5-7
倒れているクロウに、すぐにロランが駆け寄り
起き上がりながらクロウが言う。
「大丈夫、ちょいと面喰って疲れただけだ。ケーキのあとにステーキが出てきたもんだからね」
「む、ううぅ……。」
その後ろでウォレスが難儀そうに立ち上がっていた。
「いやはや、老体に貴女の殺気は堪えますな……。」
後頭部に手を当ててウォレスは首を振った。
「……もし貴方が生まれたのが10年遅ければ、あの足への一撃で骨が折れていたはずだ……。」
謙遜しているのではなかった。
実際、ウォレスの剣に刃があったなら、クロウは二度も致命的なダメージを受けていた。
ウォレスは首を振りながら言う。
「若き剣士よ、それは慰めにはなりません。武人が立ち会う時、それは常に最盛期なのです。例えそれが今際の際であろうとも」
「失礼を」
クロウは頭を下げた。
ウォレスは本物の誇り高きエルフだった。今では見ることも希になった。
「まさかウォレス、お前が敗北するとは……。」
立会を見ていたヘルメス侯が、少し驚いて言う。
ウォレスはヘルメス侯に向き直り、お辞儀をした後、照れくさそうに頭に手を当てた。
「このウォレス、生涯の敗北は片手で数えるに足るものでしたが、本日をもって両手が必要となりました」
「ふむ……ウォレスよ。この女、どう見る?」
ウォレスはクロウを振り返った。その顔は庭をいじる老人のものに戻ってる。
「驚きました……。武人の魂ともいえる剣を惜しげなく捨て去り、さらには淑女の命ともいえるドレスさえ迷いなく捨て攻勢に転じるその大胆さと機転、そして何より、それを能うに裏打ちされた武。この者、類稀なる戦士にございます。一体、この泰平の世においてどれほどの死線をくぐり抜けてきたのか……。」
ウォレスは目を細めた。
「いや、敢えて死地に飛び込まなければ身につかぬものか……。」
「女だからこそ切り抜けられた窮地、誇張ではないようだな……。」
と、ヘルメス侯が言う。
ウォレスと並んで、クロウとロランは再びヘルメス侯の前で跪いた。
「加えまして……。」
ウォレスが再び語りだす。
「これほどの戦士を独力で見つけ出し、試練の終わりまで従えたイヴ様は、武門としての名を世に知らしめるヘルメス家の後継者としての資格を、間違いなく有しているものと存じます」
黙ってうつむいてはいたが、ロランとクロウは少し首を傾け顔を見合わせた。
「誰がそこまでの意見を求めた?」
だが、ヘルメス侯は機嫌悪く言った。
「恐れながら出過ぎた真似を……。」
「もうよい。下がれ」
ヘルメス侯がウォレスに言う。
ウォレスは、主人とクロウたちに頭を下げて部屋を去っていった。
「……下がれと言ったろう」
そして主人の関心を失ったカルヴァンをはじめとする飼い犬たちは、視線も与えられずにそう命じられた。
カルヴァンたちは、土砂降りの中を彷徨う野良犬のような哀愁を漂わせて部屋をあとにした。
不機嫌なのか諦めなのか、ヘルメス侯は大きくため息をついた。
「女、お前は
クロウは下着に
「……流浪の身なれば、大金を積まれても意味がありません。隠すところも預けるところもございませんので」
「ほう、では如何な理由だ?」
「流浪を選ぶ者が依るのは物ではありません。生き方にてございます。私がイヴ様に最後までお仕えしたのは、この方の理想に感銘を受けるところがあったから。そしてその理想の為に振るう剣に、価値があると信じたからでございます」
「……大した評価だな。そうか……武人としては、ウォレスの言うように有資格者ということか」
引っかかる言い方だった。
ヘルメス侯は椅子から立ち上がり、窓の方へと歩いて行った。
そこからは屋敷の外の街並みが見えた。
「しかし時代は変わった……。武人の役割、戦争の意味もまたな……。勇者様が現れてから、我々はもう争う必要がなくなった。大きな戦争はもはや国土を疲弊させるだけ、それよりも賢い戦い方があることを教えてくれたのだ。国を潤し、人々を幸せにする戦いをな……。見よ、この我が領地に広がる調和のとれた世界を。賑わう商店街、活気のある港、ただ生きる術を与えられるだけでなく娯楽にも満ちた繁華街、城の外に広がる無限の豊穣、そして何より絶えることのない領民たちの笑顔。かつて混沌の中にあったこの世界に彼は光をさし、秩序をもたらしたのだよ。強い光によってな……。」
確かに、それは強い光だった。
裏街道では貧民街が広がり、違法な売春宿とそこから一生抜け出ることができない少年少女を作る影ができるくらいに。
クロウは膝まづいたまま、ラクタリスとあの姉弟のことを思った。
ヘルメス侯は窓から離れて言う。
「人々を幸せにする戦争……そしてイヴよ、私が世継ぎに求めるのは、まさにその世界を勝ち抜く力を持った者なのだ。ヴィクターにはその才覚があった、及ばずながらもロルフにもな。……だがお前は古臭い男衆の好む剣術や法術の訓練ばかりに興味を示し、そのくせ伝統的な女の衣装には身を包みたくないという。ウォレスやその女のように、猪武者には慕われるかもしれんが、私がお前を後継者としての質に欠けると思うのは、そういう理由があるのだ。決してお前が女だからというだけではない」
ロランもヘルメス侯の前に膝まづいた。
「父上、確かに屋敷にいた時の私は貴方の期待に添えることはありませんでした。しかしこの試練を通し、私はこの世界において自分が何者であるか、そして何を為すべきかを学んだのです」
「何を為すべきかだと?」
「はい。確かに勇者様の尽力により、争いはなくなりました。しかし戦後はまだ続いております。世界は歪みに満ちており、お父上の仰る調和のとれた世界からこぼれ落ちてしまった人々は多く、彼らもこの国を支えている一人であるにも関わらず光は射さないまま、寒村でその一生を終えようとしています。また、種族間の対立も戦後のわだかまりを残しています。今は一見穏やかにも見えますが、いずれそのわだかまりは大きな嵐となって、父上の愛する領民、引いてはヘルメスに襲いかかるでしょう。勇者様が変革したこの世界を、私たちは次の段階に進めるべきなのです」
ラクタリスでの出来事はロランに衝撃を与えていた。箱入り娘のお嬢さんがたった数日で驚くほど変わるほどに。
だが同時にクロウは気になっていた。
まるで、その経験だけですべてを知りえたような口調だということに。
ヘルメス侯は、椅子を素通りして言う。
「勇者様の作った世界が間違っていると?」
ヘルメス侯は、寡黙なようで感情をはっきりと表す男だった。
クロウはこの僅かな謁見で、うんざりするほどに彼の感情を読み取れるようになっていた。
「いえ、決してそのようなことは……。」
「お前は分かっておらん、あの方の思想を……。」
ヘルメス侯は部屋の隅にある棚まで行き、杯を四つ取り出して小さな丸テーブルに置いた。
そこには既にヘルメス侯が飲んでいた杯と葡萄酒の瓶があった。
ヘルメス侯は四つの杯を四方に並べ、その上に自分が飲んでいた一つを置く。
「なぜ新しい時代の戦争を人々を幸せにする戦争というか、彼は美しい例えを使って教えてくれた」
そして一番上の杯に葡萄酒を注ぎ始めた。
注がれた液体はやがて溢れ出し、その下の四つの杯にもそれが流れていった。
「私を始めとする上に位置する者が知恵と工夫を凝らし、国を潤わせていく。そうすると富は際限なく溢れ、そのうちに下々の者にまで恩恵が及ぶのだ。もはや清貧など過去のこと、我々が稼ぎ贅を尽くすことでそれを用意する人間が、例えば農家が、商人が、彼らの仕事が増え、そして彼らもまた同じように誰かの仕事を作っていく。そのようにして国はそして世界は回っていくのだよ」
なみなみと注がれた一番上の杯を取り出し、一口それを含み十分に味わってからヘルメス侯は得意げに言う。
「貧しい者もまだ街に溢れていることは知っている。だがそれも時間の問題、やがては彼らの杯にも美酒が溢れていくだろう」
かつての武人は、戦場で敵の兜をかち割るときに持ち合わせていた自負心と迷いのなさを、今では金稼ぎに使っていた。
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