第18話苦手なことは

「せーんぱい」

 で、帰ってすぐ。鞄だけ部屋に置き、警戒させないようにあくまでにこやかに、自室の隣、先輩の部屋の扉を叩けば、部屋着でリラックスした様子の先輩が顔を出した。おいこら、と言いかけるのを飲み込んで口元だけ笑う。

「どうした」

「今日は俺と一体どこに行ってたんです? 俺は今日図書館にいたんですけど」

 先輩は一瞬きょとんとして、すぐにはっと息を飲んだ。俺の言いたいことが分かったらしい。笑顔を引っ込めてじっと無言で見つめ続けていると、何かを言おうとしてはまた口を閉じてしまう。

「う、む……いや、これには深いわけが、あって……その……」

 先輩はひどくためらっていたが、最終的に肩を落として上目遣いにこちらを見上げた。

「……言い訳がしたいって言ったら、聞いてくれるか?」

 そういう態度が初めてで一瞬戸惑ったが、即座に頷く。

「むしろ俺が教えてほしい側なので。入れてもらっていいですか」

 先輩は頷くと、俺をローテーブルの前に座らせて紅茶を入れながらため息をついた。

「どうしてバレたんだ……」

「偶然図書館で会ったんです。その後、少しお話して」

 先輩は「なんてことだ」と呻いたが、肩を落として観念したように首を横に振った。

「……むしろ、この方がよかったのかもしれん。嘘を重ねて続けてからバレるよりは、な」

 寂しそうな自嘲になんと言ったものか分かりかねて、紅茶をぐるぐるかき混ぜる。

「俺も質問していいですか」

「うん」

「先輩、林さんと仲いいんですか?」

「……悪いわけでは、ないはずだ。少なくとも私は、彼女のことは嫌ってない」

 嫌ってない。なんだか迂遠な言い回しだ。まあつまり割と仲いいんだろうけど……。

「じゃあ、どうして俺と約束があるなんて嘘ついたんです? 今日だけじゃないんですよね」

「ああ、今日が二回目だ」

 先輩は素直に頷いて、赤いマグカップに口をつけた。軽く舌を湿らせて、気まずそうに口を開く。

「お前の知っている通り、私は少々……危険な仕事をしているだろう? なるべくバレないようにしてはいるが、あんまり親しくしてしまうと良くないと思ってだな」

「その割には俺にあっさり見破られてましたけど」

「私のその迂闊さも踏まえての話だ! 私のせいで彼女を巻き込むようなことがあっては……」

 その先は、口に出さなくても分かった。俺と同じような葛藤が、林さんに対してもあるわけだ。元々人付き合いが得意なわけではないわけで、そこにややこしい事情が絡んでどうしようもなくなってしまっているということか。うつむく先輩の瞳を見つめると、自然と心配するような声が出た。

「でも先輩、別に林さんと遊びに行くのが嫌なわけじゃないんでしょう。というか、嫌じゃないからこそ困ってるんでしょう」

 無言の間が少しだけあって、先輩は小さく首を縦に振った。先輩は嘘をつくのが下手だから、自分の思ってることと反対のことは嘘でだって言えないのだ。

「……あのね、先輩。俺が先輩だって気付いたのは、まあ先輩のミスもありますけど、俺が元々先輩の知り合いだったからでしょう? ……それなりに、仲のいい」

「まあ、そうだな」

 慎重な付け足しを先輩は否定しなかった。その一点にこっそり安堵しつつ姿勢を正す。

「いいですか、俺の時みたいなことが起きないようにってのは分かりますがね、そもそも俺にバレた経緯に至るまでの確率とかって考えたことあります?」

 訝しげな顔をして首を横に振る先輩に、

「まず、俺と同じ大学に通ってることに偶然気付く。これが既に大分確率低いんですけど、林さんは大学に入ってからの知り合いなんでまあこれはいいです」

 指折り、可能性を数える。

「次に、俺が先輩が出てくるような緊急事態に居合わせる可能性。まあこれも大概低いですよ。大学近辺ってまだそこまで物騒じゃないでしょう」

 ふんふんと頷く先輩。うまいこと話に引き込まれてくれているようで安心する。

「そう考えると、先輩が遠慮したりする必要って本当はないんじゃないかなって思うわけです」

「む……」

「まあ、先輩が人付き合い苦手なのは知ってますんで、無理にとは言いませんが」

 そう言い足すと先輩は少し不満そうに唇を引き結んだ。

「別に苦手じゃない。どうしたらいいか分からないだけだ」

「はいはい」

 やりすぎると痛い目を見るので早目に引き下がる。駄目押しの一手は、我ながら少しずるいかとも思った。

「山下さんだって、先輩に我慢してほしいとは思ってないはずですよ。だから、行きたいなら行きたいって言いましょうよ」

 山下さんの名前の効果はてきめんで、先輩は「それはそうだが……」と露骨に狼狽えた。

「……嘘ついたから、もう誘ってもらえないかもしれないじゃないか」

 変なところで弱気になるなあこの人は。俺はぬるくなった紅茶を一口飲んで、小さくため息をつく。

「言ったじゃないですか、林さんとお話したって。もう誘ってくれる可能性が無かったらこんな話しませんよ」

 そう言うと先輩の表情がわずかに明るくなった。

「そうか……なら、今度はもう嘘はつかない」

 まっすぐに見つめられきょとんと目を瞬く。まだなんかありましたか、と首を傾げると、深々と頭を下げられた。

「勝手に名前を出して悪かった。ごめん」

「別に気にしてないですよ。なんか問題あったわけでもないですし」

 林さんから恨みを買う前に誤解を解くことができてよかったです、というのは流石に意地悪だろうか。一息ついて、置いといた疑問を引き寄せる。

「しかし、普通にバイトがあるとか用事があるとか言えばよかったんじゃないですか? わざわざ俺の名前を出さなくても」

「むぐ」

 まあ、名前が出たからこそこの件が露見したわけだが。先輩は短く唸って視線を逸らす。

「あれは……急な誘いで、驚いてしまって……穏便に断るには、そう言った方がいいかと、思ったから」

 こっちが驚いてしまうくらいにたどたどしくなった弁解をゆっくり聞いてみると、どうやら咄嗟の嘘に俺の名前を出してしまっただけらしい。なんだそりゃ。

「言ってしまった後から、お前に連絡してどこかに行くことも考えたが、その日はお前バイトだったからな」

「そう言えばそんなこともあったような。珍しくずるいこと考えますね」

「ぐうの音も出ない」

 殊勝な顔をする先輩を見て、ほんの少し林さんが羨ましくなったのは内緒だ。俺だったら多分「お前と出かけるのは嫌だ」とか言われてたと思うし。慣れてますけども。

「とりあえず、これからどうするかは任せますけど一度は謝っといた方がいいですよ。結構気にしてたみたいですから」

「そ、それはそうだが……」

 先輩はおろおろ視線を泳がせていたが、「品川」とやけにしおらしく呼ばれて嫌な予感がした。先輩が俺をあだ名で呼ばない時は、決まって本人は真剣な時だ。普段からは考えられないほど頼りない視線につい身構える。

「……謝るとき、一緒にいてくれないだろうか」

「はい?」

 本気で意味が分からなかったので聞き返せば、まだ若干たどたどしさの残る口調で答えてくれた。答えてくれたからって納得するかは別問題だけれども。

「最近ようやくわかったんだが、私の……言葉が悪いというのか、そんなつもりはないんだが、誤解させてしまうことがあるから。お前なら私の言いたいことが分かるだろうから、誤解されてしまいそうなことを言ったら訂正してほしくて」

「ええ? そんなの一人で行ってくださいよ!」

 驚きのあまり声が裏返る。「嫌ですよ」と重ねて言おうとしたところで、先輩のか細い声を聞いてしまった。

「頼むよ……」

 自信をすっかり失った声と、頼りなく伏せられた目を見てしまって言葉に詰まる。ああ、本当に困ってるんだ、と分かってしまい、ぐっと眉根を寄せた。……まあ、ただでさえ普段から助けてもらってるんだから、俺にできることがあるなら、ね。

「……一回だけですからね。というかこんなことが何度もあるようじゃ困りますよ」

「うん。気をつける」

 俺はきっと苦虫を噛みつぶしたような顔をしていたに違いないのだけど、先輩がほっとしたように表情を柔らかくしたのにはつられたように微笑み返してしまったんだ。普段頼られることがあんまりないから、頼むよ、なんて言われたら断れるはずもないんだった。我ながらチョロすぎる。

「ありがとう。なんだかんだでシノは私に優しいな」

 素直で飾らない感謝と、褒めてんのか何なのかよく分からない評価。くすぐったいけれど何か引っかかるようなその笑みに、この人はやっぱりちょっと変わった人で、俺もそれに完全に対応できるようになってるわけではないんだな、と思ってしまったのだった。


「うん、事前に聞いてはいたけど、本当にいるんだね……一体何頼まれたの」

「しいて言うなら校閲です。俺のことは気にせずどうぞ」

 怪訝な顔をする林さんにしれっと答えて、緊張した様子の先輩に「しっかりしてください」と目配せする。唇を引き結んで頷いた先輩は、ちゃんと林さんの目を見て話しだした。ぎこちないながらも誠実な謝罪を、林さんは穏やかな表情で聞いていてくれたし、先輩も慎重に言葉を選んで話していたように思う。少なくとも俺が何か言い足す必要はなかった。

 言ってしまうわけにはいかない諸々の事情については伏せて、ただ先輩が人付き合いが苦手という説明だけにとどめたのはやりすぎかとも思ったが、そこは先輩のたどたどしさが説得力になったらしい。

「事情は分かったよ。嘘だったんだってわかった時は驚いたけど……じゃあ、今度からは誘ってもいい?」

「うん。予定が合わないこともあるかもしれないけど……また、誘ってくれたら嬉しい」

 先輩がはにかむようにそう言い添えると、林さんは一瞬こっちを見て、それから優しく頷いた。一件落着、だといいな。……いや、俺本当にいらなかったじゃないですか。

 林さんと別れて、先輩との帰り道。俺は僅かな疲労感の滲むため息と共に今日の所見を吐き出した。

「やっぱり俺、来る必要なかったでしょう」

「そんなことない。隣にいてくれてすごく心強かった」

 まっすぐに見つめられながら即答されてしまい、一瞬返事ができなくなる。この人のやたらとストレートな表現は、俺を傷つけることもあるしこんな風に絶句させることもある。早いとこ慣れてしまいたいところなんですけどね。そうですか、などと言って目を逸らすと、先輩はもごもごと付け足した。

「だからな、こういうことがもしまたあったらその時も一緒に……」

「嫌ですよ」



 後日、先輩から……いや、先輩たちから、楽しそうな二人とかおいしそうなご飯の写真とかが送られてきた。「楽しんでます」「楽しい」と、短いメッセージ付きだ。全く、仲がよくて羨ましいことで。


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