第16話それぞれの考え
「だがな、実際危ないだろう。お前を危険にさらすことは本意じゃない、それは本当なんだ」
またしゅんと下を向く瞳にちくりと心が痛んで、慰めるように言葉をかける。
「それはまた考えますよ」
「適当言うな。具体的にどうするんだ」
「体を鍛えるとか」
「鍛えてどうにかなるものか。もっと画期的なことを考えろ」
むっつりと無茶なことを言う先輩に、こっちもかちんときてしまい顔をしかめる。
「そういうのはその時になってから考えればいいんです! 臨機応変にって、森本さんと話してそうなったんだから」
「何?」
先輩がぎゅっと眉根を寄せる。え、今のどこにそんな顔をする要素が? 目を白黒させる俺に構わず、先輩は顎に手を当てて短く唸った。
「お前は知らないかもしれないが、夏巳はその場その場で言うことをころころ変える。その場の雰囲気で適当なことをお前に吹き込んでいるようなら話し合いの必要がある。電話するが、お前も聞くか?」
予想外の展開に度肝を抜かれつつかくかくと首を縦に振る。俺が大真面目だっただけに先輩もきちんと答えてくれようとしてくれてるんだろうが、真面目の方向性が独特なんだよな、この人……。そんなことを考えている間に、先輩は携帯を出して森本さんを呼び出していた。
『もしもしー?』
「夏巳。私だ、秋だ」
『そりゃ知ってるよ、何の用だ? もしかして、今日のこと怒ってるのか? 安心しろよ、品川くんとはちょっとお話しただけだから』
「それについて確認すべきことがある。品川に話したことについてだ」
『真面目な話か? 真面目な話だな。うん、ちょっと待ってくれ』
ごそごそと身動きする音がして、森本さんが改めて問う。
『さて、どうした?』
先輩は小さく息を吸い込んで、厳しい声で問いかけた。
「品川と私の……いや、私たちのことだ。夏巳は、品川が私たちと」
『あれ、品川くんから聞かなかったか? 俺は別にいいんじゃないかって思ってるけど』
はっきりと肯定したことに先輩は少なからず驚いたようで、しばし言葉を失った。その沈黙から何か読み取ったのか、森本さんは携帯の向こう側で苦笑いをした。
『お前のことだから可愛い後輩が心配で思い悩んでるんだろうけど、俺から言うことはもう何もないぞ? 言っとくが適当言ってるつもりはない。俺なりに考えて出した結論だ。それは分かってくれるな?』
あっけない答えを聴いた先輩が、もどかしげに首を横に振る。
「分かったよ。……だが、だからこそ分からないんだ」
『ああ、そうだろうよ。そしてさっき答えた通り、俺は品川広夢がお前と交流することが悪いことだとは思わないと言っている』
「何故だ? 彼に何が起きたか知っているのに、どうしてそんなことを……」
悲痛な声を上げる先輩に『落ち着けよ』と低い声が投げかけられる。緊迫したこの場で俺ができることと言えば、息をひそめて二人の会話を聞くことだけだ。
『まあ、お前と品川くんの身に起きたことにしても、同じことが繰り返されることは避けなくちゃいけないし、そのために距離を置いた方がいいんじゃないかって考えるのも分かるよ。もちろん分かる』
少し沈んだ森本さんの声に、先輩は少しだけ険を緩めた。
『だがな、それは感情を無視してまで徹底しなくちゃいけないことか? 俺たちだけじゃなく周囲の人に強要できることか? なんて、今日話してみて思ったわけだよ、俺は』
先輩は思うところでもあるのか、黙って耳を傾けている。
『お前はなんて言って距離を置こうとした? それは品川くんがどう思うか考えて言ったか?』
ぐっと唇を引き結ぶ先輩を諭すように、森本さんは声音を和らげた。
『お前の心配も、きっと間違ってなんかないんだよ、秋。でもな、人間関係ってそんな簡単に切ったり繋げたりできないもんだ。もっと、相手と自分の気持ちを大事に考えなくちゃな。さて、これまでの話を踏まえて、お前はどう思った?』
穏やかで優しい問いかけに、先輩は掠れた声で答えようとした。
「私、は……」
視線を向けられてびしっと背筋が伸びる。そんなしおらしい目で見ないでくださいよ、どうしたらいいか分からないから! すい、と視線がそらされ、小さな小さな、声が聞こえた。
「品川と離れるのは、嫌だな……」
か細い囁きにふっと肩から力が抜ける。ああなんだ、先輩はそう思ってくれているのか。心の底からの安堵をかみしめる。
『そう思うなら、反対する奴は誰もいない。大丈夫だよ』
電話の向こうからひどく優しい声がする。これでひとまず一件落着かな、と安堵してすっかり冷めてしまったお茶に手を伸ばす。電話中だし、先輩の分まで淹れなおしたほうがいいかな、などと考えていると、のんびりとした声がとんでもないことを言い出した。
『二人の性別が反対だったらなあ、秋が品川くんを嫁にもらって責任が取れたのになあ』
ぶは、と茶を噴いてむせる俺に先輩が慌ててタオルを差し出す。責任って何の責任だ、何言いだしてんだあの兄貴もどきは!? がはごほむせかえる音に、森本さんがのんきな声を上げた。
『あれ、そこに誰かいるんか?』
口元を慌てて拭って、からからと笑い声をあげる携帯に手を伸ばす。
「いきなり何言ってるんですか……!」
『おお、品川くん! いつからいたんだ?』
「最初っからです! いいこと言ってたかと思えばふざけたことをッ……!」
言ってる途中でげほげほせき込んだ俺が落ち着くのを待って、森本さんは全く悪びれる気配なく謝った。
『悪い悪い、ほんの冗談さ』
「適当なことばっかり言わないでくださいよ……」
『まあまあ。ところで秋、聞こえてるか? 品川くんはこう言ってくれてるんだからさ、何か起きた時はその時にどうするのが一番いいかってのを一緒に考えていくのがいいんじゃねえかな』
「うん……」
携帯を先輩に渡して、なんとか呼吸を整える。先輩の顔が見られない。気まずくて! 本当に何言ってるんだあの人は本当にもう!
『聞きたいことはそれくらいか? まああれだ、相談があればいつでも連絡してこい』
「うん、ありがとう」
先輩は素直に礼を言って電話を切った。俺と言えば所在なく視線をうろうろさせるばかりである。気まずい。
「大丈夫か?」
「う、はい……」
口元を拭って俯いていると、先輩はぼそりと呟いた。
「……分かっているとは思うが、あの人は人を困らせる冗談が好きなんだ。真面目に付き合ってると疲れるぞ」
「身に染みてよく分かりました。……あと、汚しちゃってすみません」
「気にするな」
先輩はあっさりとそう答えて、ほんの少し距離を詰めた。肌に触れるか触れないかの位置で、指先がすいと首筋をなぞる。
「首、絞めたりして悪かった」
そうとだけ言って、食器を持って立ち上がった。一瞬呆けていたのをどうにか立ち直らせて、腰を上げる。
「洗い物、俺が……」
やりましょうか、と言いかけて一瞬思いとどまる。この間の、買い物の時のことを思い出したのだ。親切のつもりで申し出ても断られる可能性もなくはない。少しでも有効そうな言い回しとなると……。
「先輩、洗い物俺にやらせてもらえませんか?」
「何? なんでだ」
理由を聞かれて口ごもる。それは考えてなかった! 少し考え込んで、どうにか理由を絞り出す。
「今日、先輩に心配させちゃったんで……そのお詫びってことで」
どうですか、と伺うと先輩は目をぱちくりさせて、それからふっと微笑んだ。
「そもそも今日呼んだのが昨日のお詫びなのにか? ……まあ、そうだな。頼むよ」
大成功、と内心ガッツポーズをする。スポンジはあっち、洗剤はこれ、ビニール手袋はここ、と指示を受けて片付けていると、隣に立っていた先輩が柔らかく目を細めたのを見て首を傾げる。
「どうしました?」
「いや……ここに来るまでは、誰かを部屋に呼ぶことなんて考えてなかったからな。不思議な気分だ」
そんなことを言う先輩の表情が優しくて、なんだかどうしようもなく照れてしまう。赤くなった頬を見られてしまわないよう、ぷいと顔をそらしてそっけなく言った。
「そんなとこ突っ立ってないでテレビでも見てたらいいんじゃないですか。せっかく洗い物せずに済んでるんだから」
「うん? そう言えばそうだな、お言葉に甘えてゆっくりさせてもらうとしよう」
先輩が離れていくのを横目で見届けて、ふっと肩の力を抜いた。水音を聞きながら手を動かしていると、今日のことが自然と思い出される。
森本さんの事件も、先輩の心配も全部本当のことだ。俺は選ばない方が楽な道を選んでいるだけの大馬鹿なのかもしれない。しれないけれど……でも、それで後悔だけはしてやらない。誰がなんと言おうと――山下さんや森本さんはもちろん、先輩が何を言ったとしても。きっと今はそれでいいんだ、多分。
「……なんです?」
いつの間にか隣に戻ってきていた先輩に尋ねると、どこかそわそわと落ち着かない様子で見上げられた。
「いや……他人に任せっぱなしなのは落ち着かなくてな。代わるか?」
「それじゃ意味ないでしょうよ……すぐ終わらせて帰りますから」
「帰っちゃうのか? 夏巳がくれたお土産開けようかと思ってたんだが」
見ると、ちゃぶ台の上には包装を解かれた紙箱があった。一人分にしては少しばかり多そうな量の焼き菓子が、行儀よく箱の中で待っている。視線を戻すと、何故か少しばかり残念そうな顔の先輩。
「そういうのは聞いてから開けてください……いただきますけども」
時計を見ると、あと三十分もしないうちに十時を回ってしまうことに気付く。隣に住んでいるとはいえ、こんな時間に知り合いの女性の部屋にいるのは風紀的にあんまりよくないな、と思いつつも、結局こうしてだらだらと居座ってしまうのは……とりあえず今日は先輩が引き留めるから、ということにしておこう。
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