忘れていたあの子

 1つのことを想起すると、それに関連する事象も芋ずる式に追思される。

 しかし後から出てきたそれは信憑性に欠いており、できたてホヤホヤじゃがバターのような記憶自体に俺は懐疑の念を抱いていた。まさかそんなはずがないと高を括っていたというのもある。それを忘れていたとすれば、かなり大変なことになるからだ。

 だが困ったことに、時間が経つにつれて、なんの確証もないそれが真実のように思えてきた。

 だから仕事が終わると同時に会社を駆け出して、普段は使わないタクシーを使って慌ただしく帰宅したのは、いつも夕飯を食べ始める時間より4時間ほども前のことだった。

「いや、まさかな。ハハッ。流石にこればかりは杞憂だろ?」

 先月クリアしたゲームのモブのようなセリフを吐きながら威勢を張ってはいるが、額からは汗がとめどなく噴き出している。それが陸上選手でもないのにクールビズのこのご時世に全力疾走で帰ってきて、クーラーもつけずに立ち尽くしているからなのか、心配のタネに対して寒心に耐えきれずに溢れ出した冷や汗なのか区別がつかない。

 頼む、取り越し苦労であってくれ。そう願いながら俺はゆっくりとその扉を開く。

 そうして忘れていたその扉を開いたのは、その子を閉じ込めて1週間が経とうとしていた時だった。


 まずはこの子の状態を確認することが最優先なのだが、窓の外にそびえ立つ高層マンションが西日を食らった室内は朝まだきのように暗い。

 真夏の午後4時に電気をつけなければならない不便さを今更ながらに恨む。しかし、陽の光が届かないこの部屋を選んだのは間違いなく自分自身だし、当時の俺は「朝眩しくなくてラッキー」だとかその程度の事しか考えていなかったような気がする。

 部屋がLEDで満たされたところで、もう一度扉を開く。窓は屈折率が関係しているのか、部屋の外の風景はもう映っていなかった。

 その子に限界まで近づいてにおいを嗅いでみる。扉を開く前は小さな部屋の中に臭気さえ漂っているのではないかと予感していたのだが、蓋を開けばなんとやら。それほど悪臭はしないようだ。しかし、生まれ故郷の関係か、少し磯臭くなった気もする。

 続いて先ほどはできなかったが、目の前の子をよくよくよーく注視してみる。ツヤとハリをなくして色の悪くなった見た目のすぐ下には、最後に見たときにはなかったはずの水たまりができている。

 ……いやまあこれくらいは想定内であったというか、すると思っていた悪臭同様に、我慢しろと言い聞かせられるものでもない。


 一度ドアを閉じ、湯を沸かす。謝意を表するには、まず俺が閉じ込めたことに起因する不具合をどうにかしなければならない。よって、あの子の身を清めてやるのが先だろう。

 ボコボコと身震いし、口から絶え間なく蒸気となって噴き出る体液を見計らって湯沸かし器は活動を停止した。テレビからとめどなく流れるニュースに注いでいた視覚と聴覚を一瞬そちらに向けて、遅れて脳から指令を出された重い腰は、受動的な態度で上昇する。

 ドアを開いてあの子を狭い部屋から出してやる。1週間ぶりに白日の下に晒された体躯は、電気をつけてもやはり薄暗かった室内で見るよりも生命感が溢れているように見えた。全然いけるじゃないか。

 ゆっくりと身ぐるみを剥がしていく。身にまとっていたそれもまたこの子の体液なのだと思うと勿体無く感じるが、それよりも嫌悪感が勝ってしまい、思わずゴミ箱に捨ててしまった。

 容器を出し、その上にその子を優しく乗せてやる。そして、試合中の興奮が抑えきれないアスリートのように未だ身震いをするヤツを手にした。

 そシてって、コの子に、ふっ騰したッたお湯を、真上からからかけるっっる流屡るル蕗る。

 これは必要な過程だ。ビチャビチャと音を立てて俺の服やタイルに跳ねていく大粒の熱湯に、近年の節水思考に意識が向いていないのだと現代人なのに杜撰な自分に辟易してしまうが、誰だって短所はあるのだと無理矢理にも早合点をしてしまっている。

 ふと気づくと、やりすぎたように思う。赤を通り越して焼いたような色をして、湯気はその子の服のように全体を覆っていて、こちら側からはよく見えない。


 熱々のその子を容器から出して、用意していたキッチンペーパーで軽く拭いてやる。水分だけを排除するように、本当に軽く。

 そして醤油とみりんを合わせたものと一緒にその子を食品保存袋に入れ、空気を抜きながら、かつ合わせ汁が溢れ出さないようにしてチャックを閉じた。今度は最初にこの子を入れていた冷凍庫ではなく、冷蔵庫に入れる。

「確か、これで3時間おいておけばいいんだよな……」


 きっかけは有給消化の際に同僚と連れ立って、初めて赴いた市場での出会いだった。

 一目惚れだったのだ。大勢の観客の前でストリップのように一枚一枚剥かれていくその子に目を離せないでいた。

 そうして勢いのままに買ってしまったのだ。薄給だと全身までは手に入れられなかったが、1番安い場所だけは手に入れることができた。

 1番安いと言っても量が多く、とてもではないが少し食べただけで満足してしまい、品質を損なわないようにとラップにくるんで冷凍庫に入れたまま、1週間も忘れていたのだ。

 手に入れて市場に出してくれた人に申し訳なかった。それよりも何の罪もなく捕まえられたあの子に1番申し訳なかった。かといってこれ以上のレパートリーも思いつかなかった。

 そんな時にネットで見つけたレシピだった。


「マグロの霜降り、美味いのかな」

 お茶漬けにするといいって聞いたんだけど。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る