第26話 伏鳥さんは和解がしたいっ!その②
一階の庭に面した角部屋を今回の旅行で杉本イチカが寝室として使っている。廊下の角を曲がるとその部屋の前でなにやらハルがドアに聞き耳を立てている。どうやら奴はクールな見た目と異なって大分野次馬な性格らしい。ハルは俺達を見かけるとこっち、こっちと手招きした。隣に居る吉野に静かに歩くよう指し示すと俺達三人は十センチほど開かれたドアの隙間に顔を近づけて部屋の中での様子を息を呑んで観察した。
部屋の中央に置かれた天蓋が吊るされているベッドに胸元の開いたキャミソールを着たイチカが腰の位置まで毛布を被せて浮かない表情で視線を泳がせている。薄い天蓋のカーテン越しに、ベッドを挟んだその奥に身を潜めるようにして片膝をつく片岡の逆立てた短髪が見える。
ここに来る前に吉野に聞いた話によると片岡が単身、イチカの部屋にカウンセリングとして訪れたという。さっき大広間で俺に言った言葉は自分を鼓舞する為のものだったのかも知れない。口を噤んでいたイチカが静かに話し始めた。
「あたし、中学に上がった時、仲の良い友達が近くに居なくて。ひとりでも負けないように強くなりたかった。そうしてこんなギャルのカッコしてみんなに壁を作ってた。暗かったよ。私の中学時代は。クラスメイトや教師にも見た目で判断されちゃうし。このままじゃダメだと思った。ギャルなのに生徒会に入ったのもわかりやすいキャラ付けをしたかったから。そしたら友達が増えたからこれで良いんだ、って思った。高校に入って遠馬と再会するまでは」
自戒するようなイチカの話を片岡がひとつ、ひとつ静かに頷いて聴いている。
「子供の頃より身体が大きくなったし、生徒会としての仕事も経験して大人の女として自信があった。でも遠馬は、わたしの事なんてなんとも思ってないカンジだった」
イチカの褐色に焼けた健康的な柔肌を窓から差し込む日差しが照らしている。酷い人ですね、そのトウマっていう人は。ハルがそんな表情をして俺を眺めている。
……お前たちはやり方が直接的過ぎるんだよ。安易に女の武器を使って下半身に訴えかけようとし過ぎだ。閑話休題とばかりに視線をベッドに戻す。
「ひどいヤツだな。橘は」
俺への嫉妬と怒りを押し殺して片岡がイチカの言葉に同調した。
「でも遠馬らしいな、と思って。てかその前に部屋で遠馬をからかっている麗香ちゃんを見たときにこれは勝負あり、って思っちゃった。初めから負け腰だった。だからあんな馬鹿みたいな誘い方しちゃったんだ」
梅雨前、イチカに生徒会室に呼び出された一件を思い出した。その時に身体に柔肌を擦り合わされてひどく動揺したが、あの時イチカも動揺していたのだ。
再会を喜ぶ暇も無く、身体を使ってまで幼少時代の想い人を振り向かせたい。その焦りの原因はイレギュラーな麗香の登場に他ならない。数秒近くイチカの胸元に目線を向けていた片岡がとうとう堪えきれずにボロを出した。
「その、橘に使った誘い方とはどんな?」
あの馬鹿、目の前の女体の誘惑に負けやがって。呆れて額に手を置くとイチカは吹っ切れた表情で片岡を見つめ返した。
「それ、今ここでアンタにしてあげようか?」
毛布を跳ね除けてイチカがひと思いにキャミソールの裾を捲くる。ドアに背を向けているイチカの美しいくびれと背中が露わになる。
「ちょっと待ったー!」
俺の後ろに居た吉野が驚いて部屋に飛び込んで仲裁に入る。腰が抜けたように情けなく床に転がった片岡を部屋に入って見下ろすと服の裾を下したイチカが口を膨らませて俺を横目で睨んだ。
「盗み聞きしてるのなんて気付いてたし。この馬鹿遠馬」
「また慣れない色気を使おうとしたな」
「こんな話、早く終わらせたかったんだっつの」
天蓋を引く俺と目が合うとイチカは視線を目の前の毛布に落とした。
「わたし、麗香ちゃんにひどい事言っちゃった。最低だよね。せっかく旅行に誘ってくれた相手を悲しませちゃうなんて。早く会って謝らなきゃ」
決意を噛み締めて視線を上げたイチカの言葉に俺達は強く頷く。廊下の向こうから大変です、とおばさんの声がどたどたと足音を連れてこっちへ向かってくる。その声の主である麗香と近しい間柄の従業員さんは俺達の顔を見比べて訊いた。
「麗香様が自分の部屋にいらっしゃらないのです。こちらへは来ていませんでしょうか?」
「あのフシ、面倒な事にこの場に及んで失踪ですか」
ハルが腹立たしいという態度で腕を組んだ。ふと、俺の頭に駅から屋敷に来るまでの順路が浮かんだ。麗香が向かいそうな場所は何処だ?脳内シミュレートを描いて屋敷の玄関を飛び出した。
俺の後を「待ってくださいよ」とハルを筆頭とした四人が付いて来る。
麗香と付き合いの“深い”俺にはすぐ分かった。駒ケ岳が見渡せる野原の小高い丘になっている場所に麗香がわかり易く胡坐をかいて背中を向けていた。ハルが感心したように俺の顔を覗き込む。
「さすが、タチバナくん。やるじゃないですか。煙とフシは高い所に昇ると言いますしね」
「ここは俺に任せてくれ」
空気を読まないハルを押しのけて丘の
「遠馬、どうしてあたしが居る場所が分かったの?」
「お前の考えてる事なんてまるっとお見通しだ。こっちへ来てくれないか」
俺が手招きするとイチカがおずおずとその場から少しずつ前に足を踏み出して俺達の居る丘に歩み寄ってくる。すると麗香が勢いよくその場を立ち上がってイチカに向かって駆け出して身体を預けるようにして広げられたその腕の中に飛び込んだ。
「イチカちゃんごめん!あたし、イチカちゃんの気持ちも考えずにあんな傲慢な事言っちゃって」
「いいよ。わたしの方こそ居なければいいなんて、人として最低だよね。ごめんなさい」
夕日を背景に抱き合ってそれぞれに謝罪の言葉を浮かべる麗香とイチカ。それは少女たちが本音でぶつかり合った青春の一コマなのかも知れない。近寄って来たハルが感慨に浸る俺の脛を思い切り爪先で蹴った。よろめく姿を見てハルが抑揚の無い声で言った。
「誰のせいでこんな面倒な事になったと思ってるんです。貴重な旅行の一日が喧嘩で潰れちゃったじゃないですか」
「はは、坂神さんが旅行を愉しんでるようでなによりだ」
そんな俺達の様子を見ていたのか、イチカと仲直りした麗香がこっちに手をぶんぶん振って近づいてきた。
「あ、春子さん発見!来てくれたんだー。ちいさいから見えんかったわー。遊びに連れて行けなくてごめんねー」
「春子さんと呼ぶのは止めてください」
「んじゃー、なんて呼べばいいのよー」
口をすぼめてからかう麗香にハルと呼んでやれ、と俺が仲裁するとハルが少し頭を傾けて礼を言った。
「旅行に誘ってくれた事には感謝しています。ありがとうございます。その、伏鳥、さん」
「ねえ、訊いた?遠馬」
麗香が嬉しそうに口を開いて驚いた表情を俺に向けると権多さんが運転する4WD車のエンジン音が夕空に響いてその車体を俺達の前に現した。
「さ、これにて一件落着って感じだな」
「帰ってみんなでゲームでもしようぜ」
「いいねー。わたしトランプ持ってきたよ」
出迎える権多さんを前に吉野達が楽しく会話を弾ませている。ハルは恥ずかしそうに顔を赤らめてそそくさと車に乗り込んだ。
「遠馬、ありがとう」
誰もが視線を車に向けた瞬間に麗香の唇が俺の頬に触れた。思っても見なかったタイミングによる不意打ちのキス。あっけに取られた俺を通り過ぎて「たくさん泣いたらお腹空いちゃった」と何事も無く権多さんに話しかけて麗香は身体をさすっている。
これでよかったんだ。俺は麗香を想い、麗香もまた俺を想ってくれている。
イチカ。面と向かってはいえないけど、ごめんな。夕暮れに長く伸びるポニーテールのシルエットに何度も俺は心の中でそう告げていた。
帰りの車で隣に座る麗香が「ハルがあたしを名前で呼んでくれた」とはしゃいでいる。分かちがたかったフシと防人としてのふたりの邂逅。その距離がなんだか誇らしくて俺はそのひと時の幸せを車のシートの上で噛み締めていた。
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