第24話 伏鳥さんは出掛けたいっ!その④
入り口でキイ、と蝶番が揺れる音。
ハルが顎で早く箪笥の中に隠れて、と指し示す。急いで収納された衣服を引き摺り出してその中に身を潜める。狭い箱の中で乗り込んできたハルとでお互いの足を絡めるようにして息を潜めるとドアがばたん、と閉じる音を聞く。
「あれ~?電気が点いてる。掃除の時につけっぱのままだったのかな~」
どうやら部屋に入ってきたのは麗香のようだ。驚いて喉が引きあがった俺を見てハルが静かに、と口元に指を立てる。狭い箪笥の中でハルの足裏が俺の股間の上に乗っていて、何かの拍子で指先が動くたびに俺は恥をかかない様に気を張っていなければならなかった。
「こんなド深夜に呼び出したりして。まーでもその方がお泊り感出るよね」
麗香の後に部屋に入った人物が話し声を上げた。女性的な落ち着いた口調から相手はイチカだと推測できる。
「よいしょ」と麗香がどこかに腰を掛けて息を吐いた。部屋の間取りから、奥に置かれている机の上に身体を傾けたと思われる。「面と向かって話すのは何気に初めてだよね。少し緊張する」イチカがさっきのハルと同じようにロッキンチェアーの背もたれに手を掛けて揺らしている。「あたしも実はちょっと緊張してる」軋む床板を這って麗香の深呼吸が聞こえる。
張り詰めた空気の中、麗香はイチカにこう切り出した。
「夜も遅いし、単刀直入に言うね。イチカちゃんには遠馬の事を諦めて欲しいんだ」
「はあ!?いきなり何言ってんの?」
噴き出した俺の声がイチカの抗議にかき消された。箪笥の中で向かい合っているハルが恐い顔をして俺を睨む。床板を踏みしめてイチカが麗香に歩み寄る。
「わたしが遠馬の事が好きなの知ってるよね?あんたが遊び感覚で遠馬をおもちゃにしてるのは目を瞑ってたけど、とうとう彼女ヅラなワケ?」
イチカが麗香に対して語気を荒げている。イチカは昔からすぐに感情的になって相手に食って掛かる悪癖がある。おそらく今も麗香に顔を近づけて鋭い視線を向けているのだろう。麗香は落ち着いた口調で俺との既成事実をイチカに告げた。
「遠馬とキスした」
部屋に吹いた風のような一瞬の静寂。
繊細で甘美なその響きで稲妻に撃たれたように身震いする幸福な感覚。
あらまあ、というお節介焼きな表情でハルは俺の顔を眺めている。
「ああ、それでマジになっちゃった感じなんだ。でもわたしの方が遠馬と付き合い長いし、内面についても良く知ってる。幼馴染だからね。小学時代の演劇部も一緒だったし、ふたりだけの想い出だってある」
イチカは納得したように声を落ち着かせて『第一回チキチキ橘遠馬争奪恋のバトル』に対しての自身のアドバンテージを示してみせた。
「でも、遠馬はあたしのこと、好きだし」
消え入りそうな入りから良く通る芯の強い麗香の声。ハルがどうなんです?とジト目で見つめてくる。「あんたねぇ」イチカが学校での役職柄、慣れた口調で諭すように話し始めた。
「そりゃあねぇ、フツーの男子だったらそんなに胸放り出して抱きついてきたら自分に気があるんだな、って思っちゃうよ。てかさ、麗香は遠馬に露骨にアピールし過ぎだよね。前々から少し気になってたんだ。わたしの方が順番先だよ」
部屋の空気感が変わり、麗香が腰掛けている机がぎしぎしと揺れる。キャットファイト、少し楽しそうにハルの口が声を発さず上下に動く。机にもたれ掛かって手を握り合って押し問答しているふたりの姿が想像される。きつく結んだ口元から吐息を漏らして麗香の声がイチカを押し返す。
「順番なんか、関係ないし。あたしの方が遠馬の事好きなんだからイチカちゃん、譲ってよ」
「嫌、どこの誰かも分からない相手に遠馬は渡したくない!」
お互いに想いを譲らない。語り出せばキリの無い喧嘩にイチカが声を張り上げた。
「あんた何なの?なんで高校生なのにこんな所に別荘なんて持ってんのよ!嫉妬する気も起きないくらいに美人で、スタイル良くてさ……あんたが来て遠馬はおかしくなった。これ以上わたし達を振り回さないでよ!」
ふっと、麗香の力が抜けたのが床板と空気を通して伝わる。それを見て一気呵成にイチカが問い詰めるような強い言葉を突きつけた。
「あんたのせいよ!あんたさえ現れなければ!」
「それ以上言うな!」
思わず箪笥から姿を現していた。居る筈も無い場所から突然現れた俺を見てふたりが驚いて目を見開く。
「それ以上、麗香を悪く言ったら俺は生涯、ずっとイチカを軽蔑する」
パジャマ姿にノーメイクな顔のイチカに視線を向けると「何よそれ」とその表情が曇り始める。
「遠馬、なんで居るの?」
見られたくなかった。聞かれなくなかった。そんな気持ちを表すように頬を手で覆って麗香が頭を揺らしている。部屋着である大きく胸元の開いたワンピースを着た麗香をみつめるとハルがのたのたと箪笥の中から歩いてきた。
「あーあ、バレちゃった。どうするんですかー?この空気」
修羅場に割り込んだ俺を中心に女子三人が取り囲むように視線を向けている。甲高い涙声がその静寂を破った。イチカが泣きながら部屋を飛び出して後ろで結んだ金色の髪をはためかせて暗闇の中に消えていく。
「場の空気でタチバナくんの正義感、出ちゃいましたねー。でもまあ、その調子で期待してますよ」
荒れたその場を締めるようにぱん、と手を叩いたハルがドアに向かって歩き出した。ドアをくぐる時、ハルはちらりとさっき俺に手渡した注射器が納められているポケットを眺めた。入れ違うように大勢の人物が廊下を駆けてくる音が響く。
「何かありましたか、お嬢様?」
権多さんを中心とした屋敷に居る男性スタッフが部屋にやって来た。俺は机に近づいて、手を伸ばして震えている麗香の肩に触れる。麗香はその手を跳ね除けて涙が伝う頬を両手で覆った。
「橘様、今日のところはこの辺りで」
嗚咽が止まらない麗香を前にして権多さんに制止され、俺は他の従業員に自分の部屋に戻るよう言い渡された。心配そうに権多さんから呼びかけられている麗香の姿を閉まるドアの間から覗き込む。
その夜、俺はほとんど眠れなかった。イチカがどうして麗香にあんな事を言おうとしたのか。俺がきっかけでみんなの気持ちがざわついている。強い風が庭の木々を揺らして千切れた葉を空に流していくのが、俺が横たわるベッドから窓を通して見えた。
やがて夜が明ける。俺達の軽井沢旅行はまだ一日目を終えたばかりだ。
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