第27話 伏鳥さんはくたばりたいっ!その①

 麗香とイチカが仲直りをして、その日は夜遅くまでイチカ主催のゲーム大会が開催された。逃げようとすると身体を引っ張る麗香からやっとの思いでその場から解放されるとベッドに潜り込むなり、すぐに寝不足の夜が明けた。


 軽井沢旅行三日目。朝食が済んだ大広間には誕生日席に麗香が座り、みんなの会話を眺めている。俺はその右隣の席に座り麗香の話に相槌を打つ姿や、馬鹿話に微笑む表情を見つめていた。


 美人でスタイル抜群の俺の彼女、伏鳥麗香。そんな彼女と過ごす日常がふいに夢のように感じられる瞬間がある。もしそれが頬をつねったら消えてしまうような嘘だったとしたら?目の前から梯子を外される漠然とした恐怖感。麗香の存在はいつしか俺の生活の中心となり、その天性の明るさは道標みちしるべと呼べる光と成っていた。人間と異なる性質を持つフシは幾百年の歳月を生きるという。同学年で大先輩である麗香へと抱えている恋心。俺もその内に歳を取り、いつかはこの想いも醒めてしまうんだろうか。会話がひと段落してイチカが切り出した。


「せっかく軽井沢に来たんだから今日は屋敷を出て、町に降りて買い物や観光をしたいと思うんだけどどうかな?部屋でゲームもいいけど身体もなまっちゃうし」


 イチカの申し出に吉野と片岡も賛同した。ハルも控えめに手を挙げると麗香が「あ~、あたしはパス」と残念そうに首を振った。どうして、と俺が訊ねるとあっけらかんとした顔で麗香は大勢の前でこう言い放った。


「身体がだるくてあんまり動きたくない感じ。それに今日、あたしあの日だから」


 それを聞いて凍りつく俺を含む男性陣三名。ああ、それならしょうがないな。屋敷でごゆっくり。言葉少なに“いそいそ”と席を立ち、出掛けの準備をし始める吉野と片岡。


「あれ、遠馬も行かないの?」


 彼らと同じように席を立つイチカにそう訊ねられて俺も少し体調が悪い、と誤魔化して答えた。麗香をひとりにしたくなかったし、せっかく旅行に誘ってくれたのだから今日は麗香と一緒に過ごしたいという想いがあった。そんな俺の機微に触れたのか、イチカは「そうなんだ、養生してね」と鼻を啜って走り去ってしまった。


 ふたりだけになった大広間で麗香が俺を見てにんまりと笑う。


「遠馬が具合悪いのなんて嘘。麗香ちゃんにはお見通しなんだから」

「お前も仮病だろ。本当はどうなんだ。何か企みがあるんだろ?」

「ああ、さっきの事?ホントかどうか、それを言葉にするのは、はばかれり~」


 麗香が両手で身体を抱いてふざけて身体を揺らした。いつもより赤らんだ頬。浅い呼吸。俺が知らないだけでフシにも体調の優れない日もあるのかも知れない。玄関でみんなを見送ると後はよろしくお願いします、と運転手兼、保護者の権多さんに頭を下げた。リムジンに乗り組む際、イチカは俺を振り返ってちいさく「遠馬のバカ」と呟いた。何も言い返せずにエンジンが回される音を聞く。発進する車を隣に立つ麗香が手を振って見送っていた。



「木苺を摘みに行こうと思うの。帰ってきたみんなの為にケーキを作るんだ」


 二階にある麗香の個室。ごちゃごちゃと部屋に乱雑して置かれた雑貨に囲まれたベッドの上に精巧なドール人形のように奇麗な肢体を伸ばした麗香が腰掛けている。床の上に散らばった洋書さえ独特の古めかしい雰囲気を醸し出していて、洋館でひとり、永い眠りから目覚めた吸血姫に見えない事も無い。ベッドに向かい合って置かれたロッキングチェアーに座って俺は麗香の話を聞いている。


 主催としてのサプライズイベントが必要だと感じた麗香は準備の為に彼女達と別行動を取りたかったという。いつも思いつきで行動していそうな麗香にそんな図りごとがあったとは思いもしなかった。頷く俺に麗香は話を続ける。


「裏庭に美味しいラズベリーが自生してるんだ。そう、百パーセント天然製。大自然の恵みだよー。セバスチャン達に頼んで育ててもらってるの」

「人の手が加えられているなら天然製じゃない」

「もー、細かい事は気にしないのー。虫が食べちゃわないように管理してもらってるだけだしねー。さ、準備準備。部屋に戻って支度する!」


 そう言われて麗香から部屋を追い出されてしまった。木苺か。俺は少年時代に祖父と一緒に山に登った際に路傍の葉からもぎ取ったそれの酸っぱさを思い出した。


 完熟したラズベリーはその実に蓄えた芳醇な甘味と酸味が同時に味わえるらしい。確かに麗香の言うとおり、この時期に収穫というのは間違いではない。夏の日差しを一身に受け止めた甘美な食感が期待できそうだ。


 シャツの上に一枚長袖を羽織ると玄関にワンピースに麦わら帽という山を舐めているとしか思えない薄着姿で麗香が立っていた。それを咎めると「実をもぎるのは遠馬の仕事でしょー?」とサンダルを爪先でぷらぷらと弄ぶ。外に出て周りを見渡すが護衛の姿は見えない。


 普段俺達に付いてまわっている従業員は屋敷に最小限の人数を残し、残りは山を降りたイチカ達と共に出払ってしまっているようだ。


「ふたりだけで大丈夫か?」


 俺が後ろに居る麗香を振り返るとその貴婦人風の不死乙女は口元に笑みを浮かべて意味深に目を細めた。ふと腕にひやりとした感覚が触れる。俺の隣に立った麗香が行きましょう、と妙に艶を持った声で呟いた。


 電波通信速度の遅い携帯から目を離してハイキングコースの看板を頼りに砂利道を歩いて行く。山の所有者でもある麗香の指示に従って奥まった道を抜ける。すると目の前に古びた石造りの下り階段が見えた。……裏山へのコースを外れているような気がする。麗香に問い質すと「こっちの方がたくさん苺があるような気がしてきた」と目を白黒させる。もしかして迷ったんじゃないだろうな?洒落にならないぞ。


「大丈夫だよ。もしもの為にGPS持ってるから」


 麗香が顔の前に手の平に収まる大きさの円形の機器を見せて来た。今、自分が居る位置を矢印が電子表示の地図の上で指し示している。位置情報が一分おきに権多さんが持っている受信機に送られ、この木苺採集は前もって権多さんを中心とした従業員一同に話してあると麗香は語った。だったら安心か。階段を一段下ると後方の茂みが音を出して揺れた。その方角に居た麗香が「通りすがりのリスが居たよ」と平坦とした口調で微笑んでいた。


――山の天気は変わりやすい。少し前からぽつり、ぽつりと落ちていた雨粒が数分もしない内に大きな珠粒の本降りへと変わり果てた。目の前の道は舗装されたアスファルトからいつの間にか手入れの行き届いていない獣道に変わっている。さすがに不安になり、大股で倒れた木の枝を乗り越えている麗香に問い質す。


「なあ、本当にこの道の先に木苺が生えているのか」


 麗香は俺に答えずに歯を食いしばるようにして汗と雨で大きく襟元が広がったワンピースが張り付いた胸を揺らして裾を巻くって裸足で歩いている。


 息を切らし、なりふり構わず前に進もうとする麗香の姿が頭の中の官能美と結びついて身体の芯が熱くなるのを感じる。いけない。こんな時に俺は何を考えている。逃げるように視線を背ける。


 すると前方に中央線のある道路が広がり、今までの野道と比較して安心だと把握して息を吐く。路肩に建築資材や工具箱が置かれており、道は舗装中の箇所があるようで辺りに走っている車の姿は見えない。空気の薄さや雲との近さを察するに、どうやら今居る場所は駒ケ岳の中腹であるようだ。眼下に広がる景色を見下ろすと曇天の空から雷鳴が光り、数秒後に大気を轟せた。


 山のふちを取り囲むように造られたこの通りには落石注意の看板も見える。この場所に長く間、居るのは危険だ。ぬらり、と漂う生ぬるい風に本能的に危機を察して、遅れて歩く麗香の濡れた肩を抱き寄せる。


「ごめんね、遠馬。こんな所に呼び出したりして」


 長い前髪が顔に張り付いて麗香は俺に謝罪の言葉を浮かべている。俺はしっかりしろよ、不死身のフシなんだろとその場に崩れそうな細い肩を揺らす。


――今日のこいつはどこかおかしい。額から滴る雨粒を拭ってふとさっきの言葉を反芻はんすうする。こんなところ?お前はこの場所を知っていたのか?腕の中で麗香は口を横に開いて白い歯をみせて笑った。


 頭の上から地響きが揺れる音が聞こえる。

 山の頂点に近い斜面からおびただしい物量の土砂が崩れ出してきた。


 麗香が腹の奥から声を振り絞って笑い声を上げる。今までに聞いた事のないような身の毛のよだつ悦びと狂気をその一身に孕んで思い切り吐き出した声。


 次の瞬間、視界を濁った黄土色が奪い去った。

 流れる土砂が津波のように身体を飲み込んだ。


 ガードレールを乗り越えて後方に投げ飛ばされる身体。離れぬようにと麗香がしっかりと腰に腕を回している。


 押し流され、宙に浮かぶ身体。

 途切れとぎれになる意識。


 そうか、そうだったんだ。


 麗香は笑う。俺の胸元で充血した緋色の目を腫らして。下手な嘘を散々ついて、こんな所に呼び出しやがって。最初からお前の思い通りだったんだな。


 昔、本で読んだ事がある。


 愛を知らない不死身の怪物は片翼同士を持ち寄った鳥のように、雄と雌がつがいにならなければ死を迎える事が出来ない。心から信じられる相手が隣に居る事で初めて安心して永い眠りにつく事が出来る。


 それがきっと俺と麗香だったんだ。こうなってしまったらどうしようも無い。観念して目を閉じる。瞼が暗くなり、身体が土に圧し潰されてゆく。


 麗香は笑っていた。これでやっと眠れる。永かった痛みから解放されるんだって笑っていた。


 そうか、頑張ったんだな。麗香。身体の自由の効かない空間で俺も同じように笑っていた。



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