第13話
築十数年の古い建物の二階にあるテナントには、どういうわけか人が居つかない。
先日までは探偵事務所、その前はヨガ教室。新興宗教の本拠地や学習塾であった時期も存在した。ウィルがこの建物に住み着いてもう二、三年――決して長いとは言えない期間に、随分立ち代わり入れ替わったものだと感心する。
入居理由は様々だが、退去理由も様々だ。理想的な物件が見つかった者、客が入らず夜逃げ同然で出て行った者、気がついたら消えていた者――顔もまともに覚えないうちに、様々な種類の人間が光の速さでこの部屋に入り出て行った。
そんな部屋ならよっぽど立地条件が悪いのだろうと勘繰るのだが、実はそういうわけではない。
駅までは歩いて二十分ほどで到着するし、この建物自体が商店街の端に建っているので買い物に不自由するというようなこともない。学校や図書館などの各施設も充実し、住むにはうってつけの場所ですらあると感じていた。
(なのに人が来ないっていうのは、一体どういう訳なんだろうなぁ)
建物古いせいかそもそも店主の問題か、なんにしろ、人が寄り付かないだけの理由があるには違いなかった。
知らない間にそそくさと出て行った先の住人は、置き土産を山ほど置いて行ってくれた。真新しい鍋、薬缶、マグカップ、冷蔵庫。デスクにソファ。それらを見るたびになんとも勿体ないことをしたものであるとウィルは常々感じていたが、今回ほどそれを感謝したことはなかった。なにせ、デスクの隣に簡易ベッドがなかったら、オリヴィアを寝かせることができなかったのだから。
鍋からマグカップにミルクを注いでいたウィルが振り向くと、オリヴィアはすでに目を開けていた。
「よぉ、起きたか」
彼の呼びかけに、オリヴィアは少しだけ目を向けた。それからそっと睫毛を伏せて、視線を逸らした。
ウィルはミルクとカフェオレの入ったマグカップを一つずつテーブルに置き、ソファに座った。
「すげぇビビった。お前、急に来るんだもんな。まさかの観光、ってわけでもないだろうし。どうした? 足りない分の金を払いに来たのか?」
デリカシーの欠片も感じられないウィルの言葉に、オリヴィアが小さく首を振った。それから、ゆっくりとカフェオレを飲むウィルを見つめ、口を開いた。
「……昨日の夜、雨が降っていて」
「ああ、そうだな」
「誰にも見つからないように、こっそりと家を出て馬車に乗ったの」
「馬車?」
「夜が遅くて、最後の汽車が出ていたの。けれど、どうしてもここに来たくて、だから馬車に乗ってきたの」
だからそんなにも汚れた格好をしているのか、とウィルは思う。泥だらけのブーツも、草の付いたスカートも、どれもこれも令嬢が身に纏うそれではない。
「朝まで待てばよかっただろ」
「駄目よ、待てない、待てなかったの」
「何をそんなに急いで……」
ウィルはそこで、彼女の瞳から流れ落ちる滴に気が付いた。
「……ラミントンが、戻ってきたの」
「……あ?」
「雨の中、ラミントンが戻ってきたの。ポーレットが捨てたのに。部屋には何もなかったのに。なのに、あの嵐の中、ラミントンは戻ってきたの」
「……どういうことだ?」
オリヴィアは頭を強く抱きかかえると、自分を守るかのようにしてこう叫んだ。
「お姉ちゃんはまだあの家で生きているのよ! あのクマのぬいぐるみの中で、わたしたちのことをずっと見ているのよ!」
何かに憑りつかれたかのようにして髪を振り乱す彼女には、以前の冷静さは見当たらなかった。
ウィルはそっとミルクを差し出し、背中を撫でた。
「落ち着けよ。あのぬいぐるみについては、お前の親父が連れてきたエクソシストが解決したはずだろ」
オリヴィアはふるふると震える指でマグカップを受け取り、
「……解決なんかしてないわ。だってあの子、戻ってきたもの。びしょぬれで、一人で……」
「誰か持って帰ってきたんじゃないのか?」
「あの暴風雨の中? 吹っ飛んだゴミ箱が塀に当たって粉々になるような天候で、誰がぬいぐるみなんて拾いに行こうと考えるの?」
「じゃあ風で吹っ飛んできたんじゃないのか?」
「私の部屋、二階なのよ? あんな大きなぬいぐるみが、私の家の二階にある私の部屋まで飛んでくるの? それが丁度良く窓から覗いてくるの?」
「もしかしたら」
「馬鹿にしないで!」
きっ、と吊り上がった彼女の瞳がウィルを射抜いた。瞬間、彼女の手の平から離れたカップが床に落ち、割れた。ガシャン! という硬質な音を立て、白いミルクが床を汚した。
「疲れていたから!? もう半分寝ていたから!? 気にしすぎだから、私がそんな夢を見るの!? わかってるわ、ぬいぐるみがそんなことするはずがないって! 動いたり、戻ってきたり、そんなことおかしいことだって!」
「おい、お前……」
「でも!」
そこでオリヴィアは、ひゅ、と息を飲み、肩を震わせた。
「……仕方がないじゃない……本当のことなんだから」
彼女の瞳から落ちる涙の粒。それは、ぽたりぽたりとシーツに落ちて、模様を作った。
「わかってるの……全部おかしいの……お姉ちゃんがぬいぐるみに憑りつくなんてわけないし……お化けなんていないし……わたし一人でやってるって……迷惑かかってるってわかってるの……でも仕方がないじゃない……だって、本当のことなんだもの……」
シーツに顔を埋める彼女の足元に、心配をしたような表情のプリンセス・トルタがやってくる。ソファに腰かけたウィルを責めるような瞳で一瞥し、ぴょんとベッドに飛び乗った。
プリンセス・トルタはぎゅう、とオリヴィアに抱き付いた。涙を拭うようにして頬ずりをして、甘えるように、甘えさせるかのように彼女の胸に顔を埋めた。
オリヴィアは放心するようにしてプリンセス・トルタのされるがままになっていたが、自分を取り戻すようにして笑みをこぼし、長い耳を撫でた。
「慰めてくれるのね……うれしい……ありがとう」
耳を撫で、顔を埋め、柔らかい布で覆われた低い鼻にキスを送る。柔らかなウサギを抱きしめたまま心臓のリズムでゆっくりと揺らして、自分の存在を再確認する。
「落ち着いたか?」
自分のマグカップが空になったことをきっかけに、ウィルはオリヴィアに声を掛けた。その頃には彼女の様子も大分落ち着いていて、くすくすという笑みを浮かべるくらいまで回復していた。
「ええ……ごめんなさい、取り乱して。迷惑かけたわ。マグカップも、ごめんなさい」
「まぁな。どんだけ金を積まれても足りないくらいだ」
「弁償するわ」
冗談交じりのウィルの皮肉にも、笑って答える余裕がある。が、プリンセス・トルタは今だ彼女の胸から離れない。オリヴィアは、プリンセス・トルタの耳を指先で撫でると
「……病院に行くって」
「あ?」
「折角パパがいいエクソシストを連れてきて、解決したのに、まだ私が幻覚を見るのはおかしいから……心の病院に連れていくって」
「心の病院? でもお前、ぬいぐるみが来たの見たんだろ」
「ええ。でも父は、私が錯乱して、あの雨の中自分で探しに行ったって」
オリヴィアはウサギを抱きしめる力を強め、続けた。
「今日の朝、父に病院に連れていくって言われてて……だからなんとかして、昨日のうちに家を出ないといけなかったの。雨だったけど、夜遅くだったけど……昼間だと、皆の目が厳しいから、部屋から出してもらえなくて、出てもすぐに連れ戻されちゃうから……」
オリヴィアはそこで顔を上げ、ウィルに目を向けた。
「お願い……わたし、もう、あなたしか頼れる人がいないの。頭が本当におかしくなりそう。失礼なことをしたのはわかっているわ。でも、お願い。力を貸して」
縋りつくような懇願に、ウィルは少しばかり考えるような仕草を取る。足を組み、頬杖を突き、拗ねるようにして眉を寄せた。
「力を貸してって言っても、お前金持ってないだろ」
「最低限のお金しか持ってなくて……急いでいたの。事が終わって家に帰ったらきっと払うわ」
「この間の金もまともに払われてねぇんだけど」
「父とポーレットが勝手に行ったことなの。本当に申し訳ないと思っているわ。家に帰ったら、きちんと全額払うから」
ウィルはジャケットの内側から煙草を取り出して、それを咥え、ライターで火をつけた。正直オリヴィアは、あまり煙草が好きではない――が、それを伝えられるような状況ではなかった。埃っぽい部屋の中を煙草の煙が舞い、肺を汚す。呼吸機能などついていないはずのプリンセス・トルタが咳込んで、居心地悪そうに耳を垂らした。
煙草の長さは半分ほどになった頃、漸くウィルが言葉を発する。
「あのなぁ。俺、今すげぇ不機嫌なの。一晩中酒飲んだせいで頭痛ぇし、喉も枯れてるし。寝てないどころかシャワーもまともに浴びてない」
「ごめんなさい」
「挙句の果てには、もう二度と会わないと思ってたどこぞの令嬢がやってきてくれたせいで、ここのオーナーに部屋の代金1200モール払わないといけない。微妙に値上がりしてやがるのが余計腹立つ」
「解決したらきちんと払うわ」
「見てみろ、ダンのやつ、結局学校行かないで店の手伝いしてるじゃねぇか。あいつ扉の外に耳貼り付けてこの会話聞いてるからな」
ウィルが指を向けるとほぼ同時、なぜか半開きになっていた部屋の扉がバタンという音を立てて閉まったのだが、つまりはそういうことなのだろう。
パタパタパタという階段を下る足音を聞きながら、オリヴィアは答えた。
「ダンくんには、あとで私が勉強を教えるわ」
「どうだかな。あいつ、すげぇ馬鹿だぞ。落第すれすれだからな」
「わたし、勉強教えるの得意なのよ」
胸を張り伝えるオリヴィアに向けて、煙草の煙をすぱー、と吐いた。目の前を覆う灰色に、オリヴィアとウサギが咳込む。サングラス越しでもわかる半眼でその様子を眺めてから、ウィルは立ち上がった。
「どこに行くの?」
漸くベッドから片足を出したオリヴィアの問いかけに、ウィルは肩越しに振り向いた。
「シャワー浴びてくる」
「シャワー?」
「風呂入ってねぇって言っただろ。こんな酒臭い恰好で働かせる気かよ」
ウィルの素っ気ない言葉を脳で反響させ数秒後、漸く理解した彼女は跳ねるようにしてベッドから立ち上がった。それと同時にプリンセス・トルタが床に落ちたが、そんなこと気になどならなかった。
「あ、ありがとう!」
オリヴィアの言葉に、ウィルは右手の動きだけで返事をした。それから、部屋を出る直前で立ち止まり、振り返った。
「お前もシャワーくらい浴びとけよ。そこの扉シャワー室だから」
言われて初めて、自分の姿を見下ろす。確かに、汗と泥で塗れたブラウスも染みだらけのスカートも、人前に出るようなものではない。
「タオルは、お店の人に言えば貸してもらえるかしら」
「脱衣所にある洗面所の引き出しに一式入ってるぜ。ついでに女ものの服も入ってたから」
「おんなもの……」
「前の持ち主の忘れ物だろ。サイズが合うかはわかんねぇけど、着てみれば。じゃ、俺は一度自分の部屋に戻るから」
ふあ、と小さな欠伸を一つ残し、ドアノブに手を掛けた。姿が完全に見えなくなる直前でもう一度、オリヴィアは彼を呼び止めた。
「ねぇ」
「あ?」
「シャワーを浴びたら、どこかに出かけるの?」
その問いかけに、ウィルはあからさまに面倒くさそうな表情を作ると、こう言った。
「アルビオンだよ」
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