第15話心配
「シノ。夕飯、私のところで食べていかないか」
「え?」
夜になって突然俺の部屋を訪れた先輩の、嬉しいけど意図の分からない誘いに首を傾げると、先輩は少しだけ目を泳がせて気まずそうに言った。
「昨日、お前が誘ってくれたのに断ってしまっただろ。そのお詫びだ」
「別に気にしなくていいのに……」
そうは言うものの遠慮するのも気が引けて、いい匂いに誘われるようについていく。先輩のご飯おいしいし、さっきほとんど無言のまま別れてしまったのも気にかかっていたのだ。
食事中も先輩は終始上の空で、俺は先輩お手製のしょうが焼きを堪能しつつもちらちらとその様子を窺っていた。ぼんやりしたまま空のコップを何度も傾けるのは流石に止めたけど、どうしたんですかと聞いてもはぐらかされてしまって(はぐらかし方がまたどうしようもなく上手くないのだが)どうすることもできない。どうしたものかと空になった茶碗を眺めていると、とん、と腕をつつかれた。
「シノ」
振り返ろうとした瞬間、視界がぐるんと回った。掴まれた腕に一瞬痛みを感じたと思ったら、床に背中を打ちつけていた。倒された? 座ったまま? 混乱する間もなく犯人の……先輩のまっすぐな視線に見下ろされ、一瞬言葉を失う。最近少しは分かるようになったかと思ったが、全然そんなことは無かったようだ。何を考えているんです、先輩。
「……今、何が起きたか分かったか」
「分かりません、でした。ついでに言うと、どうしてこんなことするのかっていう理由も分かりません」
何でこんなことするんです、と視線で訴えると、倒れたままの俺に先輩はすっと手を伸ばしてきた。
「こういうことも、また起こりうるということだ、品川。夏巳と話したんだろう」
細い指が、ぐっと喉を圧迫する。身に覚えのある感覚にぞっと血の気が引き、一瞬パニックに陥る。先輩の手を反射的に振り払おうとして、それ以上は力が加えられていないことに気付いた。どうにか顔を上げると、先輩は俯いて視線をそらしてしまった。
「夏巳と、何を話したんだ。いや、言わなくていい。ハルさんから事情は聞いた。聞いたんだろう、私たちと関わることで、一体何が起きるか。知らないとは言わせない」
わたしたち、と言うフレーズが、重たくてひどく悲しげだった。夏巳さんの友人の話を、先輩が聞いていないはずがない。今から言われることにうっすらと予測がついて、唇を引き結んで続きを待つ。
「万が一、億が一、どれだけ可能性が低くても、全く可能性がないわけではない。こんな目に何度も遭いたいか? そんなはずないだろ。だから……」
言いづらそうに言葉を切った先輩に、首を絞められたまま先を促す。
「だから、何です」
「だから、私とは……縁を、切った方が、いいと」
思うんだ。歯切れの悪い言葉が、小さな唇から落ちた。視線は合わせられることなく、そのことに無性に腹が立った。首にかかった手をどかして、先輩の頬に触れる。
「先輩」
呼びかけにぱっと顔を上げた、それを確認して勢いよく体を起こす。油断しきった先輩の頭を、ほんの少しだけ引き寄せて――!
ゴン!
「ってェ!」
「っ……」
渾身の頭突き。不自然な姿勢からだったのであんまり力は入らないんじゃないかと思ったが、そんなことはなく激突の瞬間瞼の裏で星が散った。ぐう、と呻いて倒れこむと、先輩が心配そうに覗きこんでくる。
「し、シノ? 大丈夫か? というか今のはなんだ、何がしたかったんだ?」
「全く大丈夫じゃねぇです……先輩は何ともなさそうで何より……」
目眩が引いてから体を起こすと、困惑しきった先輩と目が合う。額の痛みをひとまず無視して、逃がさないとばかりに先輩の手を摑まえる。
「整理しましょう、先輩。俺たちが再会してから何があったかは覚えていますね?」
突然何を、と言いたげな先輩の視線をしっかり受け止め、懸命に言葉を探す。
「先輩は適合者として警察に協力することはやめるつもりがないって言いました。俺もその件に関してはもう説得できないと思っていますし、納得もしているつもりです」
気まずそうに視線を逸らす先輩の手をぎゅっと握る。
「でも、だからって先輩と縁を切った方がいいなんて思ったことはありませんし、そんなこと急に言われたって困ります。お願いだから撤回してください」
できる限り毅然としてそう言い放つと、先輩は分かりやすく動揺した。
「お前は自分が何を言っているのか分かっているのか?」
「当たり前でしょう。やですよそんなの」
「こんなことまでしてるのに? 私が嫌にならないのか」
「なりませんよ。迷惑なのが分かってるならどいてください」
あくまで冷静に切り返していると、先輩の表情が悲痛に歪んだ。
「私は、お前に危険な目に遭ってほしくないからこう言っているのに……」
「俺はそうやって先輩に遠ざけられる方が嫌なんです!」
つい大声で遮ってしまい、はっと息を呑む。先輩の表情にはっきりと驚きが浮かんだのを見て一瞬呼吸が止まった。喉までせりあがっていた感情をどうにか飲み下して、声を潜める。
「それでも、俺が先輩と縁を切るべきだと言うのなら、嘘でもいいから俺のことが嫌いになったって言ってください」
例えるならば、介錯の一太刀。一切の関係を断ち切るための言葉を差し出した。言ったそばから、言葉を吐き出すための器官が全部引き裂けてしまえばいいと思った。こんなことが言いたいわけじゃないのに、と深く深く後悔する。それでも、取り消すわけにはいかなかった。
「そうしたら、もう関わりませんから」
最後の言葉だけは、先輩の目を見て言うことはできなかった。もしも本当にそうされたら、ああ、俺は絶対に立ち直れない自信がある。これで先輩が折れなかったら、俺にはもう打つ手がない。あまりにも分が悪い賭けだ。先輩は何かを言おうと口を開いては閉じを繰り返し、むぐぐ、と短いうめき声をあげた。
「……そんなこと、言えるわけがないだろ」
握った手をぐいと引き寄せられて、頬に柔らかな吐息がかかる。まだほんの少し痛む額を撫でられ、そっと目を伏せる。先輩の手の熱がじんわりと伝わって、何故だか泣きそうになってしまった。
「どれだけ突き放しても嫌いになってくれなかった。あまつさえ私なんかを心配してくれるお前を、嫌いだ、なんて」
胸元に深いため息が落ちる。お互いひどくしょぼくれた目をして見つめあい、弱々しく笑った。そもそも、と先輩が口をへの字にして不満を露わにする。
「君が言ったんだ、先輩は嘘がつけない人ですねって。分かっているのにあんな聞き方をするのはずるい」
「そうでしたっけか」
そらとぼけたように言って、へら、と唇を緩めた。本当は覚えている。高校の時の話だ、細かいことまでよく覚えている。……でも、先輩、俺のこと嫌いじゃないのか。そっか。それが聞けただけで十分だ。
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