2-6

 ロランはチョークを砕いた粉で方陣を描き始めた。

 クロウはというと、危険がないかどうか辺りを見渡していた。

 不思議なことに、雑木林からの出口はしっかりと見えていた。おそらく帰りは迷わずに帰ることができるのだろう。クロウは少し安心した。


 一方のロランは方陣の真ん中で胡座をかいて何かを呟き始めていた。

 クロウには最初は唸り声に聞こえていたが、それは次第に言葉のようにしっかりとしたものになった。

 それは法術の詠唱だった。


「エスタ・ロラ・ドリュアス・オゥ・フォレステ・エンド・エスト・ロラ・ゲノーモ・オゥ・フォレステ……」


 詠唱しているロランの表情は普段よりさらに神秘性を増していた。

 目を瞑り体を揺らすロランは、今まさに目の前にいるというのに、その存在が曖昧になっていた。木々の間から差し込む光と一体になってそのまま消えていきそうなほどだった。

 ロランの様子に見とれるように、クロウの呼吸は止まっていた。


「応じたまえハマドリュアスの美しき娘たち。汝の妖艶さ万人が知るところぞ。彼との契約を解き、我を導きたまえ。応じたまえ老練なるカピタルの匠。汝の英知の恩恵を我らゆめゆめ忘れることあらず。汝と彼との契約を解き、我を導きたまえ……。」


 ロランがクロウの分かる言葉で話し始めたのか、それともクロウがロランの言葉を理解するようになったのか。クロウはロランの詠唱が分かるようになってきた。

 ロランの言葉の響きでクロウの頭の中はかき混ぜられ、クツクツと煮えたぎっているようだった。

 熱でうなされたように、近くのものと遠くのものの距離感がつかめなくなり、さらには平衡感覚すら怪しくなってきた。

 クロウはたまらずに木の根元に座り込んだ。

 すると、木の根元に生えてるキノコが蠢くのが見えた。

 リスだろうか? それにしては大きすぎる。クロウが何も考えずにその背後で動いているものを見ていた。

 それはリスでもキノコでもなかった。

 今まで見たこともないくらいに小さい老人だった。

 クロウとその老人の目があった。

 老人はクロウをじっと見ている。

 クロウは何故か、彼をあまり見てはいけないのだと思い目をそらした。

 しかし老人はクロウに擦り寄ってきた。

 それでもクロウは表情ひとつ変えずに老人を無視した。

 すると、老人はクロウの膝に手をのせ彼女の顔を覗き込んできた。

 老人と思ったその小人は、確かに目の焦点が合うところは老人の姿として捉えられた。だが、その周りは傘がかかった月のように薄ぼんやりとして、服装などはいまいち分からなかった。

 老人はクロウの体をはい上り、少しづつ顔に近づいてきた。


「……ロウ。クロウ」


 ロランの声でクロウは我に返った。我に返っただけではなく、少しの間呼吸を止めていたようだった。

 クロウは水面から上がったように、荒々しく息を吸い込んでは吐いた。

 激しく咳き込み、軽く涎まで垂らしてしまっていた。


「大丈夫かい?」


 クロウはまだ答えられず、無言で数回素早く頷いた。


「ゆっくり呼吸をして……」


「大丈夫……だ。すぐに収まる」


 クロウの呼吸はすぐに調子を取り戻した。

 クロウは周りの風景を見渡す。周りの風景はロランが詠唱を唱える前に戻っているような気がした。


「今のは?」


「一時的に、この雑木林に施されている法術を解いたんだ」


「それは分かってる。何か変なジイさんが見えたんだ」


 ロランが目を見開いてクロウを興味深そうに見る。

「それはノームだよ。土の精霊さ。きっと君のことが気に入ったんだ」


「そりゃあ気の毒なことをした。無視を決め込んでしまってね」


「そうなのかい? 心配しなくてもノームは無害だよ」


「女の体を触りまくるジジイは無害とは言えない」


「え?」

 微笑んでいたロランが真顔になる。

「いや、ほら……ノームは悪戯好きだから……。」


「相手を選ぶべきだな。アイツが生身ならぶん殴ってた」


「ははははは……」


 クロウは雑木林を見渡した。しかし相変わらず館は見えない。


「老賢者の法術だからね。ぼくじゃあ完全には解けないんだ。また木に登ってくれれば方角が分かるはずだよ?」


「そんな手間をかける必要はない」


 クロウは地面に転がっている小石を拾い上げ、「ガァ!」と力いっぱまっすぐに投げ飛ばした。その先でガラスが割れる音がした。

「……こっちだな」

 そして得意げにその方向を指差した。


「えええ……。」

 ロランは困ったようにそっちを見る。


「ああ、ちなみに私も結構悪戯好きだ。お前さんの言うように気が合うのかもな」


「……知ってるよ」


 音のした方角に行くと、村から見えていた館があった。

 そして館の窓ガラスはやはり割れていた。


「老賢者に何て言えば……」

 不安そうに窓を見ながらロランが言う。


「大丈夫だ」


「何でだい?」


「上手く当たってれば、じいさんもノびてる可能性がある」

 クロウがにやりと笑った。


「もう……。」


 入口まで回ると、玄関には奇妙な木製の扉があった。加工した跡がまるで見当たらないのである。

 まるで、元々扉の形に育った木をはめ込んだみたいだった。

 建物と同じように、どういう技術で作ったのか皆目見当がつかなかった。


 ロランは扉を前にして、落ち着き無く気配を伺おうとしていた。

「ねぇ、君の耳で何か聞こえない?」


「……音はしないな。ネズミの歩き回る気配ひとつしやしない。こりゃ留守だ」


「そうか……。」

 ロランは三回ノックをした。


「留守だと言ったろう?」

 クロウは肩をすくめる。


「マナーだよ」

 ロランが扉を開けた。


 玄関を開けると、正面がダイニングになっていた。

 丸テーブルが真ん中にあり、部屋の隅には食器棚が、一番奥にはレンガ造りの暖炉があった。


 クロウが室内を見渡す。

「長いこと誰かが何かをした形跡がないな」

 耳には何の音も捉えられなかった。匂いからも、ここの空気が少し前から止まったままだということが分かった。


「やっぱりあのお婆さんが言ったとおり、しばらく前からいなくなってたんだろうね」


「記憶力がないな。婆さんは死んでるかもと言ったんだ」


「クロウっ」


「大丈夫だ。もしない」


 ロランが大きく溜息をつこうとして、埃のせいで咳き込んだ。


 玄関、居間、台所と順番に探った後、クロウは確信めいて言った。

「老賢者さんは、ここを出て行ったんだ。しかも戻らないつもりでね。台所なんか特にそうだ。もう使わないから、生モノは愚か、保存食も全部始末してある。ハーブもスパイスもないみたいだ」


「……そうなんだ」


 二人は次に二階の寝室と書斎に向かうことにした。

 壁沿いから、粘土がこねられて引っ張られたように石が飛び出ていた。

 それがどうやら二階につながる階段のようだった。

 やはりどう造ったのか検討のつかない造りだった。


 二階に上がり書斎に足を踏み入れた時、クロウは嫌な雰囲気を感じ取った。

 本棚の本には布がかけられ、窓際の机と椅子は、次の住人をすぐに迎え入れられるよう、見栄え良く揃えられていたのだ。


「綺麗に整頓されてるね……。」

 ロランはただ感心したように言う。


「マズイな……。」

 しかし、クロウは事態が好ましくないと判断した。


「え、どうしてだい?」


「じいさん、本当にどこかで死んでるかもしれないぞ。この片付け方、まるで身辺整理じゃないか」


「そん……な」

 ロランは慌てて机に歩み寄り、引き出しを開け中を漁り始めた。


「他に心当たりは?」


「な、ないよっ」

 ロランは引き出しそのものを乱暴に取り外し、いよいよ物取りのように物色し始めた。短い付き合いだが、彼にしては似つかわしくない行動だとクロウは思った。

 それは、何かを探しているというより、ただ焦って落ち着き無く散らかしているように見えた。


「しかしおかしな話だ」

 部屋を漁るロランを見ながらクロウが言う。


「おかしいって?」

 ロランの声が少し高くなっていた。もっとも、それが彼の本来のトーンなのかもしれなかった。


「もう戻らないなら、どうして法術なんかを?」


「そうだよ、法術だ」

 食い入るようにロランはクロウを見た。

「法術が施されているということは、彼がまだ生きているということなんだっ」


「そうかね、そこらへんの仕組みはよく分からないが」


「希望はまだあるっ」


「それは何より。で、心当たりは?」


「それは……」


「どちらにしても時間はなさそうだな」


 山の向こうには日が落ち始めていた。

 あと何回の夕日までもってくれるのだろう。クロウは窓の外を見ながらため息をついた。

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