第7話

「トンネルを抜けると雪国であった」というのは極東に伝わる古い文献に乗っている一文であるが、ウィルが階段を上ると祭りであった。祭り。十数人もの使用人が寝間着のままバタバタと歩き回り、へこへこと腰を折り、大きな声を飛ばしている、祭り。これが祭りではなく、一体なんと言えるのだろう。もしここが人里離れた丘の上ではなく市街地のど真ん中であったとしたら、間違いなく隣三件から苦情を受けるであろうという程度の賑やかさだ。その、騒音の中心にいるのが中年の男。見るからに上等な背広を来たその紳士は、ウィル――違う、正確に言えば彼の後ろからひょこひょこと出てきたオリヴィアだ――を見ると、他に目をくれることもなくカツカツと革靴を鳴らし、一直線に歩いてきた。

 その鋭い眼光に、オリヴィアがウサギを抱えた手に力を込めた。

「パパ……」

 ウィルを通り過ぎ、オリヴィアの前で立ち留まった黒い背広。紳士ははぁ、と嘆息すると、まるで幼い子供を諫めるような口調でこう言った。

「オリヴィア。お前はどうしてそう、パパの言うことが聞けないんだ」

「だ、だってパパ……」

「ポーレットから話は聞いた。突然家を飛び出して、カスターニャ市なんぞに旅行に行っていたらしいじゃないか。キチンと家を守り勉強をしろと伝えてあったはずだろう」

「旅行じゃないわ! わたしは、家のことを考えて――」

「家のことはポーレットに任せろと言っただろう。ポーレットも心配していたぞ。急に家を飛び出したと思ったら、訳の分からない男を連れて帰ってきたと」

 紳士はそこで漸くの事隣で立っているウィルに視線を向けた。それからそれをオリヴィアに戻し、

「何かの当てつけのつもりか」

「違うわ! 彼はとても腕の立つエクソシストで――」

「そのことだったらパパに任せろと言っただろう」

「で、でも……」

 オリヴィアはただの人形に成りきっているプリンセス・トルタを抱きしめ、俯いた。紳士は再び短く息を付くと、手袋を外してウィルに向けた。

「初めまして。私の名はフリッツ・エマリエル。オリヴィアの父です」

「……どうも。ウィリアム・レッドフィールドです」

 差し出された掌を握りしめ、その経験と知識、また教養の深さを知る。

 フリッツはさも呆れたというばかりに眉間の皺に指先を当て、首を振った。

「申し訳ありません。きっと娘が我儘を言い、無理に連れてきてしまったのでしょう。せめて元気に健やかにと育てて来たら、予想以上に機関坊な娘になってしまい……」

「パパ! その人は私が……」

「オリヴィア。人様に迷惑をかけるのは褒められたことではない。明日の朝には発てるよう準備をしよう。ポーレット、Mr.レッドフィールドに汽車の準備を」

「パパ!」

 オリヴィアはウサギを放り上げ、フリッツの腕にしがみついた。投げられたウサギは、無事ウィルの腕の中に落ち着いた。「ぐぇ」という鈍い音を立てたのだが、恐らくそれは、ウィル以外の誰も気が付いていないだろう。

「違うの! 彼はエクソシストで、この家を助けるために――」

「お前が心配をするようなことは何もない。腕の立つエクソシストだったら、パパがクラブトゥールから連れてきた」

「そんな……」

 フリッツは、腕に絡みつく娘の指先をそっと放すと、少しばかり離れた場所に佇んでいた若い男の名を呼んだ。

「シャルル・ロワイエくん。アルビオン直属のエクソシストだ」

 シャルルと呼ばれた若い男は、にこり、という爽やかな笑みを浮かべた。

「初めまして。シャルル・ロワイエです」

 輝くような金髪に白い肌。端正な顔立ちと、それを彩る青い瞳。もしもこの世に天使がいるとするならば、恐らくこのような容姿なのだろう。百人中百人がそう答えるだろうというくらいに、シャルルは整った容姿をしていた。白いローブと胸元に光る十字架は、神に仕える人間の証だ。差し出された細い手はまるで女のようでもあり、そこには傷の一つも見当たらない。ウィルはそれを握りしめながら、恐らく自分と大して変わらない程度の年齢だろうと検討を付けた。

「……どうも」

 シャルルは若い女が好むような細い体をしているが、その分とても背が高い。エクソシストよりも、モデルや舞台俳優のほうがよっぽど向いているだろう。彼はいくらか値踏みするようにしてウィルのことを眺めると

「君もエクソシスト?」

「……まぁ、似たようなもんかな」

「へぇ。ということは、幽霊や悪魔を祓ってみたり」

「そんな感じの真似事みたいなことはしてる」

「へー。すごいね君。尊敬するなぁ」

「……どーも」

 身長差のせいだけではないだろう、どうも見下されているような気分になりながら、ウィルは唇の端を無理やりあげた。

 フリッツはシャルルの背中をポンと叩くと、

「彼はアルビオン直属のエクソシストでな。クラブトゥールでは、いくつもの事件を解決している有能な人物だ」

「いえいえ、そんな……」

「シャルルくんならば、きっとこの家に起こっている怪現象を解決してくれることだろう。彼には暫くの間この家に滞在して頂くつもりだから、皆失礼のないように。誰か、部屋の準備を」

 館の主人の発言に、その場にいた数人の使用人が一斉に動き出す。使用人とはなんとも難儀なものなのだろう。彼らには、命令を受ければ昼も夜も関係ないのだ。

 バタバタと世話しなく散らばっていく使用人達をぼんやりと眺めていたウィルに、フリッツが声を掛けた。

「Mr.レッドフィールド」

「はい」

「娘が申し訳ないことをした。不躾な娘に代わり、例を言おう。明日一番にでも帰れるように準備をさせるので、どうかそれまでゆっくりしていてくれ」

 ぺこり、と軽く頭を下げると、忙しいこの家の主人は、これまた忙しく声を上げながら忙しそうに去っていった。恐らく自室にでも行くのだろう。そしてその後ろを忙しそうに追いかけるポーレッド。全く、巨大なこの家には休みというものはないのだろうか。

 自分の知らないうちに知らない場所であらゆることが進められ、ウィルはある種の置いてけぼりを喰らってしまう。いつの間にやら誰もが去ってしまった空間で、オリヴィアと二人、ぬいぐるみの真似事をするウサギを抱えたままぼんやりと立ちすくむ。

 そんな彼の封印を解いたのは、シャルルであった。

「もしかして、君もアルビオン?」

 数センチ上から自分を見下ろす青い瞳に、ウィルは正直、この男まだいたのかとそう思った。が、それは胸の中でだけに収め、応答する。

「いや、俺は違う」

「でもそれ、アルビオンの象徴だよね?」

「似てるけど違うよ」

「そうなんだ。どこの土産屋で買ったの?」

「はは、うまくできてるだろ」

 愛想笑いを浮かべるウィルに、シャルルもまた、女が喜びそうな甘い笑みを浮かべた。

「まぁ、この件に関しては僕に任せてくれよ。うまくやってあげるからさ」

 ぱちん、とまるで流れ星のように飛ばされたウィンクに、ウィルは思う。もしも自分が女ならばこの場で鼻血を出して倒れていたのかもしれないが、残念ながら自分は男。同性にウィンクを飛ばれて、大して喜ぶはずもない。

「シャルルさん、お部屋の用意ができました」

 先ほど四方に散らばった使用人の一人が階段の上から呼んでいる。

「ああ。わかった。それではオリヴィアさん、Mr.レッドフィールド。また」

 高い背丈を損なうことなく颯爽と去っていく彼の後ろ姿は、まるで舞台のワンシーンだ。それが見えなくなるまで見送って

「あてっ」

 途端、ぬいぐるみの皮を脱ぎ捨てたプリンセス・トルタが、ウィルの顔面を叩き上げた。無論、耳で。

「何すんだようさ公!」

「うさ公じゃない! あー、やだやだあの男! オリヴィアに、こーんなやらしい目しちゃってさぁ! 馬鹿みたい! あいつ、絶対エロ親父よ! ねぇオリヴィア! あんな変態に部屋に呼ばれても、絶対についていっちゃ駄目だからね!」

 頭上で腕を組むようにして耳を交差させるプリンセス・トルタのプライドは一級品だ。

 オリヴィアは、足元でぷりぷりと沸点を上げるトルタを抱き上げ、悩むようにして眉を潜めた。

「今の人……エクソシストって」

「らしいね」

「アルビオンから来たって」

「みたいだな」

 鼻でもほじりだしそうなウィルの言葉に、オリヴィアは思わず声を荒げた。

「どうするのよ。あなた、仕事取られちゃうわよ」

「取られるも取られないも、あんたが俺をここに連れてきたんだろうが」

「あなたもエクソシストでしょう」

「あのね、何回も言ってるけど俺はエクソシストじゃないの。周りはそう言ってるけど、違うの」

「でも、幽霊退治できるんでしょう?」

「一応はな」

「いいの?」

「何が」

「……あの人に、いい顔させても」

 しゅん、と耳を垂らしたような彼女の態度に、ウィルは少しばかり考え込むようなそぶりを取った。それから意味もなくポリポリと顎を掻き

「……いんじゃね?」

「はぁ?」

「だってあいつ、お前のパパさんがわざわざクラブトゥールまで出向いて連れてきたんだろ? クラブトゥールって、ここから汽車で丸一日かかるじゃねぇか。そんなとこから出向いてもらって、ただで帰すのも悪いだろ。だったらそれ相当の働きをしてもらった方がお互いいいだろ?」

「そ、そうだけど……あなたの立場は……」

「俺は一度失敗してるからね」

 両手を天に掲げ首を傾げる彼の行動に、オリヴィアは唇を噛みしめる。そんな彼女の様子など気にも留めず、ウィルは彼女に背中を向けた。

「どこに行くの?」

「寝るさ。今、何時だと思ってるんだよ。あと数時間で夜が明ける」

「でも……」

「平気だろ。何かあったら、アルビオン直属のエクソシスト様が助けてくれるさ。こんな、降霊もまともにできないようなインチキエクソシストよりもな」

「でも……」

「じゃ、おやすみ」

 背中越しにひらひらと去ってゆく彼の背中。オリヴィアはそれが見えなくなるまで見送って、自室に戻り力いっぱい扉を閉めた。

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