第12話
ダニエル・ボスクベルグはレストラン『グアマンド』で働く唯一のアルバイトだ。いや、アルバイトというには少々語弊がある。彼は好き好んでこの場所で働いているわけではない。茶目っ気が強く愛想のいい彼が厳つく不愛想で有名な男の下安い賃金で働いているのは、正しく運命であった。
「父さん、雨やんでるよ」
店の出入り口から差し込む光に目を細め、帽子のつばを軽く上げた。
後ろにいるのは、上司でありこの家の店主である彼の父。一歩間違えれば指名手配犯として通報されてしまいそうなその風貌は、ダニエル――ダンとは似ても似つかない。ダンは父のことを尊敬していたが、容姿については正直似なくて正解であったと感じていた。
ルマンドは今にも吸い込まれそうなくらい大きな欠伸をすると、モップを動かす手を止めて顔を上げた。
「おお、ここ二、三日雨続きだったからなぁ。よかったよかった」
「すごいいい天気だよ。お日様てっかてかだもん」
「客の入りもよさそうだなぁ」
「俺、今日ちょっと早く帰ってくるよ。午後先生がいないんだ」
「いてもいなくても大して勉強なんかしないくせに、なに言ってんだか。しっかり勉強しろ脛齧りが」
再び動き出したモップの先に愛想笑いを浮かべて返し、太陽の光を胸全体に受け入れる。
ダンは朝が好きだ。眩しい光も新鮮な空気も、彼に新しい魂を与えてくれる。朝、店の扉を開けると同時に飛び込んでくる日の光が、彼の全身を活性化してくれるのだ。
少しだけひんやりとした朝の空気を吸い込んで、胸の底からそれを吐く。これが生命。これが生きるということだ。この瞬間、彼は『命』というものを実感するのだ。
「はぁー、いい天気だぁ。なんかこう、いいことありそうー」
「試験で主席でも取ってくれたらいいんだけどなぁ」
「そりゃあ無理だよ父さん。俺の頭は父さん譲りなんだからさ」
「俺に似てたらもうちょい出来がいいってもんだけどな」
「あっはっはっ。だからさー、ウィルさん」
ダンはそこでくるりと踵を返し、言った。
「そろそろ起きて自分の部屋に行ったほうがいいと思うよ」
カウンターの一番奥。いくつものグラスが並べられ、ごろごろと床に散らばった酒瓶の真ん中に、その男は存在した。
黒いジャケットにジーンズというどこにでもいる風貌のその男は、相棒のサングラスが汚れることも気にせずテーブルに突っ伏していた。右手には半分ほど酒の入ったグラス、右手には白いウサギのぬいぐるみ。なぜかこちらもげっそりとした表情をしているように見えるのは気のせいだろうか。
ルマンドはごしごしと懸命に床をモップで擦りつつ、なんとも同情に満ちた視線をウィルに向けた。
「のこのこホークウッドまで行ったにも関わらず相手の親に反対されたんだってなぁ」
「違うよ。もっといい男が出来たからフラれたんだよ」
「やっぱりグラサンのフリーターじゃ駄目だったんだなぁ」
「金髪で背の高い超イケメンだったらしいよ」
「だからせめて定職についておけばいいと言ったのになぁ」
全く隠す気なく目の前でされるゴシップに、ウィルの黒いジャケットがゆらりと揺れる。
「おい……何勝手なこと言ってんだ。なんだそのフラれたとか反対されたっていうのは」
不機嫌そうにされた問いかけに、ダニエルが澄んだ瞳を彼に向けた。
「え、だって事実ですよね」
「事実ってなんだ事実って。お前らは一体どういうことだと思ってんだ」
その質問に、ルマンドとダンが全く似ても似つかない顔と顔を見合わせた。そして、驚くほどにぴったりと息を合わせ答えた。
「漸くできた彼女と結婚するため実家に挨拶に行ったけど相手のご両親に反対されて追い出された」
「金持ちのイケメンと二股を掛けられていて話をツケに言ったら負けた」
「どっちも違う!」
ドン! と力強くテーブルを叩いた。その拍子に、空のグラスが三センチほど宙を浮く。
「あのなぁ。俺がわざわざガタゴト汽車で半日かけてあいつんちまで行ったのは、あいつの依頼の為! そんでさっさと帰ってきたのは、あいつの親が別のエクソシストを呼んできた為! 俺が落ち込んでんのは金が予定より三割も少ないから!」
「やっぱ二股かけられてんじゃないですか」
「お、おお……あっ、違う! かけられてない!」
「失恋はとても悲しいことだが、人間はそれを乗り越えて強くなっていくんだって学校の先生が言ってましたよ。ちなみのその人、今年に入って三人目の彼女に先週フラれたんスけど――」
「そういう話してねぇから!」
ウィルが再びカウンターを叩いたことで、耳を握られていた白ウサギがぽとりと床に落下した。白くて可愛くて愛らしいウサギのぬいぐるみなのに、どうしてこんな酒臭いカウンターなどにいるのだろう。可哀そうで仕方がない。
盗賊のような仮面の下、ルマンドはそのようなことを思いつつ、モップの柄の先をウィルに向けた。
「どうでもいいが、店の中で不貞腐れるのはもうやめろ。あと三時間で開けなきゃいけないんだ、開店準備があるだろう。まだ飲むっていうのだったら部屋に戻れ。酒代は別で請求するからな。おいダニエル。お前は早く学校に行け」
突如話を振られ、ダンは眉を潜めた。
「えぇ、俺もウィルさんと恋バナしたいんだけどー」
「あほか。こいつの半ば終わりかけてる人生よりもお前の始まってすらいない学業の方が大事だ」
「終わりかけている人生……」
ウィルの呆然とした呟きなど気にも留めず、ルマンドは椅子の上に放置されていた鞄を手に取り息子に向かって放り投げた。
「おっと」
「さっさと学業に勤しめ馬鹿息子。少なくとも、女にモテたかったらな」
赤毛の少年は何かを考えるようにしてじっと鞄を眺めると、いかにもしぶしぶといった様子で帽子を深く被りなおした。
「そうだね。俺、勉強は超嫌いだけど、かっこ悪くフラれて惨めな思いはしたくないよ」
「おい」
「じゃあ行ってきまーす」
ウィルの言葉など聞こえないという様子で踵を返す後ろ姿は父親とは似ても似つかない。ふさふさとした赤毛もひょろりと伸びた背丈も細い手足もなにもかも。その、この年代の少年特有の体つきが朝の光の中へ消えていき――
「いてっ」
「あ?」
何かに押され戻ってきた。尻餅をつき、胸元に何かを抱えるようにして。実際それは、たまたまお互いがよそ見をしていたから起きた体勢であろうし、ダンが戻ってこようと思って戻ってきたわけではないことも明らかであった。
「おいダン。戻ってくるの早すぎだろう」
使い古されたモップを持ち呆れた表情をする父親に、ダンは困惑の表情を向けた。
「違うって。だってこの子が――」
「この子?」
モップを抱えるようにして、ルマンドはダンの胸元に転がる茶色い塊を覗き込んだ。それからちょいちょいと今だ酒瓶の中心に佇んでいるウィルに手招きをする。
「おい、酒飲みニート」
「なんだ盗賊店長」
「これ、お前の彼女じゃないのか?」
そっ、とダンが開いた腕の中にいるブラウンの髪の毛には見覚えがあった。上等なシルクのブラウスもロングスカートも泥だらけの埃だらけ。スーツケースの一つも見当たらず、この年頃の少女にしてはひどくぼろぼろに汚れていて、決して大会社の社長令嬢がするような恰好には見えなかった。
ルマンドは、憔悴しきったように瞳を閉じる彼女の頬を撫で、手を取り、脈を測った。
「ただ寝てるだけだな。脈も安定してるし……」
「父さん、この子どうしてここにいるの? スクーター乗ろうとしたらいきなり来てビビったんだけど」
「俺が知るか。まぁ、なにか訳アリなのは確かだろうなぁ。おいウィル」
ルマンドはひょいと顎を動かし、彼の名を呼んだ。
「二階の空部屋で寝かせてやれ」
「はぁ? なんで俺が……」
「まさかこのままにしておくわけにもいかないだろう。お前は鬼か」
「えぇ……」
「まさかお前は、遠くの街からわざわざ半日以上掛けてやってきた女の子をこのまま放置しておくのか? ああん?」
ダンの日焼けした腕の中、汚れた彼女の体が少し揺れる。似ていない親子の恨みったらしい視線に根負けし、更には白ウサギから送られる呪怨に辟易として、ダンから華奢な彼女を受け取った。背中と膝の後ろに腕を入れて抱き上げると、その軽さと薄さに驚いた。
「どこに運ぶんだよ」
「二階の空部屋。鍵は空けてあるから好きに使え」
「不用心」
「掃除しようと思ったんだよ。丁度天気もいいしな。おい、ウィル」
「あ?」
階段を上がる一歩手前、名前を呼ばれ、肩越しに振り返る。そこには、厳つい顔の店主が、ごしごしと力強くモップで床を擦っていた。
「一時間、1200モールだからな」
「だからたけぇって」
だからと言って、彼に拒否権はないのだけれど。
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