13話:それでも世界は再び廻っている

「――おい、兄ちゃん大丈夫か?」


 突然、視界が鮮やかに染まる。

 突然も突然だ。状況の変化に付いて行けない。

 二度、三度と瞬きを繰り返し、首を横に動かすと、血に塗れた銀色の肉きり包丁が目に映った。

 包丁にはうっすらと肉片の様なものが付いているのを確認して、ビクリと体は反応する。


 ガヤガヤと忙しそうに歩く通行人の音や、ガラガラと馬車を引くドラゴンもどきの喧騒が聞こえてくる。

 朝日が差しこむ気持ちのいい朝だ。


 パチクリと瞬きを繰り返し、正常に視界が機能していることを確認。

 目の前の厳つい顔をした、厳つい顔の肉屋のおっさんの顔が視界を覆っている。


 通行人が友人か知人に親しげに話しているのも聞こえる。

 聴覚も正常に機能しているようだ。


 どこからどう見ても平凡で平和で愛しい街の見飽きるほど見た一日の光景だ。


 一通り周りを確認した男は、喉を鳴らして堪えきれない様に吹き出すと、大口を上げて大笑いをあげる。

 通行人が何事かと訝しげな顔を覗かせてくるほどの大笑いを上げて満足した男は、目の前のビックリ仰天と言った顔をしている厳つい男に話しかけた。


「俺、ヤガミハルトって言うんだけど、肉屋のおっさんとは初めて出会うよな?

 初対面で悪いんだけど、店の裏で休ませてくれない?

 冷たい水も頂けると助かる」


※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※


 肉屋は人々が行き交う通り道にあった。

 元々は一軒家だったのを改装して、通りに面している表で肉を売っている。

 

 家の裏には、小さな庭園が広がっていた。

 短く刈られた芝生を見ると小まめに手入れされていることが伺える。

 庭園の隅には一本の木があった。

 元々は木々が他にもあったのだろうが邪魔にならない様に一本だけ隅に残しておくか、というふうにポツンと佇んでいる。

 

 ――そんな、庭園を管理する住民たちの意思が見える様な場所の木の下で、ヤガミハルトは寝転がっていた。


 ハルトは死んだようにピクリとも動かないまま、既に四十分余りの時間を過ごしていた。

 目は開けたまま、じっと自分の手に登ってくる蟻だと思われるものを見ていた。

 蟻は突然現れた謎の巨大な建築物を探検するように嬉々として歩き回る。

 ハルトの手のひらから腕を伝い、顔にたどり着いた。


 しばらく、好き勝手に歩き回らせていたが、

蟻が目の周りをウロウロする頃になってようやくむず痒さにそっと蟻を払いのけ、地上に振り落とされ慌てたように逃げる蟻を眺める。


 ――時間ばかりが漠然と過ぎていくのが分かる。

 だが、ハルトは身体を動かしたくなかった。

 ここから一歩も動きたくなかった。


 『二度目の死』はハルトにとって衝撃的だった。

 死ぬ前の痛みは一番酷かった、人から直接暴力を振るわれたのも初めてだ。

 一度目の死は何が何だか分からないうちに死んでしまったが今思えばどれだけましだったか分かる。


 いや、肉体的な痛みは良いのだ。それはまだ我慢できる。

 死んでリセットされた今となっては、死んだ時の感覚が残っているだけだ。

 右手を痛めつけられ、内臓を傷つけられ、頭蓋を割られた名残は残っていてもリセットされた肉体は修復されている。


 だが、死ぬまでの記憶。死ぬまでの心の痛みはしこりとなって残り続けていた。

 

 ――考えたくない。と意識すればすぐにフラッシュバックされる。 


 あの、悲惨で惨めで凄惨な記憶がよみがえり、ハルトの心を抉り出す。

 最低の記憶はこんなにも心をごっそりと削り取っているというのに、まだ苦しみが足りないとばかりに心を切り刻む。

 もはや、涙も流れそうにない。いや、既に枯れているのかもしれない。

 こんなにも心は血を流しているのに、『世界に帰ってきて』から一度も涙が流れないのだ。


 ――考えるな。考えたくない。


 目を見開き、目の前の景色だけに集中しようとする。

 が、目は燦々と零れる美しい朝日の光を映しているというのに。

 瞳に浮かぶのは、あの最低で最悪な光景だ。

 

 真っ赤に染まった地面が見える。真っ赤な地面に半身を投げ出した騎士の姿が見える。

 真っ赤な布に包まれた、白い髪の少女が――

 

 ハルトは電流を浴びた様に反射的に自分の腕で胸を掻き毟る。

 服の上から爪でガリガリと掻き毟った。

 薄い皮膚を裂き、筋肉を抉り出して、この権限なく傷む心を抉り出したかった。


 土の地面から寝転がり、木に寄り掛かるとハルトは喉から嗚咽を絞り出した。

 嗚咽を出し、両目から零れ落ちる液体を待つ。

 だが、待っても待っても自分の目は命令を無視するようにその役割を果たしてくれない。


 両目から涙を流し、むせび泣ければどんなに楽だろう。

 どんなに自分は救わるだろうか。


 ………だと言うのに、涙はすでに枯れたかのように出てこない。

 それが気持ち悪くて、苦しくてハルトの喉は嗚咽を繰り返した。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



「――おい、坊主、肉が焼けたぞ食え」


 ハルトが疲れて再び地面に寝転がっている時だった。

 一人だけの静寂が漂っていた空間に野太い声が響き渡る。


 のそりと上半身を起こして、声が上げられた方向を見ると、肉屋のおっさんが木のお盆の上に何やら肉を乗せてこちらを見ていた。


「………いや、今は腹が減ってない。ごめん」


「四の五の言わずに良いから食べろ。ほら、さっさとこっちに来い」


 否定の言葉を返す、木の下にうずくまる少年を肉屋のおっさんはハルトの二倍は太そうな腕で掴み、引っ張ると、

強引に腰を下ろすのにちょうど良い石垣の上に座らせた。


 それから、ハルトの膝に木のお盆と熱された鉄板プレートの上で音を立てる紫色の肉が置かれた。


「まずは肉を食え、話はするのもここを出て行くのもそれからだ」


 ハルトの隣にドスンと音を立てて肉屋のおっさんが座ると、両腕を胸の前で組み横目でこちらを見てくる。


「………店は良いのかよ、客商売だろ」


「今はうちの母ちゃんに任せてあるから心配すんな

 後で、俺の片側のケツが調子が悪くなるほど叩かれるかもしれねえが………まぁ、気にすんな」


 肉屋のおっさんはハルトにナイフとフォークを手渡すと、いいから食べろと催促してくる。

 改めて、ハルトは目の前の四百グラムはありそうな紫色のステーキを見る。


「ワイバーンの肉か………」


 ステーキは食べたことはないものの、ハルトも同じ種類の肉を食べたことがある。

 正直、今は食欲がなく何も胃に通りそうにないが………。

 横で睨みつける肉屋のおっさんに観念して渋々ステーキにナイフを入れる。


 ナイフを入れるとほとんど力を入れずにスッと切れる肉質の違いに驚きつつ、食べやすい一口サイズに切って肉汁を服にこぼしながらフォークで口元に運ぶ。

 ゆっくりと咀嚼して舌で肉を味わい、飲み込むと胃は驚くほど素直に受け入れた。

 喉を通り、食道を通り胃にたどり着いて、ゆっくりと自分の血肉になっていくのが分かる。


 気が付けば、一口、二口と食べ続け四百グラムの肉は瞬く間に消え去っていた。

 冷たい水を喉に流し込むと、ハルトは両手を合わせ「ごちそうさま」と告げる。


 隣に座る、肉屋のおっさんは厳つい顔を緩めて嬉しそうに微笑んでいた。

 ハルトが顔を向けると、慌てて強面の顔に表情を元に戻そうとする。

 そんな、不器用な男にハルトは立ち上がり、深々と頭を下げると、


「ごちそうさま、ステーキ美味しかったよ

 ――どうも、ありがとうございました」


 ハルトは素直に感謝の礼を述べた。

 男はむず痒そうに自分の首をカリカリと掻くと、照れくさそうに言った。


「別に良いってことよ、これはほら、初回サービスだ

 美味かったなら今度からは店で買ってくれ」


「――あぁ、お金が出来たらそうさせてもらうよ」


 機会が合ったら必ず買おう、とハルトは決意を込める。


 石垣の上に座る、肉屋のおっさんは密かに決意を込めるハルトを見ながら何か言いたそうに口を閉口させる。

 自分の顔の傷跡を撫でながら、数順の迷いを見せてぼそりと言葉を発した。


「それで、なんだ。………もう少しゆっくりしていくか?」


「………急になんだよ。俺を養子にでもしてくれるのか?」


「お前の様な坊主は俺の家に絶対に入れてやらん!

 そんなことをしてみろお前、うちの娘が年頃になった途端、結婚させてくれと頼むに決まっているだろ!

 絶対に許さんぞっ! お前の様なちんちくりんにうちの娘をやるものかっ!!!」


 突然、顔を赤くして興奮するおっさんにため息を付いて、ハルトは呆れたように言う。


「いや、話が飛躍しすぎだろ。どれだけ自分の娘に自信持ってんだよ………。

 それだけ、自信を持てると言うことは美人なんだな。

 ………娘さん、おっさんの顔に似なくて良かったな」


「あぁ、本当にうちの嫁さんの若い頃に似てなぁ。

 ………でも、目だけは俺の目の色なんだ。って少し俺に対して失礼じゃないか?」


「はいはい、ノロケ話ご馳走様です。

 ――で、結局おっさんが言いたいことって何よ?」


 ハルトの問いかけに、肉屋のおっさんは自分の顔の傷跡を撫で、考え込みながらぽつりぽつりと言葉を紡いだ。


「――俺も昔はいろいろあってなぁ」


「昔の俺はあんなにヤンチャしてたってやつ?

 いいよ、そういうのは………異世界人のヤンチャぶりとか聞くのもこえぇ」


「良いから黙って聞け!

 昔は俺も無茶してたもんだ、正直な話、どこか一つの場所に足を落ち着かせて暮らせるとは夢にも思わなかった」


 昔のことを思い出しているのか、しみじみと感慨深げに話す。


「それが、今じゃどうだ?

 嫁を貰って、子供までいて、店まで持っている

 我ながら信じられねぇ………この俺がだぞ? 信じられるか坊主?」


「しらねぇよ。俺に聞かれても分からねぇ

 俺はおっさんのこと何もしらねぇんだぞ。どう判断しろって言うんだ」


「――いいか、坊主」


 ぶつぶつと文句を言うハルトに、

 肉屋のおっさんは身を乗り出し、強面の顔をぐっとハルトに近づけた。

 反射的にハルトは身を遠ざけようとするが、肩を掴まれ動きを封じられる。

 ゴクリと唾を飲み込むハルトの目の前に傷だらけの顔の中にある瞳を真っ直ぐに向ける男の姿があった。


 肉屋のおっさんは真正面から真剣に言葉を告げる。


「――坊主。逃げたい時は逃げれば良い。

 人生はそれで終わりじゃねえ。

 一人で抱え込めないようなら、他人に抱えてもらえ

 他人に抱えてもらえないようなものが自分を押しつぶしそうなら、そんなもの捨てちまえ!

 背中に背負った重みで押しつぶされるほどなら放り投げちまえ!

 人生はそれでも終わりじゃねぇんだ」


「――………でも、俺は」


「苦しいのが分かってても捨てれないか?

 逃げ出したくても後ろめいて気が引けるか?」


「………つぶれちまいそうでも、捨てれないなら」


 男は大きく息を吸って、言葉を放つ。


「――その荷物はどんなに重くても、捨てれないほど大切なものなんだろうよ。

 捨てるなんて選択肢を躊躇するくらい大切なものなんだろうよ。

 大切なものを背負っている。それだけは潰れそうになっても忘れるなよ」


 自分の倍くらい年齢が違う男が、初めて出会った生意気な少年に心から言葉を話してくれている。

 真正面から見つめて言葉を発してくれている。


 ――きっと、元の世界なら「大人が偉そうなことを言っている」の一言で真面目には聞かなかっただろう。


 だが、この状況で、この必死に生きてきた異世界の状況で。

 その言葉はハルトの心に染み渡った。


 ――思えば、真面目にハルトのことを心配してくれている人は初めてだった。


 今まであった人達は、自分が救いたいと思ってばかりで………。

 助けられることはあっても、自分のことを大丈夫かと言ってくれた人はいなかった。


 つらく、苦しくて、悲しくて、孤独なこの異世界で自分のことを気にかけてくれる人が居る。


 ――涙は出ない、出ないが不思議と心が落ち着くのが分かる。


 じわりと自分の心に再び熱が帯びたのを感じると、

擦れた声でハルトは呟いた。


「………………本当。おっさんの娘さん、お母さんに似て良かったな」


「余計なお世話だ」


 誤魔化す様に冗談の様な言葉を絞り出し、

 鼻を鳴らして笑う肉屋のおっさんに顔を見られない様に俯く。


 ――相変わらず涙は出てこない。

 でも、今、涙を流していない自分の顔がどれだけ人に見せられない表情をしているかは分かっていた。

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