第10話 伏鳥さんは世界を救いたいっ!その④

 滴り落ちる雨が大気を煙らせる、そんな冷ややかな葬儀だった。


 参列者の列がまばらになり、隣で告別式の受付をしていた母がしんみりとした口調でおじいさんの旅立ちを慈しむような雨ね、と俺と視線を合わせずに言った。大分前からこの日の事は家族間で話し合われており、書名を頂いた祖父の親戚も享年七十よ。あの人のように自由に生きてこられたら少し早いけど大往生よ、と妙に明るい口調で話していたのを憶えている。


 参列者には見覚えのある顔や生前祖父と付き合いのある遊び仲間など数多くの人物が訪れた。学生服を着て応対する俺を見て祖父の妹のおばさんが遠馬くん大きくなったねぇ、と深い皺の刻まれた両手で差し出した俺の手を包み込んで真っ白くなった頭を下げた。一応言っておくけど俺に特別なご利益はない。ないはずだ。


 参列者や母の話を聞くと自分が産まれる前まで祖父である九蔵は波乱万丈な人生を送ってきたらしい。探検家として世界中を渡り歩き、長期にわたる北朝鮮国への滞在。帰国して鉄道会社に勤めるも数年で退社。様々な職種を経験し、最後は自分が新規で立ち上げた企業に追い出されるように定年退職した。


「こちらに署名をお願いします」


 訪れた人物を見あげて俺は芳名帳にペンを落とした。その相手は壮年の女性で喪服の襟から伸びた首には二つの顔が有った。


「ヤン・ヨンギ様ですね。孫が失礼を」


 驚いて硬直した俺に代わって母がすみやかに芳名帳を相手に差し出した。ヤン・ヨンギと名乗る双生児のその女性は右側の顔で気にしなくていいのよ、という風に笑顔を見せた。もう片方の左側の顔で知り合いを見つけると書名を記してそっちの方へまだ笑顔を浮かべている右顔を引っ張るようにして歩いていった。


 俺が荒い呼吸を整えているとおじいちゃんの昔のお知り合いね、と母が何事もなかったような口調で告げた。あの双顔の女性は祖父が北朝鮮でいれ込んだ著名な歌手だったそうだ。そういえば昔「遠馬、隣の国には歌の上手なお顔がふたつあるおねぇさんがるけぇ」なんて祖父が話していたっけ。祖父との思い出はどうしてもけてしまっていた時期が長いため、それも何かの思い違いか、作り話だと思い込んでいた。すると、この度はどうも、と整った女性の声が聞こえてきた。


 正面を見据えると黒い薔薇の刺繍が施された傘を差したその下に麗香が立っていた。

 白い足袋を履いて喪服は黒の羽二重。

 雨除けに入って傘を閉じると黒革のハンドバッグを正面に持ち、目を瞑って俺と母に小さい角度で頭を下げた。


――どうして麗香がこの場に呼ばれたのかは分からない。招待されたのは親族と生前親しい付き合いのあった人物だけのはずだ。なぜこの場にお前が来る。


 それにおまえは学生なんだから制服でいいんだよ、と言いたくなる気持ちを抑えてペンを手渡す。麗香はすらすらと綺麗な文字で署名を済ますと神妙な面持ちで俺と目を合わせた後、傘を差し直して寺院の奥へ続く小道を進んでいった。その後姿に見惚れていた母が麗香ちゃんは本当に良い娘ね、と声を上擦らせていた。


 高速道路でのあの一件以来、麗香とはほとんど会話を交わしていない。


 フシである麗香もさすがにあれだけの出血は堪えたのか、学校を二日続けて休んでいた。祖父とは面識が無いにしても身をとして救った相手が老衰で死んでしまったら精神的に来するものがあるだろう。孫の立場として、もちろん感謝はしている。おじいちゃん、なんで助けてもらったのにこんなに早く逝っちまうんだよ。麗香に対しても申し訳ない、という気持ちが込み上げていた。


 参列者の受付が済んで祖父との最期のお別れが始まった。


 祖父が眠る棺に細い指で供花をたむける麗香を見て俺はトラックに弾かれてそのちぎれた肉体を再生させる麗香の姿を思い出した。


 道路一面に散らばる俺が提供したものが混じった真赤な血液。欠損した箇所を埋めるように生成される文字通りの血管が透き抜けた白い裸体。


 度を超えたグロテスクは時としてエロスとして昇華するらしい。衣服のすべてが着れ切れになった麗香の姿を両の腕で抱き上げる自分の姿を思い浮かべてこれだけの参列者を前にして下腹部が悶えている。最低だな俺。こんな時に何を考えてるんだろう。仏頂面で母方の親戚と同じ列に並んだ麗香が俺を見て嗤ったような気がしていた。


 告別式が終わり、祖父の棺が霊柩車に載せられ出棺の儀が始まった。喪主である父のお別れの挨拶が行われると雨で煙る灰色空に長いクラクションが響き渡った。火葬場へと運ばれる祖父が乗るその霊柩車を合掌して見送っていると祖父がいつか俺に話していた与太話を思いだした。


 あれは俺が高校受験の前の冬だったっけな。だとしたら割りと最近の話だ。三者面談に内申書。塾通いに学力テストと長期に渡る受験戦争にほとほとくたびれていた俺に祖父はこたつで茶を啜りながら俺に自身が体験した昔話を繰り広げていたと思う。正直言ってじいさんの話だから、と半分くらい聞き流していたのだけどその内のひとつがその日降り続いていた窓の外の雪景色と共に鮮明に思い起こされた。


「あれは、おじいちゃんが鉄道に勤めてた頃だったなぁ。年に何回か運転手や整備工が持ち回りの交代で地方へいくんじゃ。今のもんにわかり易く言うと出張みたいなもんだがぁ。おれはその中でも年に一度向かわされていた、名古屋の街が楽しみじゃった」


 じいちゃんはそこまで言うと台所の方を振り返った。


「ばあさんは聞いとらんけぇ?」


 俺はそれを聞いて生前よく煮しめを作ってくれた祖父の姿を思い出してがくっと肩を落としたと思う。ばぁちゃんはもうとっくに死んでるでしょ、と告げる気にもならず広げた学習帳にペンを向けるとこたつに再び身を埋めたじいちゃんが話を続けた。


「現地で宿直が終わると東京に戻るまで二、三日休暇がもらえるけん。そいで歳の近い連中と一緒にネオン街へ繰り出すわけよ。その同僚が贔屓にしている店に偉いべっぴんさんがおってな。同じ場所で酒を注がれるだけですっかり骨抜きにされてしもうて名古屋に来るたびにその女に逢うのが俺のささやかな愉しみじゃった」


 じいちゃんがこう言った戯言を話すことは過去に何度もあった。その度に俺は旧時代労働者の自慢話を聞かされているようでうんざりした気持ちに陥った。


「そのべっぴんさん、いつ店に行っても歳をとらんかったけぇ」


 火葬場に向かう車の中で祖父が言ったその一言が頭の中でリフレインする。よせよ、無駄な詮索は止めておけ。水商売の女が齢を偽ったり、化粧で外見を誤魔化すのは良くある話だろ。そうだ、そんな筈は無い。自分に言い聞かせるように頭を振ると次の一言が俺の思考に絡み付いてくる。


「鉄道の仕事を辞めても度々名古屋に行く機会があってな。名古屋と聞くといつもあの店で働くあの娘の姿が頭にあった。素性も知れない飲み屋の女に入れ込んじまった訳だよ。でもいつ店に行ってもあの娘はいつまでも少女の姿のままじゃったけぇ」


――考えるのを止めよう。痴呆による記憶の混同だ。頬を流れる脂汗を手の甲で拭ってその焼きあがった当事者の骨を拾う。食事の時に行儀が悪いとされる『箸渡し』を隣にいる母と交わすとこれが喉仏です、と係員が言って見せてきてしばらくすると壷への骨上げが済んだ。その係員が祖父が詰め込まれた壷を持ち上げて奥へと消えていくとこれで本当におじいちゃんとお別れね、と母が俺の後ろで呟いた。


 もし、これはもしもの仮定の話だけど。祖父が名古屋で遇っていた人物が麗香だったとしよう。だとしたら祖父と麗香との恋路はどこまで進展したのだろう。もやもやと晴れない気持ちを抱え、葬儀は終わり週が変わって学校が始まった。



「なぁ、今日からこのクラスに転校生が来るらしいぜ」

「まじか。6月の初めだぜ。時期が中途半端すぎるだろー。絶対前の学校で何かやらかしてこっちに飛ばされたに違いねぇな」


 教室の後ろで吉野と片岡がいつものように馬鹿話をするトーンで噂話をしている。麗香が大破させてしまった吉野のクロスバイクの弁償の件も含めてそいつらに話しかけると吉野が片岡に向き直って話を続けた。


「それで転校生なんだけど、どうも女子らしいんだ。見かけたヤツのタレコミによると小動物系で可愛いっぽいとの情報が。オレ達にもワンチャンあるかもしれねー」


 吉野が憎たらしい目で彼女持ちである俺の方を横目で睨む(ただし彼女はフシとする)と片岡がそんなヤツ、見かけに寄らず絶対不良だろ、とさっきの持論を持ち出して笑う。


「はい、席に着いてー」


 担任である三十代独身女性の前田先生はざわついたクラスを静かにさせると今日からみんなと一緒に勉強する新しいお友達を紹介します、と小学生に言うような口調で俺達に告げた。吉野を中心として盛り上がる馬鹿男子一同。正面のドアが開くと俺はひっと、喉の奥が引き上がった。


「今日からお世話になります坂神春子です。ふつつかものですがよろしくお願いします」


 まるで交際宣言のような、場に不相応な自己紹介が始まって黒板に自分の名を動物のイラスト付きで書き始めるフシ対策第一人者である防人の末裔、坂神春子ことハル。都合よく俺の隣の席が空いており、前田先生がそこにハルを座るよう指し示す。鞄を机に引っ掛けると学校指定の制服をかっちりと着たハルは俺を見て誇らしげに微笑んだ。


「防人の権力を行使すれば東京の学校への転校くらいお茶の子さいさいです。フシに一番近い一般人としてこれからは私直々に貴方を監視させて頂きます」


 ツッコミたい事が山ほどあって、おいと声を掛けるが感謝してください、と見当外れの一言を残してつっけんどんにハルは黒板を向き直った。


 こうしてナガモン型防人であるハルが俺のクラスに転校してきたのだった。フシを中心として巻き起こる騒動の渦に俺はこのとき既にすっかりと飲み込まれていた。



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