Dragon-Jack Co. スパイより愛を込めて

千葉 琉

第1章 目撃

「待ちなさい!」

 私たち、間違ってるかもしれない。

「早まらないで!」

 浩子は必死で声を上げたが、後輩が“容疑者”の腕を掴む方が早かった。

「山本健司。スパイ容疑で逮捕します!」


* * *


 ――3時間前。

 一応、新婚なんだけどなあ。

 今さらイベントでもないけど、わざわざバレンタインデーの夜に試合やらなくてもいいのに。夫とそのバスケット仲間に内心文句を言いながら、浩子が会社のロッカーからコートを取り出していると、篠田ゆかりがロッカールームに駆け込んできた。

「浩子センパイ!」

 室内には浩子以外いないのに、ゆかりは辺りをうかがうようにさっと視線をめぐらせると、囁きかけてきた。

「まちさんが、メイク直してましたよ!」

「へえ」

 気のない浩子の返事に、ゆかりは話が通じていないと思ったらしい。同じセリフをさらに声をひそめて繰り返した。

「別にいいじゃない」

 帰宅前に化粧を直すくらい。

「いや、絶対変でしょ」

 ゆかりによると、町田貴美子は軽く化粧を直した後、深呼吸しながら、自分を奮い立たせるかのように、鏡を見返していたのだと言う。

「まちさんが?」

 浩子もそれはちょっと意外に思った。

「デート、ですかね?」

 ゆかりは完全に面白がっている。まさか、と言いかけたが、さすがに失礼だと思い、浩子は口をつぐんだ。

 確かに最近、町田貴美子は変わった。地味なのは相変わらずだが、以前のようにうつむいて縮こまっているような感じがなくなった。

 今年に入って、金魚の尻尾のように束ねられていた髪が解放され、肩にふわりとかかるくらいに切り揃えられた。色も少し明るくしたようだ。眼鏡のフレームは黒ぶちからピンクがかった金属に変わった。最近は時々コンタクトにもしている。服の色味やコーディネートもずいぶん変わった。 

 大胆なイメージチェンジは、このところ重要な仕事や研究を任されることが増えて、自信がついたせいかと思っていたが。

尾行けましょう!」

「何言ってんのよ、やめなさいよ」

 浩子は一蹴したが、

「センパイだって気になるでしょ? “でめきん”の男、がどんなのか」

「そりゃ、気にはなるけど……」

「耕介さん、今晩試合でしたよね」

 どうせヒマなら付き合ってくださいよ、ときた。

「あんたはどうなの? これから予定あるんでしょうに」

 ゆかりに、本命は決まったのかと言ってやった。今朝、このロッカールームで顔を合わせた時は、“本命チョコ”の候補(一番豪華なお返しをくれそうな男)を数人の中から検討していた。

「そんなの、もうどうでもいいです」

 でめきん尾行けた方が絶対面白いもん、とゆかりはきっぱり言った。

「面白いって、あんたねえ」

「行きましょう」

 あっけに取られている浩子を尻目に、ゆかりは恐るべき速さでコートを着込んだ。

「早くしないと、逃げられちゃう」

 ゆかりがこんなに真剣な顔するの、久しぶりに見たな、とぼんやり思いながら、浩子はゆかりに引きずられるようにして、ロッカールームを後にした。


* * *


 貴美子が化粧室を出て、下りエレベーターに乗り込むのを確認すると、浩子とゆかりは別のエレベーターで一階に下りた。

 このまままっすぐ駅に向かうなら、尾行しやすい。

 とは言っても、会社の近くは駅周辺に比べると灯りが少なく、黒っぽいコートに身を包んだ小柄な姿を、うっかりすると見失ってしまいそうだ。

「まちさん、ずいぶん変わりましたよね」

「そうね」

「こないだまで、死にそうだったけど」

 浩子はうなずいた。年末から、年が明けてしばらくの間、町田貴美子はひどく憔悴していた。貴美子とほとんど接点(というより興味)がなさそうなゆかりが、訝しがるほどに。

 過労というよりは、何か悩みを抱えているように見えた。“何でもないの”と弱々しく微笑みながら浩子に礼を言った貴美子だったが、何となく立ち入ってほしくないように思えて、以後は浩子もそのことについて触れないようにしていた。貴美子の苦悩と最近起こった見かけの変化に関連があるかどうかは分からないが、心の重荷は取れたように見える。

「例のプロジェクト終わったって、研究開発部の人たち、報告会の準備してましたよ」

「そう。あれ、大変だったみたいね」

 泊まり込みこそなかったが、関係者は連日終電だったと聞いている。

「まちさんにとっては、キャリアアップになったんじゃない?」

 “死にそう”だった時期は、顔色も悪く今にも倒れそうな状態で出社していたが、プロジェクトが佳境に入った頃から、貴美子は回復し、変わり始めた。

「やっぱり自信が、人を輝かせるのね」

 浩子がしみじみ言うと、ゆかりは顔の脇で指をぴっぴと振った。

「仕事じゃ女は変わりませんよ」

「え、そうかな」

「男です。絶対!」

 魚を前にした猫のようなゆかりの顔を見ていたら、そんな後輩と同僚の噂話をしている自分が何だか情けなくなってきた。

「ねえ。どこまで、尾行けるつもりなの?」

「分かんないです」

 男の顔見たらもういいかな、と呑気に笑っている。

「もう。適当なところで、切り上げるからね」

 一緒に来ておいて何だが、電車に乗ってまで後を追うのはさすがに気が引ける。浩子が思っていると、貴美子は駅前にある大型書店に入っていった。

「え~、本屋?」

 ゆかりがつまらなそうな顔をした。

 貴美子はフロアの奥にある上りエスカレーターにまっすぐ向かっていく。

「ちょっと。これ、まちさんが本買ってそのまま帰ったら、どうすんのよ」

 二人して、相当間抜けな状況だ。

「いや、大丈夫です。たぶん」

 視線を前方に向けたまま、ゆかりは言った。

「やだな。エスカレーターって、尾行けにくいんだけど」

 ま、エレベーターよりはマシか、とこぼしながら上方をうかがっている。

「あんた、いつもこんなことしてるの?」

「まっさかあ~」

 艶然とした微笑が返ってきた。“魔性のゆかりん”の異名に相応しい艶っぽさだ。

「私にそんな顔してもだめ」

 にらみ返しておいて、エスカレーターに乗り込んだところで、脇に張ってあるポスターが目に入った。

「あ」

「どうしたんです?」

「南野英吾、サイン会やるって」

 ゆかりはぴんときていないらしい。

「知らない? ハッタリ探偵シリーズ」

 ミステリ界の大御所! に名前がよく似た、人気急上昇中の新人作家だ。そういえば、今月初めに新刊が出たんだった。

「いつやるのかな――」

 開催日時をはっきり確認できないまま、上がってきてしまった。帰ったらネットで調べてみよう。

「もう、センパイがサイン会とか言うから」

 まちさん見失っちゃったじゃないですか、と叱られてしまった。面目ないけど何だか悔しい。

「大丈夫よ。きっと、ここで降りてる」

 浩子たちが降りたのは3階で、4階は法律関係の書籍、さらにその上は受験参考書や辞典売場だ。水質や水棲生物の研究をしている貴美子なら“自然科学”を扱うこのフロアにいる可能性が高い。

 ゆかりにそう言うと、

「さすが、ミステリ読み込んでるだけのことはありますね」

「ゆかりくん、こんなの初歩の初歩だよ」

「ほら、その話し方が、探偵っぽい」

 ああ、そうですか。

「じゃあ、センパイの読みでは、水モノ関係のところにでめちゃんはいる、と?」

「たぶんね。でも気をつけないと。ばれないように近づくのは結構大変よ」

 浩子が辺りを見回しながら少し進んだ時、エスカレーターを急ぎ足で上ってきた男が目に入った。わ、背高い――長身好き故に、背高男にはどうしても目が向いてしまう。

 あれ、あの人って。

「ヤマケンだ――っと、やばっ」

 つぶやいた直後、後悔の念とともに浩子はゆかりに向かって急いで手を伸ばした。自分の言葉で、ゆかりがどんな反応をするか察したからだ。

 案の定、浩子に飛びつかれ口を塞がれながらも、ゆかりは目を輝かせた。

「いわ、あわへんへ、いいあいあ?」

 今、ヤマケンって言いました? らしい。それから身を捩って口から浩子の手を外すと、

「健ちゃんいたんですか? どこどこ?」

「ちょっと、大きな声出さないでよ!」

 そのまま走り出しそうなゆかりを必死で押し留めながら、浩子は声を落とした。

「騒がないでってば! 見間違いかもしれないんだから」

「何言ってんですか。健ちゃん見間違う女がこの世にいると思ってんですか?」

「い……ないわね」

 そう、彼を見間違えるわけはない。あの一般人離れしたオーラを持つ彼を。さっきのは間違いなくヤマケン――山本健司だ。

「どっち行きました? 彼」

「彼、ってまちさんはどうすんのよ」

「まちさん? ああ」

 もうどうでもいいです、とまた始まった。なんて気紛れな娘だろう。

「いい加減にしなさいよ。あんたが付いてきてっていうから、私」

「そうなんですけど。健ちゃん放っておけると思います?」

 放っておけないのは分かっている。が、

「遠慮しなさいよ。彼、たぶん本買いに来たんじゃないと思うから」

「え、何で?」

 いいオトコだって本くらい買いますよ、と真顔で言われた。

「国生研の周り、でっかい本屋だらけよ。本なら、そっちで買うでしょうよ」

 この書店は、健司の勤務先である国立生物学研究所からも、浩子が知る限り、彼の帰宅経路からも結構離れている。わざわざ足を運ぶには、それなりの(おそらく買物以外の)理由があるはずだ。

「そっか」

 ゆかりも納得したらしい。

「じゃ、ちらっと挨拶だけ――」

 ゆかりの目がハート型に見えてきた。

「あんたねえ」

「だって。顔くらい拝んどきたいじゃないですかあ」

 健ちゃ~ん、と手を組み合わせて、ゆかりは視線を上方に泳がした。

「あ、あそこだ」

 浩子にも分かった。フロア奥の方にある書棚の上部から、健司のものと思われる頭の一部が見えたからだ。ダンナもそうだけど、のっぽの人って、目印になって便利だなあ。

「頼むから、静かに行ってよ」

 浩子も、目の保養になるので健司との再会はやぶさかではなかったが、自分たちの姿を町田貴美子に見られたら、と思うと少し気になった。

 浩子はともかく、ゆかりは(一応、彼女も観賞魚飼育機器メーカー、ぺトラの社員なのだが)社命でも受けない限り、自然科学の専門書売場に立ち寄りそうなタイプではない。自分とゆかりをこの場で見かけたら、貴美子は不審に思うだろう。ましてや彼女が忌み嫌っていたヤマケンが一緒にいたら。冷静な貴美子は不快感を隠すだろうが、気まずい空気が流れることは間違いない。

 浩子は、軽やかな足取りで進んでいくゆかりの後を追った。忍び足気味なのは、不意に顔を出して、健司を驚かそうと思っているからだろう。

 ゆかりったら。挨拶だけでは済まないだろうな、と浩子が考えていると、ゆかりは件の本棚の手前で足を止め、そこから、ひょいと顔を出した――と思ったら、すぐに顔を引っ込め、再び、今度はそろそろと顔を半分だけ出した。

「どうしたの?」

 浩子が声をかけると、ゆかりが振り返った。目を見開いて、口をぱくぱくさせている。何か浩子に訴えたいらしいが、声にならない。

「ちょっと、大丈夫?」

 ゆかりは、凝ったマニキュアの指をわなわなさせながら通路の方を指差すと、浩子の後ろに回りこんだ。背中を押される。浩子にも見てみろということらしい。

 そっと顔を出してみる。健司と、その傍に誰かいる――。まちさんだ!

 浩子はすぐに身を引くと、ゆかりの腕を取って、通路の中ほどまで入り込んだ。

「どういうこと? 何であの二人が一緒にいるのよ」

“そんなの、あたしが聞きたいですよ!” とゆかりが表情だけで答えた。かなりショックを受けているようだ。

 落ち着け、私。健司も貴美子も似たようなジャンルの研究をしている。専門書売場で偶然出会うというのは、あり得ない話ではない。でも、てっきり貴美子は健司を嫌っていると思っていた。

 それをゆかりに伝えようと思ったら、ゆかりは本棚に耳を近づけ、隣の通路をうかがっていた。

 何か、話してる。思わず浩子も耳に神経を集中させた。

「これ、続編が出てたんですね」

 健司の声だ。貴美子が知らなかったと応じる。関係者の間では元本の評価が高かったとか何とか。そんな話をした後、健司はその本を買うことにしたらしい。

「今度は、俺がお貸ししますよ」

 いや、ご迷惑でなければ差し上げます、とのことだ。まあ、続編だけ持ってても仕方ないもんね。

 って、何なのこれ? 偶然会ったわけじゃない? 少なくとも本を貸し借りする仲ではあるらしい。研究者同士の交流会? 

 浩子が頭を捻っていると、

「じゃあ、そろそろ」

 行きましょうか、と貴美子が小さな声で言うのが聞こえた。

 通路から健司が出てきた。その後に貴美子が続く。

 浩子は、何か言いたくて仕方なさそうなゆかりとうなずき合うと、二人の姿を目で追った。気づかれないように後を追う。

 健司がレジに向かうと、男女二人の店員が同時に声をかけてきた。近くにいる女性店員を素通りして、健司は男性店員がいる方の奥のレジに進む。

 なぜ健司がそうしたのか、浩子にも分かった。女性店員は、健司に視線を投げつつ、口を開けたまま惚けている。あれではしばらく仕事にならないだろう。

 自分たちが初めて健司に会った時、仲間が皆(ただし貴美子を除いて)似たような呆け面をして、お互い笑いあったのを思い出した。

「健ちゃんパワー全開、ですね」

 ようやく口が聞けるようになったのか、ゆかりが耳打ちしてきた。

「ええ。彼、元気になったみたいね」

 浩子やゆかりが健司と一緒に仕事をしたのは2か月間だったが、後半の1か月は、口の悪い健司の同僚が、本気で病院行きを進めるほどのやつれっぷりだった。

「良かった」

 本人は病気ではないと言っていたが、何か悩み事でも抱えていたのだろうか。

 貴美子といい健司といい、“死にそう”になるほど弱り果てる悩みとは何だろう。幸い自分にはそこまでの経験はない。ゆかりなんか、悩みって言葉すら知らないんじゃないかな。

 そんなことを思っていると、ゆかりに肩を突つかれた。

 貴美子一人ならともかく、彼らが連れ立っているとなると、これは“事件”だ。

 浩子はゆかりと共に“不可解な二人”の行方を追うことにした。

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