第9話信念
目を覚ますと、まず視界に入ったのは見覚えのない荒れたオフィスのような場所だった。立ち上がろうとして、がくりとバランスを崩す。そこでようやく自分がどういう状態か分かって愕然とする。
「な、んだこれっ……」
足は縄でぎちぎちに縛られ、左手は手錠がはめられている。右手は自由だが、手錠のもう片方は割れた窓のサッシに繋がれていて、つまり右手以外全く動けない。とにかく緊急事態だということしか分からない。何が起きている? 右手だけでどうにかポケットを探ると、いつも持っているリュウセイレッドのキーホルダーしか入っていなかった。
「ああ、起きたのか」
どこか疲れたような声を無造作に投げかけられ、ぱっと顔を上げた。暗い緑の大きなサングラスで顔の半分を隠した若い男が、気だるそうに立ってこちらを見ている。
つるりとした半透明の緑に感じた妙な既視感は恐らく気のせいじゃない、はずだ。先輩の纏う目を焼くような赤が鮮やかに思い起こされて、恐る恐る問いかける。
「適合者、なのか」
「え? ああ、そうだよ。すごいな、これ見ただけで分かるのか」
サングラスに触れた男の軽い肯定に、どっと冷汗が噴出した。ただでさえ身動きが取れないのに、見張りが適合者だなんて! 青ざめる俺を見て男は軽く肩をすくめ、落ち着いた声で言った。
「そんな顔しないでくれよ。言うこと聞いてくれれば怪我させたりしないから」
緊張を緩めない俺に男は一枚の写真を差し出した。写っているのは見覚えのある赤いスーツ……先輩だ。
「こいつを呼び出してくれ。あんたに頼みたいのはそれだけだ」
「呼び出してどうするつもりだ」
露骨に警戒する俺を見て、男はやれやれと首を横に振った。
「俺はこの赤いのを勧誘するように言われただけだ。協力者番号K37番。あの凶悪なまでの強さ、そしてあの、鋼のような意志。敵である今は恐ろしく厄介だが、仲間にすれば百人力だって」
平淡にそう言ってから、男は忌々しげに顔をしかめた。K37番ってのは先輩のことか? 勧誘って一体どういうことだ。まだ、理解が追い付かない。混乱する俺に、抑えた声での問いが投げかけられる。
「俺たちみたいなやつのこと、なんて聞かされた?」
「警察に協力しない適合者の集団だって……」
「そうだな。それで大体合ってるよ。一応、適合者の自由を求めるためなんて目的もあるが……でも、そんなのもう建前でしかないみたいだ」
「自由を、求める……?」
そんな場合ではないのに、つい怪訝な声が出る。男は「余計なこと言っちゃったな」とぼやいた。
「警察に協力を要請された適合者は単独行動が認められていない。いつだって邪魔な警察とセットで行動してるんだ、勧誘なんかできるわけない。かといって素顔までつかめてないからどうしたものかと思ってたが、そこにあんたが現れた。運が無かったな」
俯く男の声はひどく乾いていた。男の視線が俺の肩から首のあたりをさまよって、床へと落ちる。
「ひどいことだと自分でも思うさ。けどな、これは必要なことなんだってよ」
自分に言い聞かせているかのような声だった。男は俺にそっと携帯を握らせる。
「どうせ覚えさせられてるだろ、センパイの電話番号。呼び出してくれよ。一人で、丸腰で来るように。ここの住所はこれ」
小さなメモを押し付けられ、震える手で番号を押した。
『もしもし』
「……先輩」
小さな声で呼びかけると、はっと息を呑む音が聞こえ、続いて慌てた声が飛んでくる。
『品川か? 今どこにいる? 無事なのか!』
「すみません、無事では……ない、です」
『大丈夫だ、すぐ助けに行く。相手は何と言っている。君、今どこにいるんだ?』
押し殺した声に涙が出そうになる。
「先輩が、一人で来るように言えって……場所は……」
一瞬気持ちが揺れて、言葉に詰まった。手の中でメモがぐしゃりと潰れ、ぐっと唇を嚙む。
先輩。俺、先輩の秘密を知ってからずっと考えてたことがあるんです。
きっと顔を上げて男を睨みつけ、携帯に向かってきっぱりと言い放つ。
「場所は言えません。助けにも来ないでください」
『は? ちょっと、何を言って――』
「先輩に助けられるの、はっきり言って癪なんです。絶対に来ないでください」
突き放すように言い捨てて、通話を切った。男の方に携帯を放ると、男はつまらなさそうにそれを拾い上げた。
「驚いたな。それ以上に分からない。助けられるのが癪って言うのはどういうことだ?」
「言葉通りの意味だよ」
飛び切りふてぶてしく答えてやる。当然、空元気だ。声が震えないようにするので精一杯なのに、頭はかっかと熱を持ち、舌は見切り発車で回る。
「助けてほしくないのか?」
「そんなわけないだろ。でもだからって、先輩がわざわざ来る必要はないって言ってるんだ」
言っているうちに自分でも混乱してくる。頭をぐるぐる回るのは、先輩と再会してからあった出来事と、全く普通の高校生だった頃の先輩の姿だ。
「あの人だって勉強して、買い物行って普通に学生してるんだぞ! それでどうして他人のこと助けなきゃいけないんだよ、どうして危ないことしなくちゃいけないんだ! 俺のことだってほっとけばいいのに……!」
だから、この場所を知らせなかった。こんな方法でおびき出そうとするやつらに、先輩を合わせたくないと思うのは当然だった。
ぎりぎりと歯を食いしばり、虚勢を張って笑ってやる。
「絶対に助けなんか呼ばないからな! こんな無駄な労力使ってご苦労さん、ざまあみろ!」
声をからして叫んだ俺を、男は冷徹に見下ろした。
「……あんたの主張は分かった。たいした覚悟だ。しかし、俺たちにもこうするには理由がある」
かつん、と威圧的な靴音。感情のない声に背筋が凍る。
「説得が必要みたいだな」
乱暴に胸ぐらをつかまれ、ぐっと目を閉じる。その説得が穏便な方法じゃないことは明らかで、今になって血の気が引いた。くそ、我ながらなんて浅はかな! ぐっと歯を食いしばって堪えようとした、その時。
「離れろ外道ッ!」
「なあっ……ぐ、ぅ!?」
胸ぐらをつかんでいた手がいきなり離れ、放り出されてしりもちをつく。聞き覚えのありすぎる声に、安堵している自分がいて泣きそうになる。
恐る恐る目を開けると、目に痛いほどの鮮やかな赤が飛び込んできた。決して大きくない背中が、俺を庇うように男と対峙している。言うまでもなくその人は……。
「……せんぱい」
「37番!」
俺の掠れた声は男の驚きの声にかき消された。
いったいどこから入って……まさか、窓から? 驚きのあまり声も出ない俺を先輩は一瞥さえしない。男は目を丸くして、矢継ぎ早に声を浴びせる。
「まさかこのタイミングで来るとは思わなかった! 一体どういうカラクリだ? なぜこの場所が分かった?」
「説明してやる義理はない」
男の問いを切って捨て、先輩は一瞬こちらを振り向いた。
「見張りのやつらは下であらかた逮捕されている。手短に交渉しよう。私はこいつをこれ以上傷つけずに帰りたい。あんたがこのまま帰ってくれれば、私は追わずにこいつを連れて帰る」
声音は提案というより脅迫に近かったが、男は怯んだ様子もなく笑う。
「計画通りとはいかなかったが、せっかく本命のあんたが来てくれたんだ! そういうわけにはいかないな……と言ったら?」
男の不敵な問いかけに、先輩は短く息を吐いた。半歩踏み出して腰を落とし、身構える。
「傷つけずに帰りたいと言ったが、こいつを庇って戦うことができないとは言ってないぞ」
警棒を握りしめ、先輩は静かに臨戦態勢をとった。男はそれを冷たく見据えていたが、ふっとため息をついて首を横に振る。
「そんな効率の悪いことはしない。彼を狙ってあなたをおびき出そうとしたのがそもそも間違いだったようだからな。彼をつけ狙うのをやめるように言うために、ここは退かせてもらおう」
男がそういっても、先輩は緊張を緩めない。身構えたまま「ならそのまま帰れ」と吐き捨てる。
「出るなら窓からにしろ。今警官隊がバリケード崩してるところだから、かち合いたくなければそこからしかない」
「はは、無茶を言う」
警棒を向けられたまま男は窓枠に足をかけ、一つだけ聞いていいか? と場違いなくらいにのんきな声で尋ねた。
「そうやって自分で自分を守れないヤツを守るのは息苦しくないか。自分のためにその力を使おうと思ったことはないのか?」
「ない。私の力は周りの助力あってこそのものだ。それならば力は周りのために振るうのが道理というものだ」
苛立ちを押さえた声で即答した先輩に、男は呆れたように首を横に振った。
「ご立派なことで。俺には真似できそうにない」
「それ以上無駄口きいてみろ、今すぐそこから叩き落してやるぞ! とっとと去れ!」
先輩の怒鳴り声がびりびりと空気を震わせる。男は「怖い怖い」と笑ってひたと俺を見据えた。
「交友関係ってのは慎重に選んだ方がいいぞ? 変わり者と付き合うのは大層骨が折れる」
「必要ない気遣いどうも」
手錠に繋がれたまま顔をしかめる俺を見て男は意地悪く笑い、ひらりと窓の外へと身を躍らせた。窓の外を睨みつけていた先輩がようやく緊張を緩めたのを見計らって、恐る恐る声をかける。
「……窓の外見えないんでわかんないんですけど、ここって高さどれくらいあるんです? 飛び降りても大丈夫なんですか?」
メットを被っているので分からないが、先輩は「正気かこいつ」とでも言いたげだ。俺の足をぐるぐる巻きにしていた荒縄を乱暴に引きちぎりながら(なんつー馬鹿力だ)、不機嫌に吐き捨てる。
「大した高さじゃないし、このくらいなら運が悪ければ足をひねるくらいで済むだろ」
「そりゃすごいや」
足が自由になっても左手は手錠でサッシに繋がれたままだ。どうしましょうと視線で問えば、先輩はしばらく考え込んでいたが、一つ頷いて手錠を指さした。
「それ、たるませないでぴんと張れ」
「こうですか?」
ぐっと鎖を引っ張ると、先輩は軽く頷いて警棒を構えた。ぴりっと空気が引き締まる。
「姿勢を崩さないように踏ん張れ。行くぞ」
あ、嫌な予感……と考える前に警棒が勢い良く振り抜かれ、鎖が叩き壊された。衝撃が走り、手首から腕全体にじんとしびれが広がっていく。手首を押さえて悶絶する俺を、先輩は心配そうに見下ろした。
「悪い、痛かったか」
「見りゃわかるでしょうに……! 全く無茶なことを……」
自分でやっておきながらおろおろと狼狽える先輩を見ていると、怒る気もそのうち失せた。まだ少し痛む手首をさすり、ぐったりと疲れ切った状態で頭を下げる。
「助けてくれてありがとうございます、先輩。でも、どうしてここが分かったんです?」
先輩は明らかにぎくりとして、気まずそうに俯く。力なく指さした先は、俺のズボンのポケットだ。
「ポケットの、中。君がいつも持っているものだ」
「これがどうかしましたか」
古ぼけたリュウセイレッドのキーホルダー。首を傾げると、先輩はスーツの内側から見た目が全く同じものを取り出した。
「こっちがお前のだ。で、こっちは私たちが用意したもの」
俺が持っていた方を指さす先輩の目が泳ぐ。
「で、その……そっちには、GPSとか、そういうものが、入ってて……お前の居場所が分かるように、なってる」
ぽかんとする俺の手からそっとキーホルダー(GPSつき)を取り上げ、俺の方を返してくれた。
「だから、俺が連絡する前からここに着いてたってことですか……あれ、じゃあ電話は誰が出たんです? 確かに先輩の声でしたけど」
「電話に出たのはハルさんだ。任務中には携帯は預けてあるから、音声ソフトで私の声に近いものを使って私のフリをしてもらっている」
説明されても「はあ」と呆れと感嘆の混じった吐息を漏らすくらいしかできない。
「言われてみれば、先輩は俺のこと『君』なんて呼びませんよね……」
「そうだったか?」
そうですよ、と頷いて、自分のキーホルダーと先輩の持っているものを見比べる。細かい傷まで再現されているのが恐ろしいところだ。
「しっかしまた凝ったものを作りましたね……」
「わ、私は反対したんだぞ! でもハルさんがいざという時のためにって……」
「これ、いつから入れ替えてたんです?」
「私が引っ越してきた次の日から……」
となると、研究所に見学に行く前のことだ。あの日、山下さんが俺が来たことをこれで知ったのだとしたら、ラッキーも何もなかったわけだ。優しげな顔して全く食えない人だ。怒ってるか、と蚊の鳴くような声で尋ねられ、苦笑いして首を横に振った。
「怒ってませんよ。これのおかげで助かったんですから。まあ、そういうことは前もって教えてほしかったですけど」
はふ、とため息を吐き出して、ぐしゃぐしゃと髪を掻きまわす。さて、なんと切り出したものかな。
「……先輩」
「どうした」
「俺が、さっき男に言ったこと……聞いてましたか」
「聞いてない。知らない」
食い気味の即答に眉根を寄せる。メットを被ったままの先輩はそれきり口を閉ざしてしまう。メタモロイドの効果が切れて色が抜け落ちていくのを見つめながら、そっとヘルメットに手を掛けた。抵抗はなく、さら、と短い髪が揺れる。下を向く先輩の唇は、何かをこらえるようにきつく引き結ばれていた。
この人、嘘をつくのが下手なだけじゃなくて、嘘をつくのが後ろめたいんだろうなあ。だからこんな痛ましいような表情をしてしまうんだ、多分。
「聞かなかったことになんかしないでください。あれが俺の本心なんだから」
はっきりと困惑が浮かぶ瞳に見つめられ、不思議と気分は落ち着いていた。
「最近ずっと考えてたんですが、今日ようやく分かりました。結局俺は先輩に危ないことをしてほしくないんです。怪我一つしないくらいうまく立ち回れるとしても、もしも何かあったらなんて考えてしまう」
ほんの一瞬ためらって、それでも懇願することをやめようとは思えなかった。
「先輩。こんなこと、もうやめてもらえませんか」
「……ごめん。それはできない」
絞り出すような声で、それでも微塵も揺らいでいなかった。はっきりとした拒絶に、思っていたほどショックは受けなかった。
「シノを心配させるのは心苦しい。けど、私はずっとこうしたかった。高校の時からじゃない、もっとずっと小さいときからだ」
その瞳から困惑は消え、ただただ真摯に見つめられる。高校の時と同じようでどこか違う、迷いのない表情。自分の目標をひたと見据えた強い視線に射抜かれる。
「自分の力で多くの人を助けたいと願っていた。今その願いは果たされているし、この先もやめるとはどうしても思えない。きっと私は死ぬまでこうだ。……許してほしい。お前の優しさを受け取ることはできない」
頑なで、でもひどく申し訳なさそうな声だった。ここまできっぱり断られると、謝られない方が清々しくてよかったくらいだ。でも、なんとなくこうなるだろうとは思っていた。間違っても恨みがましくならないように、軽く笑い飛ばそうとする。
「ひどいですよ、先輩。後輩の厚意を突っぱねるなんて」
きっと上手には笑えていないんだろうな、と思いながらそう言うと、先輩の顔がくしゃっと歪んだ。大量の足音が聞こえてきて、警官がなだれ込んでくる。表情を引き締めた先輩が警官と早口で話し始めるのをぼんやりと見上げていると、俺にも声がかけられた。
「君が品川くんか?」
「え? ああ、はい……」
「いろいろ大変だったね。体調が回復してからでいいから、何があったか話してもらってもいいかな」
「もちろんです」
手を貸してもらって立ち上がり、促されるままついていく。鎖が壊れた手錠を見せて「取れますかねこれ」と尋ねれば、「取れるとは思うけど、なんでそういうことに?」と極めて当たり前のことを聞かれた。適当に誤魔化して行こうとすると、不意に視線を感じた。振り向くと、先輩と一瞬視線が絡んで、その唇が小さく動くのを見た。
「ごめん」
消えいるような声だったのだろう。実際誰も何も言わなかった。連れて行かれる前に、少し迷ったが小さく手を振ってみた。先輩は不思議そうにしていたけど、ちゃんと手を振り返してくれたので、多分これでよかったんだと思う。
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