第10話早とちり

 翌日、警察の事情聴取は思っていたより簡単に済んだ。主犯と思われる適合者本人は取り逃したものの、逮捕者は多く、巻き込まれただけで何も知らない俺にはそれほど聞くことは無いようだった。こっちもなんだかんだ疲れていたので、それを考えると助かったと言える。

 首を絞められた時の痣は一晩で消えてくれるようなものではなく、仕方がないので肌が隠れる服を選んで着た。昨日の時点で痣があることはばっちり見られてしまっている。先輩、きっと気に病むだろうなあ。会ったらどうしようかな、などと考えていると、当の本人がいきなり訪ねてきた。何て言ったものかな、と悩んでいると。先輩はどこか落ち着きない様子でこう切り出した。

「実は、お前に頼みたいことがあってな」

「はあ」

「ここを離れるにあたって諸々の整理をしなくちゃいけないわけなんだが……」

「離れるって……先輩、引っ越しちゃうんですか?」

 声が小さくて聞き取りにくかったが、内容が分かった瞬間反射で頓狂な声が出た。けれどよくよく考えると妥当な話で、俺に危険がなければ先輩がここに住む理由は特にないのだった。

「いや、しばらく様子見の期間は置くだろうが、多分ここは引き払うことになるから……」

 驚いて身を引いた先輩は、ちょいちょいと手招きして俺を呼んだ。先輩はどうしてかこちらを見ようとしない。

「それでその、冷蔵庫の整理をしなくちゃいけなくてだな」

 手を引かれて先輩の部屋に入ると、小さなガラステーブルいっぱいに料理が並べられていた。凝った飾りつけなんかはしていないが、きちっとしている盛り付けに性格が出てるなあ、と変なところで感心させられた。

「一人では食べきれそうにないので手伝ってほしい。食べられるものではあるぞ」

 この見た目でその評価は謙遜しすぎではないだろうか。そう言おうとしたら、一度だけもらったパスタの味を思い出して腹が鳴った。小さく笑った先輩に、ふと浮かんだ疑問をぶつける。

「ところで先輩、今朝大量に買い物してましたけどあれはなんだったんです? 食べ物っぽかったですけど」

 それを聞いた先輩の表情がびしりと固まった。ああしまったな。不用意な発言で締め出されかけたのを慌ててなだめて再び部屋に入れてもらう。まだちょっとむくれている先輩に苦笑した。

「こういうのはもっと早く言ってくださいよ。そうすれば何かしら手土産でも買ってきたのに」

「別に必要ない。ただの身辺整理だからな」

 まだ言いますかそれ、と呆れたが、実際部屋の中は几帳面では済まされない程度に整頓されて物がない。ああ、本当にいなくなるのか、この人。そう思うと何とも言えない空しい気分になった。

「ほら、早く座れ。今日だけは何も連絡しないと、ハルさんに約束させたんだ」

 何でもないようにふるまう先輩の前で――実際引っ越しすることも何とも思ってないんだろう――寂しがるのがどうしても嫌で、「じゃあご馳走になります」と置いてあった割り箸を手に取った。

「しっかしこれ、作りすぎじゃないですか?」

「自慢じゃないが私はそこそこ食べるぞ。ある程度は日持ちするだろうし問題ない」

 冷蔵庫の前でしゃがんだまま動かなくなってしまった先輩が気になってそばに行くと、日本酒の瓶を片手に悩んでいた。酒には詳しくないので分からないが、少なくともコンビニなんかでは見たことがない銘柄だ。振り向いた先輩が酒瓶をよく見えるように傾けてくれた。

「……飲んでみるか? 知り合いからもらったんだが、一人で飲む気にもなれなくてな」

「未成年ですけど、俺」

「……やめるか?」

「そうは言ってないです」

 小さなグラスを受け取ると、先輩の表情がふわりと和らいだ。普段あんまり見られない優しい表情に心臓が一度強く跳ねた。

「先輩も意外と悪いなあ」

「四角四面じゃないだけだ。少しだけだぞ」

 茶化してにやりと笑うと、先輩は軽く鼻を鳴らして立ち上がる。そうして始まったささやかな晩餐は、時に盛り上がり、時にしんみりしながら進んだ。先輩の「そこそこよく食べる」という発言は誇張でもなんでもなかったようで、途中で俺の肉じゃがを持ってこさせられたほどだった。酒のせいか俺も先輩もよくしゃべったし、それになによりよく笑った。言うつもりがなかったこともたくさん言ってしまったような気がするけど、よく覚えていない……ということにしておく。

 先輩が顔色一つ変えず、それでもいつもより砕けた口調で、「私はお前のことを全然わかってなかったんだな」と呟いたのを「そんなのお互いさまですよ」と笑ったことだけが、俺たちのたった一つの進歩なんだろうと思う。


 そんな慎ましい宴会からしばらく日が経って、山下さんから電話がかかってきた。珍しいこともあるものだ、と思って出てみると、挨拶もなしに笑い声が聞こえてぎょっとする。

「もしもし?」

『あ、品川君! いやね、皆方がちょっと勘違いしてたみたいだから、訂正しなくちゃって思って電話したんだけどね、ふふ、今時間は大丈夫かい? そんなに長くならないから!』

 心底おかしそうな声に驚きつつも大丈夫ですと返し、早速本題に入る。

「勘違いって何のことですか?」

『勘違いというか早とちりというか……はは、あの子、別に引っ越したりしないよ? というか引っ越しさせてあげられない』

「はい?」

 山下さんが言うには、先輩の引っ越し費用には援助金が下りなかったため、よっぽど問題がない限り住居は今のままらしいのだ。研究所も資金繰りが大変らしい。

「それはまたなんていうか、俺のせいですみません……」

『いやいや、君は悪くないから。前住んでいたところより研究所から遠いけど、それだって支障が出るほどじゃない。まあつまりこれからも隣人として仲良くしてあげてねってことなんだけども……』

 すっと笑いを引っ込めて、山下さんが聞いたこともないような押し殺した声で尋ねてきた。

『ところで? お別れ会と称して秋の部屋で飲み会したって本当? 問題があったようなら元後見人としていろいろ考えなくちゃいけなくなるんだけど?』

「飲み会は本当ですがなんもないですよ! 本人から聞けばわかるでしょう!」

 神に誓って無実だが、証拠が用意できないのが辛いところだ。額の冷や汗の手で拭って必死で話を逸らす。

「そう言えば、先輩って今そこにいます? いるならちょっと代わってほしいんですけど」

『いるよ。今自分の早とちりを猛省してる。代わるね』

 山下さんの声が遠くなってから、しばらく電話の向こう側が沈黙する。油断すると笑い声が漏れそうになるから油断ならない。

「せっかちな人だなあ」

『……うるさい』

 短くぶっきらぼうな悪態に、つい顔がほころんでしまう。

「気まずいでしょうが今後ともよろしくお願いしますよ。お隣さんですからね」

『……ああ。よろしく』

 電話の向こうで、先輩が微笑んだような気配がする。ふっと短い吐息に一瞬ドキリとした。

『お前と一緒にいられるのは私としても嬉しいからな』

 思いがけない言葉に携帯を落としかけた。一瞬言葉を失って、ぱくぱくと空気を取り入れてからようやく疑問の声が出る。

「それって、どういう」

『あの男はお前を狙わないと言っていたが、また何かしらの事件に巻き込まれないとも限らない。近くにいた方が私もお前も安心だ』

 自信に満ちた声に思わず絶句する。電話からは山下さんの笑い声と、「何がおかしいんだ?」と先輩が不思議がっている声が聞こえる。笑みが引きつるのを自覚しながら、平淡な声で答えた。

「そうでしょうね。じゃあ俺、ちょっと疲れてるんで切らせてもらいますね」

『えっ? うん……』

「では」

 言い終わるのを待たずに電話を切る。あの人、やっぱり何も分かってないじゃないか。そう顔をしかめてから、でもちょっとそっけなさすぎたかな、と後悔した。携帯をベッドの上に放り投げて、そのままぼすんと横たわる。先輩のことになるとどうしてもため息が増える。

 あの人、戻ってきたらなんと言うだろう。俺のことを心配したりするのだろうか。

 寝転がって動かないでいると、どうしても眠気というものはやってきてしまうようだ。最近はいろいろ大変だったから、そう、先輩が戻ってくるくらいまでは、久し振りに昼寝でもしていよう。とろりと瞼が落ちれば、そこから眠るまではあっという間だ。夢も見ないような眠りではきっと寝過ごしてしまうから、どうせなら優しい夢でも見てから起きたいものだ。

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