8-30
閉められた扉の外では、バリーが祈りながら大事なく時間が過ぎるのを祈っていた。バリーは熱心な信徒ではないので、祈りの言葉が思い浮かばず何度も同じフレーズを呪文のように繰り返すばかりだった。
しばらく、といっても数分程度なのだが、何も音がすることはなかった。バリーは、実はあのオークは紳士的だったんだろうかと、ありもしない期待を抱いた。
しかしそう思った次の瞬間、扉越しにベッドが激しい音を立ててきしんだのが聞こえた。バリーは息を飲んで扉を見つめた。
それからまたしばらくの静寂。その後に、扉の向こうから男を悦ばすためではない、苦痛そのものを吐き出すような叫び声が漏れてきた。
建て替え工事のように大きな揺れが、何度も部屋どころか外の廊下までもきしませる。その度に、クロウの喘ぎ声を通り越した悲鳴が扉越しにバリーの耳をついた。たまらずバリーはその場に座り込んでしまった。
膝まづいたバリーはさっきよりも強く、自分でも聞こえるくらいの声で祈り始めた。
だがクロウのリズミカルな悲鳴はバリーの祈り声をかき消し、バリーは祈りながらもクロウの声で股間を勃起させ、そんな自分に嫌気を感じながら涙目でバリーは祈り続けた。
……気がつくとクロウはベッドに寝かされていた。
視界の隅、ベッドの横に光を帯びた天使が寄り添っていたので、クロウは自分が死ん出しまったのだと思った。思った以上にあっけないものだなと、悲しみもなにも感じることはなかった。
改めてその天使を見てみると、それはランプの灯りに照らされたエレナだった。
エレナはうたた寝をしているようだった。彼女の翼の羽の荒れ具合と裾の短いパンツから伸びる素足の様子から、クロウは彼女が自分を看病してくれたことを察した。
クロウは目を閉じて思い出す。しかし当日の記憶を探ろうとすると、あの獣の息遣いと悪臭がフラッシュバックして、再び気を失いそうになった。
それ以上思い出すと、あのありえない程に大きいイチモツを股間にねじ込まれた時の痛みが戻ってきそうだった。
実際、気を抜くと膣どころか骨盤ごと歪みそうな痛みに悶絶しなければならなかった。
クロウが痛みをやわらげるために大きく呼吸をすると、それにエレナが気づいてゆっくりと目を開いた。
「……クロウ」
クロウはエレナを見るが、何も返事をしない。声を出しても体が大丈夫か、その確信がなかった。
「良かったぁ。意識があるのか分からなかったから」
意識はあった、と言っていいのだろうか。ただひたすら激痛に苦しむ悪夢を見続けていたような気がする。
おそらく、娼婦たちに囲まれていたのは現実だろう。しかし、メルセデスが自分のそばで手を握り励ましている光景は幻覚だっただろうし、母が遠巻きに自分を見ていたのは間違いなく夢だ。
クロウはそこまででまた思い出すのをやめた。
「……貴女が、看病してくれたの?」
「うん……。クロウが目覚めたって皆に教えてくるね」
エレナは椅子から立ち上がり、よたよたと部屋を出ようとする。
「……いいわ」
「え?」
「別に、アイツ等に教えなくても……。どうせすぐに分かるでしょ……。」
「……うん、分かった」
エレナはベッドのそばに戻ると、クロウの頭から濡れたタオルを
ランプに照らされた彼女の顔を改めて見ると、髪はクシャクシャで趾の皮膚は擦り切れて所々血がにじんでいた。
「……ありがとう」
エレナはクロウの額に濡れたタオルを乗せて言う。
「……それはエレナが言うことだから」
「いいのよ。私が好きでやったことだから……。」
「オークとやるのが?」
「そうじゃないって……。」
「分かってるよぉ。でもどうして? クロウだって、もしかしたらってことになってたかもしれないのに」
「なぜかしらね……。」
かすれた声でクロウが言う。
「きっと貴女の歌よ」
「歌?」
「そう。なんていうのかしら……貴女はそういうことをやるために生まれたんじゃないって、ふと思っちゃったのね。だとしたら、私が代わりになるべきなんじゃないかなって……。」
「だったら、クロウだってここで働くために生まれたわけじゃないでしょ?」
「そうね……誰だってそうよね……。でも、何故だかあの時は急にそう思っちゃったのよ。そして気づいたらカールスに申し出てた……。」
エレナは納得のいかない様子でクロウを見ていた。涙の滲んでいるエレナの目の周りは充血している。その様が彼女の髪の色と相まって、瞳がまるで花びらの真ん中のおしべの様にも見えた。
「もしかしたら、血かもね……。」
「血?」
「身内にいるのよ。発作みたいに、何かあったらまず他人の心配をするような人が」
「すごい人もいるんだねぇ」
「そうね……。」
クロウは微笑むエレナを見て体を起こした。
「クロウ、寝てないと……。」
慌ててエレナがクロウを止めようとする。
「大丈夫よ。少し話してずいぶん回復したのが分かったから」
「でも……。」
クロウは化粧台を指で示した。
「あそこに座って……。」
「……うん」
エレナがベッドの横の化粧台に座ると、クロウはエレナの後ろに座り
「だめじゃない。せっかくの綺麗な髪がモップみたいよ……。」
クロウは丁寧に繊細な細工を扱うように、しかし手際よく髪をとかしていく。
最初は遠慮がちだったエレナだったが、クロウに髪をとかされながら次第に心地よさそうな表情になり、そして目をつぶった。
「クロウ上手だねぇ」
「……昔ね母がこれを褒めてくれたの」
褒めてくれたことに、“唯一”とは付け足さなかった。
「そっかぁ、いいお母さんだったんだねぇ……。」
何も言わないクロウに、エレナがクロウ? と目を開けて問いかける。
「そうね……良い母だったわ」
良い母だった。クロウには何故かそう思えた。そんなことはなかったのに、この時、この場ではそう思えた。そして、そう思っても良いのだとも。
部屋の扉を開ける音がしたのでその方向を見ると、バリーが意識を取り戻したクロウを見るなり買い物袋を落としたところだった。
「クロウさん……。」
「……バリー」
「よかったぁ……。目覚めたんですね」
バリーは泣きそうな顔をして安堵の表情を浮かべる。
「バリーもクロウが寝てるあいだに色々お世話してくれたんだよぉ」
「あらありがとう」
「僕、クロウさんがもうこのままなんじゃないかってすごい不安で……。」
「そこまでヤワじゃないから」
「じゃあ、カールスさんにも伝えますね」
「エレナにも言ったんだけど、別にわざわざいいわよ」
「いえ、カールスさんがクロウさんが目を覚ましたら、すぐに言うようにって」
「……そう」
「カールスさんなりに心配してたんですよ、きっと」
あの男に限ってそんなわけがないことは分かっていたが、それでも今の気分を壊したくなかったので、クロウは相槌をうっておいた。
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