8-29
女たちの前には空き瓶で作った急ごしらえの
空き瓶の中に娼婦の人数と同じ数の細長い棒が差してあり、その一本の先には目印が施してあった。
そしてその目印のある棒を引いた者が、いま個室で待っている男の接待をしなければならなかった。この場合、正確には男ではなく雄と言ったほうがいいのかもしれない。
アリアが籤を前にして、照明など意味をなさないくらいに暗い面持ちで言う。「……さぁ、始めましょうか」
「ちょ、ちょっと待ってよアリア。本当にやらなきゃあいけないの?」
と、メグがやはりまだ決心固まらずといった感じで言う。
「仕方ないでしょ。カールスさんの命令よ」
「でも、でも、やっぱり無理だよっ。殺されちまうよ」
「大丈夫よ……。以前も、あれの相手をしたことがあるから。その時の娼婦は死にはしなかったわ……。」
「え、もしかしてその娼婦って……。アリ――」
「わたしじゃないわよ」
「何も説得力ないしっ」
着々と進む話にクロウが割り込む。
「断ればいいじゃない? 誰もあれの相手なんか無理でしょ?」
「機嫌を損ねて暴れられたらどうするのっ」
と、アリアは何故か小声で言った。恐らく個室にいる男に聞かれないようにだろうが、その種族はそんなに耳がいいわけではない。
「その時はお役人を……。」
「お役人が到着してる時には皆殺しにされてるかもしれないわ」
「そんな……おお……。」
おおげさ、と言いたかったクロウだったが、彼女もその種族を実際に見たわけでもなかった。
たまに伝え聞くことといえば、屈強で凶暴でただただ恐ろしく、大人が子供を躾ける時に恐怖を煽るための材料だということだけだった。
「ことを荒立てないようにってのがカールスさんのお達しだからね……。」
「ことを荒立てないって、アタイらがぶっ壊れたらどうすんのさ……。」
そのメグの言葉は、娼婦たちにルーシーのことを思い出させた。
「嫌だよ、絶対に嫌……。」
恐怖は娼婦たちに伝染し始める。阿片を吸っているマルベリーでさえ、困惑のあまり吸い慣れた煙にむせっていた。
「わがまま言わないの、わたしだって籤を引くんだから」
と、アリアが言う。
「あの、僕は良いんですよね? だって僕男だから、僕が行くとアイツ機嫌を損ねますよ?」
と、急に少年になったエミリオが言う。
「大丈夫よ、男の子が来る可能性も伝えてるから」
「大丈夫って……。」
エミリオが愕然とする。
「……さぁ、
アリアが切り出すが、やはり誰も動こうとしない。
「そう……じゃあ私が最初に引くわね」
「ちょっと待ってよっ」
「何よメグ」
「その籤、アリアが作ったんだよね?」
「そうだけど?」
「ダメだよ、アリアが最初に引いたら不公平じゃないさ」
「……わたしが籤に細工してるって言いたいの?」
「可能性は……ゼロじゃないでしょ」
「貴女、何てことを……。良いわ、じゃあ貴女がわたしの分も引いて頂戴」
アリアにそう言われて、何故かメグは促されるままに籤を引き始めた。
メグが引くと棒の先には何も印がなかった。メグは胸をなでおろす。
クロウはそんな二人のやり取りに、しっくりこない違和感を持った。
「何さクロウ?」
クロウの視線に気づいたメグが言う。
「……いいえ。何でもないわ」
続けてメグがアリアの分の籤を引いたが、やはり印はなかった。
そしてその後に続々と娼館の女たちが籤を引いたが、棒に印はなかった。
「……まったく、心臓に悪いわね。貴女たち、一斉に引いて頂戴」
残されたのは、クロウとシーナとエレナだった。
「え? エレナも?」
とクロウが言う。
「そうよ。だって皆やらないと不公平でしょ?」
アリアの言う不公平は、しかしルーシーの件を思えば適当ではないのではないだろうか。こんなエレナがあれの相手をさせられたら、ルーシーよりも深刻な事態になってしまう。自分の心配よりもエレナの事を気にかけながらクロウは籤を握った。
そして、女たちは一斉に籤を引いた。クロウとシーナの安堵のため息が同時に吐き出された。
そしてそれはすなわち、貧乏くじを引いたのがエレナだという事だった。
有翼人の少女は、印のついた棒を呆然見つめていた。普段から進みの遅いエレナの時計は、今では完全に不具合を起こし止まっているようだった。
「あ、あれ~? まいったな~」
エレナの時計が動き出し、ようやく言葉を口にしたが、その口調はいつものように遅いものの恐怖で震えていた。
「ど、どうしよう」
エレナは周囲を見渡すが、娼婦たちはことごとく彼女から目を背ける。
「エレナ……。」
と、アリアが言う。
「もし無理なら、本番は無しでお願いするのよ? 流石に、あいつだって娼婦を殺しに来たわけじゃないんだから」
「あ、ああ~。うん」
見ていられなかった。恐怖のせいで今にも触れただけで砕けそうなエレナの体なのに、さらにこれから無茶をさせようというのはあまりにも酷すぎるのではないか。クロウはエレナより先に扉に手をかけた。
「カールスに言ってくる。ダメだよこんなの」
「今さら何言ってるの? 無茶よ」
「向こうから無理難題を振っといて、無茶も何もないわっ」
そう言ってクロウが扉を開けると、そこにはちょうどカールスがいた。
カールスはいつもどおり無情な顔をしていた。しかし、いつものように性欲にみなぎった瞳はなりを潜めていた。
「……話は聞いたぞ、だがもう金はもらってるからな。いつもの倍近く。今さら出来ませんでしたはきかんぞ」
「そっちが勝手に話を進めたんでしょ? 何よいつもは偉そうにしてるくせに、ちょっとあんなのが来たくらいでビビるわけ?」
いつもなら娼婦にこんな口を叩かれたならば殴打の一つでも入れるカールスだったが、今日に限っては正鵠を得ていた。
「トラブルはゴメンだ」
「もうトラブルは起こってんのよっ」
とはいえ、流石に怒ったのか苦々しくため息をついてカールスは言う。
「今回に限って、取り分は7割お前らで良い。どうだ? 倍な上に7割だぞ」
「そんなこと……。」
「で、相手をするのは誰に決まったんだ?」
アリアが率先して言う。
「エレナよ」
「何?」
カールスの表情が険しくなった。
「ね? 無茶でしょ? エレナがあれの相手をしたら殺されるわ」
「念の為に、お医者をもう呼んでおきましょうか? ねぇバリー?」
「アリア、正気なの? 貴女、私がここに来た時言ったわよね? 女同士協力しようってっ」
「籤を……引いたじゃない」
「そんなのがっ……。」
「もたもたするな……あまり待たせて暴れられたらどうするんだ」
アリアがエレナと声をかける。
エレナは娼婦たちを見渡した。女たちは無言だった。
しかし、彼女に自分の厄を負って欲しいという無言の圧力だけはしっかりとあった。
「わ、わかったよぉ。でも、無理そうだったら本番はやめてもらえるんだよね?」
アリアはいつもの白々しい壁のような作り笑いで頷いた。
「じゃあ……行ってくる」
エレナはまるで、歩き方すら忘れてしまったような拙く危うい足取りで部屋を出た。
クロウはエレナを送る女たちを見た。誰もが心配そうなふりをして、その実自分に貧乏くじが回ってこなかったことに安堵している。そこには惨めな脆弱さしかなかった。
クロウが、静かな決意を込めて言う。
「……カールス。今回の代金は7割私たちがもらえるのよね?」
「ああ、そうだ」
「7割じゃなくて、全部ちょうだい」
「何だと?」
「全部くれるんなら……私が行く」
クロウはバリーに案内されそれが待つ客室へと向かった。
「あの……クロウさん。あれの相手をしたことは……。」
「ないわよ。見るのだって今日が初めてなんだから」
「僕が見た限り……そんなに悪そうな方ではなかったので……。」
「大丈夫ってこと?」
「え、ええ。あくまで僕の見立てですが……。」
「この際言わせてもらうけど、貴方の大丈夫はあてにならないの。これここの常識ね」
「ははは……。」
頼りないバリーの後に付いて客室に向かいながら、クロウはこの通路が永遠に続けばいいのにと思い始めていた。
普段は気にならない壁のシミやランプの傘にへばりついたまま死んでいるカナブンの死骸を凝視し、一体どうしてあれを誰も掃除しようとしないのだろうと、どうでもいいことを考えていた。
突然、バリーが立ち止まった。
「……ここです」
ああそう、とクロウは口に出したつもりだったが、声が出ていなかった。
客室の前にいるのに、扉を開けると断頭台があるのではないかというほどの緊張でクロウは足がすくんだ。事実、面構えに至っては死刑囚のそれであった。
「……貴方は、いつまでいるの?」
「僕は……今回は何かあったらすぐに入れるようにと……カールスさんから仰せつかってます……。」
ああそう、とクロウは口に出したつもりだったが、やはり声が出ていなかった。
「ではクロウさん……。頑張ってください」
何でこんなことになってしまったんだろうと、クロウは今更ながら後悔しながら扉に手をかけた。
だがクロウが扉を開けると、扉の前には部屋ではなく灰色の壁があった。
妙なことだ、開けてすぐ壁になっている客室などあっただろうか。クロウはいまいち飲み込めない事態に呆然とする。
しかしすぐに、それが目の前に立つオークの巨躯だと分かった。そびえ立つそれは、もはや体というより絶望だった。
あらゆる感情が通り過ぎ、逆に冷静になっていたクロウはオークの体を細かく観察していた。
尻と見まごう程に大きな胸板。女のウエスト並の腕。子供がすっぽり胃袋に納められていそうな腹。そして大の男の腕くらいに太く長く勃起しているイチモツと、その下に伸びる人一人分が収まる太さの両足。そしてその体のいたるところに丸々と太ったミミズのような血管が走っていた。顔に至っては、室内の光が届かず見えなかった。
「待ちくたびれたよぉ。お前が今日の相手か……。女日照りが続いてな、異種族の雌でもいいからヤリたくて仕方ねんだ……。」
何もかもが現実味がなかった。
タチの悪い悪夢に迷い込んでいると思っていたクロウだったが、閉められた扉の音で現実に引き戻された。
何だ自分はここで死んでしまうのかと妙におかしい気分になり、クロウの顔からは恐怖で引きつった笑顔ではなく、自然な微笑みがこぼれていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます