第8話危険
視線を感じてふと振り向いても、誰もこちらを見てはいない。そういうことがここ数日で格段に増えた。素直に先輩にも相談すると、ぎゅっと眉間に皺をよせてから、
「できる限り一人での行動は避けること。連れて行かれそうになったら大声をあげて助けを求めること。大学の行き帰りは私が一緒に行く。悪いが異論は認められない」
「別に嫌がりませんよ。なんか小学生の不審者対策みたいですね」
「似たようなものだろ。それに、本当に切羽詰まった時にできることなんてほとんどない」
深刻そうな表情で語る先輩の唇が不機嫌に歪んだ。
「あのな、他人事のように聞いてるが他ならぬお前のことなんだぞ。もうちょっと危機感を持て」
「そんな緊張感ない顔してます?」
力強い頷きに首を傾げる。
「そんなに実感ないですからね。狙われてるって言われても現実味がないっていうか……どうしました?」
急にむすっとしてしまったのを見るに、何やら先輩の機嫌を損ねたらしい。
「私のスーツ姿まで見ておきながら現実味がないとは何事だ。しっかりばっちり現実だろうが」
「確かに見ましたけど、それと俺がつけ狙われてるってのが結びつかないんですよ」
「むう」
小さく唸った先輩は、しばらく押し黙っていたが結局何も思い浮かばなかったのか、眉間の皺を深くすると、びしりと指を突き付けてきた。
「とにかく、一人きりにはなるなよ! ハルさんにも相談しておくから」
そう締めくくった先輩は、ぶつぶつ呟きながら自分の部屋に戻ってしまった。気をつけます。
先輩に脅されてから、特に何事もなく過ぎたある日、買い物から帰ると先輩がちょうど出かけようとしているところに出くわした。片手には真っ黒なヘルメットを抱えており、着ているのは見覚えのあるライダースーツだ。
「あれ、お仕事ですか」
「ああ。今日も早くは帰れなさそうだ」
「気を付けてくださいね」
「お前もな。遅くに出歩くなよ」
「分かってますって。もう出かけませんから」
満足そうに頷いて出て行った先輩を見送り、鍵を閉める。買い物袋の中を覗き込んで、ふむ、と考え込む。
別にね、食材を少し……本当に少しだけ多く買い込んだのは、他意があってしたことじゃなくて。そう、先輩に呆れられてしまったものだから初心者向けの料理本なんかも買って試してみようと思っただけで、失敗した時のために材料を多めに確保しただけなんだ。本当にそれだけ。余った時にはあの帰る時間がころころ変わる先輩に分けたりすることもあるかもしれない。なーんて……。
我ながらつまらない言い訳だ。ため息をついてあらかじめ付箋を貼っておいたページを開く。
「本の通りにやれば失敗はしないでしょ、多分」
自分を励ますように呟いて、シャツの袖をまくる。野菜を切るくらいはやっているのでどうにかなるはずだ。そう思ってやってみると、予想外に時間がかかってしまった。
「この調理時間って、手際がいい人間がやった場合に限られるよな」
若干ふてくされながらそう結論づけて、調味料を計る。このままいけば何の変哲もない肉じゃがができるはずだ……多分。説明が簡単すぎて不安になるが、少なくとも食べられるものができないと困るのだ。
蓋をして後は煮るだけ……なんだけど、少し心配で鍋の前にずっと立っている。火が通るのにどれくらいかかるか分からないのが心許ない。普段から料理しておけばなあ、なんていっても後の祭りだ。火が通ったか確認するので穴だらけになってしまったジャガイモひとかけを味見して、ようやく人心地着いた。うん、普通の味だ。火を止めて、このまま放っておけば味がなじむ……と本に書いてあった。
どうにかできあがった肉じゃがは一人分には少々(嘘。かなり)多いが、まあ頼めば食べてくれそうな隣人もいることだしいいか! と無意味な言い訳を完結させたところでインターホンが鳴った。
「はいはーい……っと」
サンダルをつっかけて扉を開く。知り合いが来る予定もなかったし、宅配か何かかな、と警戒のけの字すら思い浮かばなかったのは、完全に失態だったと言える。
鋭くこちらを睨みつける、知り合いどころか宅配業者ですらないその男。誰何するより早く。全く無造作にこちらに手を伸ばす。まずい、と反射的に扉を閉めようとしたが、遅かった。素早く扉のふちに手をかけて押し入ってきた男に突き飛ばされて床に転がる。逃げなきゃ、とそれだけを考えて踏み出した足を掴まれ、抑え込まれる。叫ぼうとした口を塞がれ、武骨な手が首にかかった。
死ぬ。じわじわと首を絞められながら、その二文字が脳内を埋め尽くす。声が出ない。息ができない。考えが回らない。誰か助けを、呼ばなくては。でもああそうか、声が、出ない……。
先輩の警告をきちんと理解してなかったことを後悔しながら、意識が途切れるまでもがくことしかできなかった。視界が徐々に暗くなり、様々なことが一瞬で脳を駆け巡ったと思ったのだけど、掴めたのは肉じゃがの火を止めといてよかったな、なんてどこまでも平和ボケしたものだけだった。
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