第8話
ウィルが起きると帰りの車はすでに用意がされていた。
ピカピカのリムジンと恭しく礼をする運転手は彼には到底縁のないもの。さっさと帰れとばかりに渡された汽車のチケットを握りしめ、ニコニコと甘ったるい笑みを浮かべながらこれまた甘ったるいカフェオレを飲んでいるシャルルに声を掛けた。
「なぁあんた、これから悪魔祓い行うんだろう? もしよかったら見学させてもらえないか? 俺も曲がりなりにも同業者みたいなもんだからさ。たまには他のやつのやり方を見て勉強したいんだよ」
ウィルの提案に、シャルルはなるほどと頷いた。
「そういうことだったら大歓迎さ。Mr.エマリエルには僕から報告をしておこう」
「ああ、そうしてもらえると助かる」
にこにこと愛想のいい笑みを浮かべながら汽車のチケットを握り潰すウィルは、胡散臭いことこの上なかった。
儀式が始まるまでの間、ウィルとオリヴィアは暇であった。
オリヴィアはプリンセス・トルタを陰干しして、解れた個所を縫った。更にそのふわふわの毛皮をブラシで梳いて、耳には新しいリボンを付けた。更に愛らしさに磨きをかけた己の姿に、プリンセス・トルタは耳を振り回して喜んだ。ウィルはその様子を見て「化け物にも衣装だな」と失言し、耳で殴られ少しだけ顔を腫らしていた。
汽車のチケットを丸めて捨てたウィルはというと、プリンセス・トルタに殴られたこと以外、特に何もしていなかった。儀式の準備の為に館中を動き回っているシャルルを見ては欠伸をし、さもつまらなそうに頬杖をついていた。
「あなたは何もしないの?」
オリヴィアの問いかけに、ウィルはさも当然のようにこう言った。
「アホか。今回は“あいつの儀式”なんだから、あいつにやらせるのが筋ってもんだろ。他人の仕事に俺が口出ししたらいけないの」
などと偉そうな表情のままラウンジで煙草を吸い出して、ポーレットに嫌味を言われていたのだけれど。
悪魔とは全く縁がなさそうなくらいに穏やかな時間を過ごしたオリヴィアがシャルルによって呼び出されたのは、日付が代わる頃だ。
正直、こんな時間にどういうことだと彼女は思った。薄い寝間着にカーディガンを羽織り、小脇にプリンセス・トルタを抱えた状態で冷たい廊下を歩きながら、シャルルという男はよほど常識のない人間なのだろうと憤慨した。そして姉の部屋の床一面に描かれた落書きを見て、それは確信へと変わった。
怠惰な体勢で椅子に座り欠伸をしていたウィルに大股でつかつかと近寄ると、半ば寝欠けている彼の頭を思い切り引っ叩いた。
「あだっ」
「ちょっと」
「あ?」
「どうして止めてくれなかったの」
暗闇の中、蝋燭に照らされ光を反射するウィルのサングラスに、眉の吊り上がったオリヴィア自身の顔が映る。一度の欠伸を挟み、それはゆっくりと床に向けられた。昼間訪れたときにはなかったはずの魔法陣が、大きく床一面に描かれている。そこには一見落書きのようにも見える特殊な文字が羅列され、どこから運んだのか中心には小さな祭壇が施されていて、そこに座っているのはラミントンという菓子の名を持つクマのぬいぐるみ。両脇には赤ワインの注がれたグラスと一切れのパンが置かれていた。サークルをなぞるようにして並べられた百本超の蝋燭の揺らめきはあまりにも異様な光景だった。
そのうちの一本を手に取り配置を悩んでいるらしいシャルルを眺め、ウィルはゆっくりと首を傾げた。
「なんで俺が止めなきゃいけないんだ?」
「だってあなた、一部始終を見てたんでしょう?」
「俺が来たときはもうすでにこの状態だったぜ」
「同業者でしょう?」
「同業者だからって方向性が違うからなぁ」
オリヴィアは思わず引っ叩きたい衝動に駆られるが、ウィルの顎先が何かを指し示すようにして動いたことにより右手を引っ込める。
そこにいたのは、寝間着にガウンを羽織ったフリッツであった。深夜なのでそれほど機嫌はよくないのだろう、歴史ある眉間に更に深く皺を寄せ、オリヴィアを叱咤する。
「オリヴィア、Mr.レッドフィールドを責めるのはよしなさい」
「でもパパ……」
「これは私が許可をしたんだ」
オリヴィアは戸惑うようにして口を開き、言葉を発することなくそれを閉じた。助けを求めるようにしてウィルにそっと視線を向けるのだけれど、サングラスの彼は無駄だとばかりに首を振った。
父の視界から逃げるようにウィルの隣に並びこみ、シャルルの動向を見守る。父が大都市クラブトゥールから連れてたアルビオン直属のエクソシストは、未だ蝋燭の位置を決めかねているらしい。右に移し左に移し時には椅子の上、上等な菓子の名を持つクマの隣に配置をし、最終決定が下されたのはオリヴィアが三度目のくしゃみを放ち夢の世界に旅立ったウィルが椅子から転げ落ちたときだった。
シャルルはまるで役者のように両手を広げ白いローブを翻しながら立ち上がると、やたら芝居掛かった口調でこう放った。
「皆さま、寒い中大変お待たせいたしました。これより儀式を始めます」
「……待たせすぎだ」
これはウィル。正直オリヴィアも同じ思いを抱いていたのだけれど、サングラスの彼は内部に押し留めることに失敗したらしい。シャルルの端正な顔がぴくりと引き攣るのが分かったのだが、彼は一瞬でその感情を削ぎ落し、爽やかな好青年の仮面を装着した。
「儀式を始める前に、いくつか皆様に言っておくことがあります。まず、悪魔祓いと聞くとどうしても恐ろしいものをイメージしてしまうかと思われますが、決してそのようなことはございません。このシャルル・ロワイエの名に懸けて、皆さまの安心と安全を保障することを誓いましょう」
「保険のキャッチフレーズかよ」
椅子に腰かけたままぼんやりと放たれたウィルの言葉は、ただの独り言なのかそれとも嫌味だったのか。少なくとも、シャルルの青い瞳を独り占めするには充分な効力を持っていた。
「ちょっと……」
オリヴィアの忠告に、ウィルはぴゅー、とそっぽを向いて口笛を吹いた。なんとまぁ、子供じみた行動をする男である。
シャルルは、こほん、と一つ咳払いをし、続けた。
「次に、悪魔は人間の悪意、衝動、欲望を好物とするとても下等な存在です。奴らは時として私たちを様々な方法で挑発し、私たちから悪意を引き出そうとします。決して奴らの誘いには乗らないでください。……Mr.レッドフィールド。よろしくお願いしますよ」
シャルル直々に願いを受けたことにより、だらしなく耳をほじっていたウィルの動きが暫し止まる。
「できたらな」
ふう、とほじくり返した指先に息を吹きかけるウィルのことを、シャルルがどんな思いで見つめていたのかはわからない。馬鹿にするような諦めているかのような、それとも期待をしているかのようにも見える曖昧な微笑みを浮かべると、勉強机の上に置かれていた本を手に取った。恐らく彼の私物なのであろう、姉の部屋では見たことのない奇妙な表紙の厚い本である。
「それではみなさん、ご清聴のほどをよろしくお願いします」
ぺこりと施された優雅な一礼は、舞台の開演を知らせる合図だ。奇妙な表紙の本を片手に始まる。
「漆黒に惑わされしものよ……暗闇に生まれ暗闇を住処とし鮮血に喜びを見出しものよ、 煉獄の炎を纏い犬の遠吠えに呼ばれしものよ……太陽の神アテンの名に於いて冥府に帰ることを命ずる」
シャルルの呼びかけに応じるように、グラスに注がれたワインがゆらゆらと波線を立て始めた。それは次第に大きくなり、広がり、便乗するかのようにして蝋燭の炎も動きを見せた。
「昼の敵、夜の情婦……人々の苦しみを糧とし悲しみを喜びとせし者たちよ……光を憎しみ暗闇を好みし者たちよ……太陽の神ソールの名に於いて……光の神バルトルの名に於いて……」
赤い炎は大きくなり、小さくなり、細く、長く、激しく弱く、部屋の中央に座っているクマのぬいぐるみを照らしていた。落ち着かない様子でシャルルの言葉に反応をする炎とは対照的に、ラミントンと名付けられた茶色いクマは非常に行儀よく着席していた。シャルルの斜め後方で欠伸をしているウィルよりもきちんとしているほどであった。
シャルルの唇から放たれる呪文は肌寒い深夜の部屋の気温を数度下げた。彼の言葉は渦となり、風となって、シャルルの羽織っているローブの裾を躍らせた。
「混沌を崇めしものよ……月の神ケリドウェンの名に於いてここから立ち去れ!」
瞬間、ふらふらと表面に波を描いていたワインのグラスが、パリン! という甲高い音を立てて割れる。突然の出来事に驚いたオリヴィアが、「きゃあ!」という叫び声をあげてウィルの背中に抱き付いた。フリッツでさえも初めて遭遇する不可解な出来事に驚愕し、厳格なその顔を歪ませていた。
「なんと……!」
パタリ! とクマのぬいぐるみが椅子から転げ落ち、蝋燭の炎が全て消える。それも一斉に、まるで何者かがタイミングを計ったかのようにして。
数秒遅れ、部屋の中を彷徨っていた暗黒の香りのする風が止んだ。恐らくシャルルが付けたのだろう、数時間ぶりに見た蛍光灯の下に現れた姉の部屋。奇怪な文字列が並んだ魔法陣に、ドロドロに溶けた蝋燭達。椅子から転げ落ちたクマの下に広がった赤ワインは、まるで血を流しているかのようにも見えた。オリヴィアはそっと口元を手で覆った。
真っ青な顔で立ちすくむオリヴィアとは対照的に、シャルルはまるでスポーツ選手のような爽やかさで歯を見せた。
「皆様、お疲れさまでした。皆様の協力もあり、悪魔を無事還すことができました」
本を置き、汗を拭うシャルルの姿はそれだけで充分価値がある。異常事態が受け入れられず固まっていたフリッツは漸くのこと我に返ると、
「……悪魔は、祓えたのか」
「はい」
「……ではもう、この家でおかしなことは」
「なにもありません。あなた方を脅かす魔物は、この家のどこにも存在は致しません」
恭しくも礼儀正しいシャルルの言葉に、フリッツはそっと目を閉じた。そして、魔法陣の上に転がったクマを拾い上げ、「そうか」と一言呟いた。
オリヴィアは、プリンセス・トルタの名を持つウサギのぬいぐるみを抱えたまま、厳格な瞳を陰らせる父の横顔を見つめた。思いつめる様子でクマを抱きかかえる父に、何かを言いたくて、何かを言おうとして――けれど手をひっこめた。行き場を失った彼女の指は、そのままウサギの耳元に沈んでいった。
ウサギを抱えたまま、未だ椅子に座り続けるウィルに視線を向けた。彼はただ、眠たそうな瞳をサングラスの奥に隠したまま、だらしない体勢で椅子の上に座っていた。
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