第9話 伏鳥さんは世界を救いたいっ!その③
電話を受けたイチカの話に寄ると、俺の祖父である
以前にも話したが祖父はずいぶん前から老化が進んでおり、ひとりで自転車を漕いで夕暮れまで商店街を徘徊する姿を見て家族も心配していたけど、まさかこんな大規模テロなボケをかましてくれるとは。決して笑い事ではない。何か事故を起こす前にすぐさま家に連れ戻さなくては。
こんな時に余談だが俺の名前の遠馬はじいさんから9の数字をバトンとして受け継いだモノらしい。生まれた子供が母さん一人だったからその使命は俺に引き継がれた。9から10(とう)というワケだ。少し無理があった感じは否めない。
心を落ち着けるためにそんな軽口を交わしながら河川敷に出た俺と麗香。すると目の前の土手に夕日を背景として吉野と片岡が自転車を押しながら歩いている。
吉野は先週までその大衆ブランドのロゴが白字で記された青色のクロスバイクを持っていなかったから、どうせ
「このバイク、専門店で買ったんだぜ。サドルの高さも走りに最適化された一級品なんだぜ」
みたいなセリフを自慢げに言っているのだが、昨日のサッカー国際試合で代表チームが南米チーム相手に手も足も出せずに敗北したショックを引きずっている片岡に生返事で濁されているのだろう。
麗香はいつかの放課後のようにざざざ、とローファーの底を削りながら芝を滑り降りると後ろから吉野が押すクロスバイクのハンドルに手を掛けた。「わっ、なにすんだよ!」遅れて来た俺も片岡の安物の五段変則のマウンテンバイクに手を伸ばす。
やはりうわの空だった片岡が意識を集中させた時には既に遅かった。追いすがるように手を伸ばす二人を尻目に俺と麗香は奪った自転車を漕いで砂利道を走りだす。
「ごめんね。緊急事態なの~。ちょっとの間だから貸してねツーイデオッツー」
吉野と片岡の罵声を背に、馴れた手つきでギアを替える麗香。斬った風にスカートがたなびいて隣でペダルを漕ぐ麗香を眺めていると女子高の駐輪場でサドルを盗む変質者の気持ちが少しだけ理解できた気がする。
いかんいかん。最近の俺は女の後を付いてばっかりだ。それに今回の事件を引き起こしたのは俺の身内である。イニシアチブを取らなければならない。俺はギアを重いモノに替えて立ち漕ぎで力強く夕暮れでごった返す商店街の道路脇を駆け抜けていった。
――事件現場である桜丘インターの入り口。きっちりとした紺色の制服を着た大人たちがバーの降りた小屋の周りで口々に何かを言っているのが見えた。どうやら徘徊老人をこの先に通してしまった責任問題を押しつけあっているようだ。
まったく、この際通した誰が悪いとかそんな事で言い争っている場合ではないと言うのに。それに通した、通さないの水掛け論になるのならそれは数秒後にもっと罪状が重くなる事を示している。俺と麗香はその言い合いの間を縫うようにして道路脇に狭い通路をバーを押しのけてその先の道路へと進入した。
更なる突破自転車を許した大人たちの慌てふためく大声をBGMに俺と麗香は少し漕ぐ速度を緩めながら高掛けの道路の上から眼下の一般道を見下ろした。そこには日常生活では決して見られない剥き出しの壮大な景色が広がっていた。大型のトラックがすれ違う度に数秒遅れで身体を引っ張るような強烈な風が身体の横をすり抜ける。
不謹慎である、と前置きしておくが、きっとじいちゃんも今の俺と同じように心が高鳴ったに違いない。あの老体だ。まだすぐ近くに居るに違いない。
「見つけた」。俺を風除けとして後ろを走っていた麗香が道路から身を乗り出すようにして声を出した。すぐとなりのインターチェンジに入るための減速ポイントに近い場所で短髪の老人が鼻息荒くドライバーの眠気防止を促す盛り上がったポイントを乗り越えながらママチャリのハンドルを動かしている。ときおり、車線にはみ出そうになるもそれに停まるトラックは見当たらない(高速道路なので当たり前だが)。
片岡から奪ったマウンテンバイクを立ち漕いで射程圏内に捉えると「おじいちゃん!」と大きく声を出して相手の興味を引く。大分前から耳が遠くなっているらしい。この風の中俺の声は届くだろうか。
俺の呼びかけもむなしくじいさんの自転車は停まらずにむしろその場から加速するようにして進んでいく。おい、追いかけっこじゃないんだぞ。声を荒げそうになったその時、対向車線から大きな貨物を積んだ八tトラックが目に飛び込んできた。その推進力に吸い寄せられるようにじいちゃんの自転車が向かっていく。もうダメだ、そう思ったその瞬間、
麗香が反対車線に飛び出していた。
俺が衝突事故を確信して目を瞑った途端、後ろにいた麗香が俺を追い抜いて大回りでじいさんの横に近づくと自転車のペダルを踏み台にしてその老人に抱きつくようにして宙を舞った。スローモーションの景色の中、ママチャリに跨るじいさんは左車線へと突き飛ばされ猛スピードで飛び込んできた大型トラックの車体に麗香の身体が飲み込まれていった。
「麗香、おい、麗香!」
大量の血を撒き散らしながら麗香の身体が大きく弾き飛ばされた。周りの風景が停まり、推進力を得た麗香の身体だけがその空間の中で動いている。屋上から転落したあの時と同じように硬いアスファルトに頭を打ちつけるとそこを中心にして血溜まりが広がった。バンパーがへこんだトラックがその場に停まって真っ青な顔をした運転手が降りてくると数メートル手前で横たわる麗香を見てその場でへたりこんだ。
「終わった。オレの人生。年明けに子供が産まれたばかりだって言うのに……会社や取引先になんて説明すればいいんだよぉぉぉおお!!」
取り乱す三十代前後と思われる髭面の運転手に「あいつ死なない体質なんで大丈夫です」とメンタルケアとして声を掛けてやると俺はまず、道路脇で横たわっているじいさんに駆け寄った。俺がおじいちゃん、飯山さん、九蔵さん、と名前を呼び分けて声を掛けるがぴくりとも反応が無い。もしかしてこのまま?最悪の展開が頭に浮かび、AEDを探しに立ち上がったその途端、
「じいちゃんはまだおっちんじゃいないがぁ」
細く、指で摘まんだら千切れてしまいそうな、注意して聴かないと聞き取れないような発音の悪い濁声が俺の耳元へ届く。よかった。振り返って大きく息をつくとじいちゃんはその場をふらふらと立ち上がってフレームが曲がった自転車に再び跨ろうとする。それを見てもうよ止せよ、と両脇を掴みあげて路肩に座らせてやる。 じいさんはへへへ、と笑うと
「こんなじじいがあんな若い子に抱き付かれるなんてこったら嬉しい事はないでなぁ」
と先で転がっている麗香を見つめた。辺りには麗香の血がアスファルトを点々と赤く染めている。大丈夫、あいつはフシなんだから。自分にそう思い込ませるようにして唾を呑み込んで横たわる麗香に近寄る。
麗香の容態は想像していたより重い症状だった。
本人お気に入りのブラウスは散り塵に敗れ、シャツはボタンがほとんど飛んで中から白い肌が剥き出しになっている。身体の右側でトラックの衝突を受けたらしく右腕は付け根から捻れて曲がり、アスファルトへ叩きつけられた衝撃で頭の左半分が潰れていた。摩擦で肉が焼ける臭いがしている事に気付いて胸の奥にどろっとした不快感が込み上げてくる。
それでも少しづつ再生は始まっているようでほとんど外傷のなかった足のすりむけた傷はクリーナーをかけたように元通り修復されていく。捻れていた右腕が宙に糸で吊られたみたいに内側を向くと大丈夫、と意思表示するように指が曲げられてピースサインが作られる。
大丈夫だ。麗香にははっきりと意識がある。
そこで安心して息を吐き出したい所だが正面衝突した際に出来た右わき腹の症状は深刻だ。摩擦で皮膚が焼け爛れて肉が抉れている。どうするんだ、と眺めていると欠損した箇所に血の管が伸びてそこに粘土をくっ付けた様に肉体が生成されていく。
あわ立った筋組織の表面にキメ細やかな肌が載せられていく。これがもし映像作品なら吐き気が込み上げて目を伏せたくなるような駄作だが俺は当事者として目を逸らす事はしないと決めていた。太い血管が伸びてそれらを支える骨が作られてゆっくりと今までの工程を確認するように掌が握られるその一連の流れはグロテスクさを通り越して母親が子供を産み落とすように神秘的な美しさを俺に感じさせた。
どうかしてる、自嘲気味に自分の姿を嗤うとすっかり身体も服も元通りに“直った”麗香が猫が伸びをするようなしなやかさで体を持ち上げて前方向に腕を伸ばした。地球の重力を感じてそれに抗うように揺れる胸も元通りだ。俺が咳払いをひとつすると麗香が大きな目でうちのじいさんを探し始めた。俺が元居た場所を振り返るとじいさんが腰に手を当ててゆっくりとこっちへと近づいてくる。
「遠馬のおじいちゃん!体感間に合うか微妙だったけど無事でホントよかった……?」
祖父に駆け寄ろうとする麗香を押し留めて俺はどうしても孫としてこの言葉を告げて本人から真意を聞かなければならなかった。
『どうしてこんな事をしたんだ。みんなに迷惑をかける事はわかってたはずなのに』
俺の質問に祖父はほとんど歯の抜けた口元を膨らませて視線を宙へと泳がせながら俺達にぽつり、とこう言った。
「世界を、救ってみたかったんじゃぁ」
…………はい?
「あー、今日の昼ロー、米国製の戦争映画だったよねー。あの映画麗香も好きー」
「わしも若い頃はあの男のように敵国兵相手に立ち回ったもんじゃぁ」
俺が未視聴である某映画の話で華を咲かす麗香と俺の祖父。おい、待て。まさかそんな映画に影響されてこんな事件を巻き起こしたんじゃないだろうな。てかじいさん、あんた世代的に戦争経験者じゃないだろ。遠くからサイレンの音が響いて今更パトカーが駆けつけたと思ったら中から作業服を着た坂神春子、もといハルが降りてきた。すげぇな。防人ってヤツは国家権力さえ自由に動かせんのかよ。ハルはトラック運転手の身柄を警察に引き渡すと自分は警備用のヘルメットを被って腰元の警棒を伸ばし、交通整理をし始めた。
「はい、自然渋滞でーす。片側一車線でお願いしまーす……今回は状況が込み入っているんで見逃してあげます。覚えていなさい。フシとそれを擁護する男子高校生」
こっちを睨みながら恨み言を呟くハルをあしらっていると祖父がゆっくりと細く長い溜息をすぼめた口元から吐き出して呟くようにして俺に語った。
「人生、こんな長く生き取ったらわかっとるけぇ。わしはなぁんの力も持っとらん。でも、最後にもがいてみたかったんじゃぁ。そしたら、おまえの嫁さんが
呆然と立ちすくむ俺の肩に力強く手を置いた後、祖父は事件を聞きつけて迎えに来た家族が待つ車の方へと歩き出した。
「おじいちゃんって言ってくれたな」
俺は何言ってんだよ、と誤魔化した後、鼻を啜った。麗香に目が赤くなっていると冷やかされた。事件はハルがフシ絡みの一件として立証し、防人としての権力を公使するとして穏便に処理させてもらうと話していた。
そして事件が収束に向けて動き出したその週の金曜日、俺の祖父飯山九蔵は息を引き取った。眠るような安らかな死に顔だった。
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