その2 入院患者サユリさん

「1滴……、ひゃっ。2滴……、ひゃっ」


 赤いワンピースの胸もとが、ゆるい。


「3滴……、ひゃひゃっ」


 めくれたスカートのすそが、わざとらしい。


「たまらないわ。4滴め、イッちゃうわよ」


「あ、あの〜」


「なあに? ミツルくん」


「こんなところ誰かに見られたら、とんでもないことに」


 あお向けのまま身じろぎするぼく。

 しなやかな彼女の指が、ぼくのまぶたを上下にひらいている。


「あら、目薬をさすのは、とんでもないことなの?」


 必要以上に身体を寄せて、サユリさんがのぞき込む。

 軽くウェーブのかかった髪が垂れて、ぼくの頬をくすぐる。

 いいにおい。


「はい。明らかに、とんでもないです」


 だってサユリさんは患者で、ぼくは見回りに来た看護師で、ふたりはベッドに横になっているんだから。


「それに、水滴を落としてるサユリさんのほうが、ひゃひゃって反応するのは、おかしいです」


 目薬の点眼をぼくに頼んだあと、お礼に是非やってあげるといってきかなかったのだ。


「でも、スリリングでしょ? 間接的とはいっても、ひとの体内に刺激を与えるんだから」


 無邪気な彼女。

 ぼくは精一杯反抗してみる。


「体内じゃないですよ。粘膜は体外なんです」


 美しく完璧な笑顔に疑問符がいっぱい浮かぶ様子を、ぼくは期待した。

 けれど目の前に迫ったのは、余裕たっぷりの色香だった。


「そうよね。胃や腸の粘膜もカラダの外よね。ナマコだって人間だって、ひとつのチューブ。お口とお尻は、両方のはしに空いたアナなのよね。いってなかったけど、じつはわたし看護学校に通ってたの。熱血学生だったわ。国家試験は受けないまんまになっちゃったけど」


「そうなんですか。意外です。ナースの道より、モデルの道を選んだんですね?」


 サユリさんは少し間を置くと、ゆっくりと答える。


「そういうわけじゃあ、なかったんだけどね」


 つややかな黒い瞳が、ほんのちょっとだけ曇った気がした。


 サユリさんは、形成外科病棟に入院中の患者さんだ。

 逆さまつげの治療と称した、二重ふたえまぶたの手術を受けた。

 埋没法。よくいう「切らないプチ整形」。二重のラインが安定しないので、以前から手術を受けたいと思っていたらしい。


 うちの形成外科の先生は腕がいい。だから術後、ほとんど腫れない。腫れないしメスも使わないから、全然入院の必要はない。

 必要はないのに入院しているのは本人のご希望だ。個室を何日も使う彼女は、お金持ちなのだ。飲食店を経営している会社の令嬢らしい。

 白くなめらかな頬を盛り上げて、うふふん、と笑いかける彼女。

 整った顔立ちなのに、幼く見えるのはなぜだろう。

 ファッションモデルをしていた8頭身。

 ぼーっと見とれていると、甘い香りが届く。

 10人中9人の男は、反応してしまうはず。

 むくっと本能を起き上がらせてしまうはず。

 え?

 香水が強いひとは苦手だって?

 それはね、サユリさんに会ったことがないからだよ。

 どんな香りも媚薬になってしまうんだ。

  

「サユリって呼んでくれないとダメ。患者のこころのケアも、大事じゃなくて?」


 そんな要求をぼくにだけする。彼女にとって、甘えやすい相手なのだ。

 きっと、心の中を見抜いているに違いない。

 ああ。

 甘く、はずむ感じ。

 それは、とても楽しい瞬間だった。


 





 


 

 

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