意外と心配性
第11話身内
「今日、よかったらこの後飯でもどうです?」
いつも通りにそう気軽に誘ってみると、帰ってきたのは申し訳なさそうな表情と、先輩の割には丁寧な断りの言葉だった。
「悪い、今日は先約があるんだ」
先約。先輩に先約。一瞬考え込んでしまったが、気を取り直して尋ねる。
「ご友人ですか? 珍しいこともあるもんだ」
「友人……というより、親戚と言った方が近いな。まあそれも厳密には違うが」
「そうなんですか」
こういう時はいつも一瞬悩む。未だ曖昧な先輩の家庭環境、唯一会うことができる関係者は口を閉ざしているので先輩に直接聞くしかないけど、まだそこまでの度胸はない。
「最近こちらでやることが多いらしくて、二三日こっちに泊まるから一度飯でもって誘われたんだ」
「そうなんですか……」
先輩が滅多にしないような嬉しそうな表情に、妙にそわそわしてしまう。なんと言ったものかと考えているうちに、ひとり言のような呟きを聞いて目を丸くする。
「ナツミにはこの間も世話になったからな。その礼も言わなくちゃなんだ」
「なつみ?」
「うん、ナツミ」
疑問符にこくりと頷かれる。ナツミさん、ということはお姉さん? それとも妹さんかな。
「というわけだ。すまんな、せっかく誘ってくれたのに」
「いいんですよ、たまにしか会えないんならそっちを優先するのは当然です」
そう言って笑いながらも肩が落ちているのはバレていないといいんだけど。服装をきちんと整えて出かけた先輩を見送って、その日は一人寂しくカップ麺をすすることにした。
思いがけない出来事は、一度起きると連鎖するらしい。その日の夜に携帯に入っていたメッセージは意外かつ奇妙なもので、一度携帯の電源を切ってから再確認した。差出人は先輩の元後見人こと山下さんだ。
いいもの見せてあげるから、明日研究所に来ない?
誘拐犯の決まり文句じゃないんだから、と言いかけたのを飲み込んだのは、我ながら偉かったと思う。暇だったので行きますと返信して、その日は寝ることにした。
翌日、何度か行くうちに見慣れてしまった研究所の受付に向かうと、名前を言っただけですぐ行くべき部屋を教えられた。受付の人に顔を覚えられている気がするが、流石に考えすぎだろうか。今日指定されたところは普段行くところとは違っていて、途中で何度か道を間違えた。扉の横にプレートを確認して、やっと着いた、とため息をつく。受付から借りたカードキーをかざすと、ぷすんと軽い音がしてドアが開いた。
「あ、来たね」
大きなモニターの前に座っていた山下さんが、振り返ってひらひらと手を振った。
「何かちょっと遅くなかった? 受付から電話来たの十分くらい前だったと思うんだけど」
「迷ったんですよ。こんな奥まったところにあるなら最初から言ってください」
悪気なく首を傾げる山下さんにぶつくさ言いながら近づいていく。
「それで、何の用なんです? 急に呼び出してきて」
「うん……まあ、説明するより見てもらった方が早いかな。あっち見てみて」
促されるまま窓際まで行くと、眼下に広がっていたのは武道場のようなスペースと、相対するスポーツウェアの二人。山下さんがモニターの前から説明してくれた。
「適合者同士の格闘を想定した訓練だよ。そんなにしょっちゅうできるわけではないけれど、彼らの仕事柄たまにはやっておかなくちゃいけないから」
離れていたので少し見えにくいが、取っ組み合う二人のうち一人に見覚えがあった。振り返って山下さんに尋ねる。
「もしかして、あの小さい方が先輩ですか」
「そういうこと。相手は皆方の先輩というか、そういう人だよ。こっちでやることがあって来てくれたんだけど、休憩中だから皆方に付き合ってくれてるんだ」
目まぐるしく動く眼下の二人。体の小さい先輩が不利ではないかと思ってしまうが、見た限りではそう単純なわけでもなさそうだ。むしろ体格差を活かして立ち回っているようにも見える。
モニターの前から動かない山下さんを振り返って、不意に湧いた疑問を口に出す。
「山下さんは見ないんですか?」
「僕、昔から格闘技ってやつが苦手でね……見てもアドバイスできることもないし。怪我しないかってはらはらしちゃって仕事に集中できないし」
肩を竦めて首を横に振る山下さんは、そう言いつつも気にはなるようで、パソコンの前に座りながらずっとそわそわしている。俺が来る前からこうだったのなら仕事の進み具合はどれほどのものなんだろうか。まあそっとしておこう。
そんな緊張感のないことを考えている間に、下では膠着状態がしばらく続いていた。頑張れ先輩、と届かないと分かりつつも応援すると、先輩が相手の懐に深く踏み込んだ。襟を掴み、腰を入れて投げる――!
「あっ!」
驚きのあまり大声が出た。投げられる寸前で踏んばった相手が、体重を利用して先輩を押しつぶすように倒れこんだのだ。ぐしゃっともつれるように転がった二人に寿命が縮むような思いがする。
「あれ、痛くないんですか?」
「本人たちは痛くないっていうけど……」
いつの間にか隣に来ていた山下さんと揃っておろおろうろたえていると、先輩は何事もなかったかのように起き上がった。ひとまず安心、と胸をなでおろす。
「そろそろ終わる時間じゃないのかな」
山下さんがそう呟いた時、ブザーの音が鳴り響いた。武道場の二人は向かい合って一礼し、何か話しながら出ていってしまった。ふは、とため息をついて、山下さんに向き直る。
「結局、これを見せるために呼んだんですか?」
「まあそうなんだけど、それだけじゃないと言いますか……」
山下さんは曖昧に言葉尻を濁し、白々しく「お茶飲む?」などと聞いて来た。なんだかきな臭い雰囲気に緊張してしまう。入れてもらったお茶がなくなったころ、ぷすんと部屋の扉が開いた。
「ハルさん、この後って……」
タンクトップにハーフパンツ、濡れた髪をタオルで拭きながら無造作に扉を開けた先輩がぎょっと目を剥いた。
「シノ!? お前何でここに!」
「なんでって、山下さんに呼ばれてですけど……聞いてなかったんですか?」
素っ頓狂な大声に怪訝に今度こそはっきりと眉を寄せる。先輩は困惑した顔をしているが、俺だって似たり寄ったりの表情だと思う。俺にならまだしも、山下さんが先輩に何の説明もしてないなんてことがあるのか? 山下さんに疑惑の視線を向ける前に、先輩の背後にいつの間にかいた人影に気付いた。
「ま、ハルさんが呼んだってのは半分正解、半分間違いってことだ。俺が頼んで呼んでもらったんだよ」
朗らかな声が、唐突に疑問を断ち切った。爽やかに歯を見せて笑う、短い黒髪の大男。見間違いでなければ、さっきまで先輩と組み手をしていた人だ。どちら様ですか、と尋ねる前に、山下さんが紹介してくれた。
「紹介するよ。彼は森本夏巳。普段はここではなくて別の研究所で働いているけど、今日はこっちに来てるんだ」
「研究員とは違うけどな! よろしく」
「よ、よろしくお願いします……?」
ごく自然に差し出された手を握ると、力強く握り返される。硬くて強そうな手だな、とぼんやり思って、はたと気付く。夏巳……ナツミ!? この人が! 先輩の親戚(に近い人)!
「秋の後輩なんだってな。名前、シノカワだったっけか」
「品川です」
ややぎこちない声で訂正する。ああそうだ、シノと呼ばれていればそう間違われてもおかしくない。
「ああ、そうだった。ごめんよ、どうも人の名前って覚えるのが苦手でな」
そのままぐいと引き寄せられ、ぐらりとよろける。それを平然と受け止めて、森本さんはにかりと歯を見せて笑った。
「というわけで秋、彼のこと借りるぞ」
「は? いや、待て! いきなり何を」
「駄目だよ皆方。君はまだやることがあるんだから」
こっちへ踏み出した先輩を、山下さんが手で制した。意味が分からず山下さんを見ると、一瞬かち合った視線に申し訳なさそうな色を読み取って、ひとまず口を閉じる。
「今日はもう上がっていいよ。ありがとう、森本。また明日ね」
「ああ。明日もよろしくな」
森本さんの浮かべた笑みは穏やかだが、俺の手を握る力が緩むことは無かった。何がなんだか分からないが、断れる雰囲気ではないし、そもそもこんなにがっしり掴まれては逃げようがない。
「シノ!」
やや焦ったような先輩の声に一瞬助けを求めかけたが、山下さんが意味もなくこんなことをするとも思えず、『大丈夫です多分』と頷いて連れて行かれるのに任せた。大丈夫じゃない可能性は大いにあるのだけど……。先日の飲み会をしてからというものやたらと当たりが強かった山下さんの態度を思い出しながら、俺は研究所から引きずり出されていった。
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