健司に意識を移していて、聞いていなかったようだ。
一人残された健司は、紙袋に手をかけたまま動かない。しばらくそうしていたが、やがて、中をのぞき込むようにした後、ゆっくりと何かを引き上げた。
「――!」
健司の肩がびくりと動くのと同時に、浩子とゆかりも息を飲んだ。戻ってきた貴美子が慌てたように手を突き出している。次に手を合わせて何か訴え始めた。健司が詫びるような仕草をした後、急いで紙袋をテーブルから下ろす。
「見ました!?」
ゆかりが浩子に強い視線を送ってきた。
「ええ、見えたわ」
健司が袋から取り出したのは、箱――黒い立方体の箱だった。
* * *
「これから、どうします?」
店員に頼んで、浩子がテーブルでカード払いのサインを済ませると、ゆかりが階下を指差した。“容疑者”二人は、まもなくデザート皿が空になろうかというところだ。
「いきなり二人を追及するのは、うまくないと思うの」
「ですね」
実のところ、今でも浩子は貴美子が進んで機密漏洩に関わっているとは思えなかった。ゆかりが言っていたように、本人はあまり重要と思っていない何かを、貸すなり見せるなりしているだけ――無理にでもそう思いたかった。
「二人が別れた後、山本君に話を聞きましょ」
* * *
貴美子と健司は、来た道を戻らずに、隣の駅の方へ歩き始めた。会社の最寄駅より、複数の路線が乗り入れているこちらの駅の方が、貴美子はもちろん、健司も帰りやすいからだろう。
「もう、別の店に入ったりしませんよね」
「たぶん、ね」
まもなく午後9時になるが、以前、貴美子から通勤に片道2時間以上かかると聞いたことがある。今日は週末でもないから、このまま、駅で別れるのではないかと思う。
予想通り、駅までやってきた。貴美子が先に立ち去ってくれればいいが、と思いながら見守っていると、二人は貴美子が乗る路線の改札近くで足を止め、向かい合った。
数分間――“寒い~もう帰りたい~”と足踏みを始めたゆかりが、焦れて“タバコ吸ってきていいですか?”と言い出すまで――二人はぼつりぼつりと話をしていた。
「待って、もう行くみたい」
貴美子が頭を下げて小さく手を振りながら、改札に向かった。健司も手を振り返している。
先ほどの店や尾行中と違い、構内に身を潜めるところはいろいろある。浩子とゆかりはそっと、健司の横顔が見える位置に移動した。
口元に微笑みを浮かべ、頬の辺りで小さく手を振って、止める。そんな別れ際の仕草が何度か繰り返された。
そして、健司はゆっくりと手を下ろした。おそらく貴美子の姿が見えなくなったのだろう。端正な顔から微笑が消えた。
「“やれやれ、だぜ”」
ゆかりが代弁するかのようにつぶやいた。
「“こっちも引き上げるか”」
だが、健司は動かない。今まで見送っていた方に視線を投じたまま、立ち尽くしている。
あれ。“もらうものもらったら、終わり”じゃないの?
それに、彼はなぜ、あんなに辛そうな顔をしているんだろう。見ているうちに浩子まで泣きたいような切ない気分になってきた。あれに似た表情を最近どこかで見た――テレビのドラマだ。手術室に運ばれるヒロインを見送る恋人の顔。
ひょっとしたら――。
「ねえ」
浩子が言いかけた時、ゆかりが駆け出した。
「健、ちゃん、タイホ~!」
「待ちなさい!」
私たち、間違ってるかもしれない。
「早まらないで!」
浩子は必死で声を上げたが、ゆかりが“容疑者”の腕をつかむ方が早かった。
「山本健司。スパイ容疑で逮捕します!」
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