第2章 追跡
昨年9月から10月までの2か月間、マーケティング部の浩子とゆかり、研究開発部から貴美子ともう一人の研究員、計四名のペトラ社女性社員は、鑑賞魚用の水質保全薬を共同開発するため、国立生物学研究所に出向した。
研究現場で、マーケティング部の自分とゆかりがさして役に立つとも思えなかった浩子だったが、結果的に、製品デザインの検討や販促活動をするのに国生研での体験は大いに役に立った。“国生研と共同開発しました!”のうたい文句が製品パッケージにでかでかと載っている“AQUA Care”は、当初予想を大幅に超えて、順調に売り上げを伸ばしている。
幸い、健司をはじめとする国生研の男性研究員は、三人とも気さくな連中だった。開発メンバー七人全員、年齢が近いということもあり、まるで同好会のような雰囲気の中、浩子やゆかりは、出向中の2か月間をすこぶる楽しく過ごしたのだった。
* * *
貴美子と健司は駅の入口までやってきたが、電車には乗らず、線路と並行して走る大通りをさらに歩くことにしたようだ。
会話が聞き取れるほど近づくのは危険なので、見失わない程度の距離を保ちながら、浩子とゆかりは二人を追った。
予報では雪がちらつくと聞いていたが、それほど寒く感じないのは、突如降ってわいた“事件”に多少、いやかなり興奮しているからだろうか。
それにしても、すごい身長差。
確か健司は身長187センチだ(夫と同じくらいだと思ったので、出向初日に本人に聞いた)。150センチに満たない貴美子とは40センチ近く差があることになる。立ったまま長話をしたら、どちらも首が痛くなりそうだ。
個人的に背高男と小柄な女という組み合わせは好きなので、並んで歩く姿を見ると微笑ましく思えるが、こうして二人の背中を睨んでいても、その関係がつかめない。
「センパイ」
「なに?」
「あの二人、どう思います?」
自分も今、聞こうと思っていたところだ。
「それがさ。分からないのよね」
そもそも貴美子は共同開発の間中、健司を避けていたのではなかったか。浩子が疑問を口にすると、ゆかりはうなずいた。
「まちさんは“そんなつもりない”って言ってましたけどね」
それが貴美子の本心でないことは、わりと鈍い浩子が見ても分かった。健司は他の二人の研究員と違って、控えめな貴美子を努めて気にかけていたようだったが、そのたびに貴美子は頑なになっていった。
ただ、自分が貴美子であれば、同じような態度を取ったと思う。
“でめきん”こと町田貴美子は、男から見た自分が、女としては“問題外”“対象外”の存在であることを――おそらく少女の頃から、自覚している。視線を合わせただけで腰が抜けてしまいそうな二枚目に優しくされたら、まずは気後れするだろう。自分の容姿に強いコンプレックスがある分、何でもない健司の行動に裏があると不審に思うかもしれない。
そんな貴美子が健司と待ち合わせをし、連れ立って歩いている。まずはそこが不可解だ。
今日がバレンタインデーというのも気になる。そうでなかったら、浩子もこんなに悩まないのだが――。
浩子は、尾行の対象が二人になってから、やけに真面目な顔をしている後輩に呼びかけた。
「さっき、まちさん変えたの、男だって言ったわよね」
ゆかりがうなずく。
「山本君がその“男”ってこと?」
浩子の問いに、ゆかりはきらびやかな爪を額に当てて唸っていたが、やがて言った。
「まあ、見かけがかなりマシになったのは、健ちゃんのおかげかも」
恋は女に魔法をかけるからと、“魔性のゆかりん”らしからぬ、夢あるセリフが飛び出した。
「あのさ、もしかして付き合ってる、なんてことは――」
「ないです。絶対」
一刀両断だ。
「健ちゃん、あたしのこと要らないって言ったんですよ?」
「そうだったわね」
“ゆかりん”が“でめきん”に負けるなんてあり得ない、と言いたいらしい。
ゆかりによると、自分から頼むなんて滅多になく(なんと“人生の記念に一晩だけでも”と率直に頼んだという)、まして断られたのは、健司が初めてなのだそうだ。その後、健司がみるみるやつれていったので、“お断り”されたのは、何か大病でも患っているからに違いないと、出向中、ゆかりが力説していたのを思い出した。
「だいたい、あれがそんな風に見えます?」
そうなのだ。書店を出てから、健司が車道側に回ったところまではよかったが、並んで歩く二人の間には絶妙な距離がある。さらに彼らの背中に漂う緊張感。こっちの肩が凝ってしまいそうだ。確か書店での会話も、お互い丁寧な言葉遣いだったような――。
浩子が推すに、バレンタインデーの夜に会うほど親密な関係ではない。でも、貴美子は明らかに変わった。浩子はすっきりしない感じを覚えつつ、ゆかりに言ってみた。
「まちさんの、片想い?」
「でしょうね」
「でも、彼女あんなに嫌ってたのに」
「センパイ。謎が解けました」
ゆかりがきっぱりと言い、前の二人に銃でも向けるかのように指を突き出した。一瞬、“犯人はお前だ!”と叫ぶのではないかと、焦ってしまった。
「健ちゃんが、まちさんに近づいたんですよ。そして」
“落とした”と、まるで殺したかのような口振りでゆかりは言った。
「落とした?」
さすがにそれはないような……。それに、ゆかりが一番考えたくない線ではないのか。浩子が黙っていると、ゆかりが続けた。
「仕方なく、でめきん口説かなきゃなんないわけがあったんですよ」
「わけって?」
「産業スパイ」
「さんぎょー、うわい!?」
今度は浩子が口を塞がれる番だった。
慌てて前の様子をうかがったが、幸いこちらの騒ぎは彼らの耳に届かなかったようだ。
「どういうことよ?」
「彼、海外の研究所とかのおいしい話いくつも蹴って、国生研にいるんですよね」
そういえば、他の研究員がそんな話をしていた。
「実は、どこかスゴイとこの回し者かもしれませんよ」
ゆかりが言うのも分かる。本業の“金魚の研究者”より“国内外を飛び回る諜報員”の方が健司には合う。うまく言えないが、彼にはどことなく“堅気”ではない雰囲気がある。
「まちさんて、研究員としては“できる”んですよね」
浩子はうなずいた。本人が控えめ過ぎてあまり話題にならないが、社の研究部門で一目置かれていると聞いたことがある。同期入社の仲間として、浩子は内心誇らしく思っていた。
確かに、国生研に出向したぺトラ女性社員の中で狙いをつけるとすれば、より重要な研究に関わっていそうな貴美子だろうが……。
「共同開発の時、健ちゃん元気なかったでしょ」
それは任務の対象である貴美子が、健司を避け続けていたからだ、とゆかりが自説を披露した。
「で、出向が終わったら、今度はまちさんがおかしくなった」
健司は苦心の末、貴美子に近づくことに成功し、機密漏洩に協力するよう要求した。愛と仕事のはざまに立たされた貴美子は困り果て、その結果が、あの憔悴ぶり、というわけだ。
「つじつま、合うでしょ?」
「そうかなあ」
彼らがそれぞれ苦しんでいた時期とは一致するが、貴美子はともかく、任務が遂行できない焦りを、スパイがああも分かりやすく表に出すものだろうか。
「産業スパイじゃないとしたら、お金ですかねえ」
町田家の資産目的で、と浩子より、ゆかりの方がよほどミステリかぶれしている。
「資産って、まちさんの家、そんなにお金持ちなの?」
知らなかった。確か父親は生物教師で、今は高校の校長をしていると聞いたが。
「いや、ちょっと言ってみただけです。やっぱりスパイがいいな」
ゆかりが笑った。
「とか言って、そんなたいした機密がぺトラにあるとは思えませんけどね」
「ううん。そんなことないわよ」
それについては反論できる。終わったばかりのプロジェクト。
「あれって、海水をどうこう、って研究じゃなかった?」
詳しくは知らないが、誰かが話していた気がする。
「さあ」
ゆかりは首を傾げてから、何か思い出したのか、苦笑した。
「試験管入れる箱が、可愛いんですよね」
報告会の準備をしている開発部員が持っていた“サイコロみたいな黒い箱”が、自分が使っている化粧品の外装箱にそっくりだったのだと言う。
「うちが関わってるなら、社割で買えるかな、って聞いちゃって。恥ずかしかった」
魔性の女もお得な話には弱いらしい。今度社員の誰かが、ゆかりに惑わされそうになっていたら、この話をしてやろう。
「あれって、スパイが欲しがるほどの研究なんですか」
「かもよ」
少なくとも競合社は関心があるだろうし、想像をたくましくすれば、某国の諜報機関が動く可能性もある。要は使い道なのだ。
「石油の次は水、って話もあるからね」
「何がです?」
「戦争のタネ」
「わ、話が大きくなってる!」
ゆかりが笑った。スパイなんて言いだしたのはどっちよ。浩子は思ったが、黙っていた。話を戻そう。
「私は、まちさんがぺトラの機密を外に出してるとは思えないな」
思えないというより思いたくない。貴美子とは、普段それほど親しくしているわけではないが、誠実で信頼できる人物だと思う。貴美子がもう少し自分を過小評価するのをやめたら、見た目の印象や人付き合いの仕方も随分変わるだろうに、とお節介とは思いつつ、ずっともったいなく感じていた。
「あたしも、です」
ゆかりが言った。
「ただ、まちさんにそのつもりはなくても、ちょっと資料見せて~とか、貸して~とか言われたら?」
ゆかりがお願い言葉を口にすると、すごくしっくりくる。
「まちさんは、そんな(あんたと違って)アホじゃないわよ」
「分かってますよ」
そんじょそこらのスパイには無理でしょう! 小声ながら強い口調だ。
「でも、健ちゃんならやれます」
今度は嬉しそうだ。
「きっとあっという間に、めろんめろんにされて、重要機密もココロも」
カラダも奪われちゃう! 魔性のゆかりんが悶え始めた。
「まあ、でめちゃんは心まで、かな」
「なにバカなこと言ってんの」
「あーあ。あたしも何かの研究やってたらよかった」
ゆかりが肩を落とした。
「ぺトラ上層部の情報じゃ、だめですかね」
「え? 何かデータ持ってるの?」
ゆかりはうなずき、しかつめらしい顔をして言った。
「ヅラ率は、かなり正確ですよ」
* * *
ゆかりの推理では、どこかで貴美子が健司に資料なりサンプルなりを手渡すはずだと言う。今のところ、それらしい動きはない。貴美子がバッグ以外に提げている紙袋、あの中に“ブツ”が入っているのだろうか。
「どこまで歩くんですかね」
電車に乗らなかったということは、この近くで受け渡しをすると思われるが、もう少し歩けば隣の駅というところだ。勤務先の近くであることに変わりはない。
「危険よね。どういうつもりかしら」
「ええ。やっぱりまちさんの方は、ヤバいことしてるって自覚ないのかも」
ぜひそうあってほしいものだ。
「まあ、健ちゃんとしては、どこでもいいからもらうものもらって、さっさと帰りたいでしょうけど」
お茶かご飯ぐらいは付き合うかもしれませんね、と言われて思い出した。
「あのお店かも」
同期の女性だけで忘年会をした時に使ったイタリアンレストランだ。味も店の雰囲気も良かったと、欠席した貴美子に浩子が話したのを覚えていたのか、少し前に、貴美子に場所と店名を聞かれたのを思い出した。
「気に入ったから、こないだのダンナの誕生日も、そこにしたって話したのよね」
その時は、“まちさんは誰と行くんだろ”という素朴な疑問が頭の隅をよぎったのだが、すっかり忘れていた。あれは、ヤマケンを誘うつもりで聞いてきたのか。
だとしたら、まもなく目的地だ。と思ったら、貴美子が何か指し示すのが見えた。間違いない。あの店だ。
二人が入店するのを確認すると、浩子とゆかりは店の入口に小走りで近づいた。傍にあった英会話学校の看板に身を隠す。
「どうするつもり?」
「もちろん、見張るんですよ」
ゆかりはあっさり言った。
“やめときなさい。ロクなことにならないわよ”
浩子の中で声がした。
“やめちゃだめ。会社の機密が外部に流されるかもしれないって時に”。
別の浩子が煽る。
“このまま帰ったら、南野ファン失格よ!”
うーん。確かにハッタリ探偵ハットリ君なら、この状況、絶対退かない。
「見張るって、中で?」
「当たり前じゃないですか」
寒空の下、張り込みをするわけではないらしい。
「メニュー見てる間に、入りましょう」
ゆかりは颯爽と――ここけっこう高いわよ! ――と浩子が忠告する間もなく、ドアに向かった。
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